土の下の、逆流
朝。
ロルフが畑に来ると、フィンがすでにいた。
地面に計測器具を何本も刺して、手帳に数字を書き込んでいる。羽根つきの帽子が、朝の霧に濡れていた。
「おはようございます!」
フィンが振り返って、満面の笑みで言った。
「朝の地脈が一番読みやすいので、早めに来ました!」
「勝手にやってたのか」
「ダメでしたか」
「構わない」
そこへリゼットが来た。
フィンと、地面に刺さった計測器具と、ロルフを順番に見た。
「……一言言ってください、次から」
「すみません!」
「ロルフさんもです」
「俺は何もしてない」
「許可したでしょう」
「言われてから言った」
「事後報告です」
フィンが「仲がいいですね」と言った。
リゼットが「仲良くはないです」と言った。
ロルフが何も言わなかった。
朝食の後、ロルフはフィンを白い土の場所へ案内した。
果樹の列の端。小枝が五本刺さっている場所。
フィンが近づくと——立ち止まった。
計測器具を構える前に、ただその場所を見た。
「……白いですね」
「三日前から広がってる」
「触っていいですか」
「どうぞ」
フィンがしゃがみ込んで、白い土に指を触れた。
すぐに手を引いた。
「冷たい」
「昨日気づいた」
「地脈の水じゃないですね、これ。地脈の水は温かいはずなので」
「そうだな」
フィンが計測器具を取り出した。
細い金属の棒を、白い土の中心に刺す。器具の上部についた目盛りが、じわじわと動き始めた。
フィンが数値を読んだ。
顔色が変わった。
「……ロルフさん」
「うん」
「逆流の強さが、昨日の地脈図より上がってます」
ロルフは少し間を置いた。
「一日で?」
「一日で」
フィンが別の器具を取り出した。
今度は、もっと長い棒だった。地面に深く刺して、目を閉じる。何かを読み取るように、しばらく黙っている。
やがて、目を開けた。
「逆流の発生源が、豊村の真下じゃないことがわかりました」
「どこだ」
「もっと深い。地脈の合流点——いくつもの地脈が一つに集まる、根っこの部分から来てます」
ロルフは白い土を見た。
(……根っこか)
「広がるのは続くか」
「止まる要因がなければ、続きます」フィンが器具を引き抜きながら言った。「それも、だんだん速くなりながら」
ロルフは土を一掴みした。
冷たかった。
確かに、冷たかった。
シオンが来たのは、昼前だった。
リゼットに「フィンさんが呼んでます」と言われて、畑へ来た。
フィンが「確認したいことがあって」と言って、白い土の前までシオンを連れてきた。
「シオンさん、この土に触れてみてもらえますか」
シオンが白い土を見た。
少し間があった。
「……触れる前から、何か感じます」
「どんな感じですか」
「引っ張られるような」
フィンが手帳に素早く書き込んだ。
「触れてみてください。無理そうなら止めてください」
シオンがしゃがみ込んだ。
白い土に、そっと掌を当てた。
次の瞬間——顔が青くなった。
ロルフがすぐに隣に来た。
「大丈夫か」
「……大丈夫です。でも」
シオンが掌を白い土に当てたまま、静かに言った。
「引っ張られます。夢で見た感覚と——同じです」
フィンが計測器具の数値を読んだ。
「シオンさんの毒が、白い土に反応してます」フィンが言った。「数値が、触れる前と全然違う。まるで——同じ根を持つものが、引き合っているような」
シオンが手を引いた。
ロルフがその手を支えた。
ロルフは白い土を一掴みして、目を閉じた。
大地の奥から、鼓動が返ってくる。
別の鼓動。
いつもより、はっきりと。
(……呼んでいる)
何かが——シオンを、呼んでいる。
ロルフは土を置いた。
目を開けた。
何も言わなかった。
午後。
フィンが縁側に座って、手帳のデータをまとめていた。
ロルフとシオンが向かいに座っている。
リゼットが茶を持ってきた。
フィンが手帳を広げた。
「整理します」
フィンが言った。
「地脈の逆流は、深部の何かが意図的に起こしています。自然現象じゃない。方向が一定すぎる」
「意図的に、というのは」
「誰かが、あるいは何かが——地脈の向きを変えようとしている。それも、かなり長い時間をかけて」
シオンが静かに聞いていた。
「その何かは——シオンさんの毒と同じ性質を持っています」フィンが続けた。「さっきの数値がそれを示してます。つまり、神の力と関係している可能性が高い」
リゼットが「神の力」と小声で繰り返した。
「地脈には、発生点があります」フィンが手帳に図を描きながら言った。「全ての地脈が生まれる場所。研究者の間では『根源の大地』と呼ばれています。逆流の源は——おそらく、そこです」
ロルフが聞いた。
「行けるか」
「行けます」フィンが少し間を置いた。「でも」
「でも?」
「そこは、地脈が最も濃い場所です。魔力の密度が、他の場所とは比べ物にならない。普通の人間には、近づくだけで意識を失います」
ロルフが言った。
「俺たちは普通じゃないけど」
フィンが少し考えた。
「……それもそうですね」
シオンが小さく笑った。
「遠いんですか」フィンに聞いた。
「地脈で移動すれば、数日です。歩いたら——一ヶ月以上かかります」
「地脈で移動、というのは」
「地脈の流れに乗る感じです。コツがいりますが、教えられます」
「僕にもできますか」
「シオンさんなら、むしろ得意だと思います。毒の感知能力が高い方は、地脈の流れを読むのも早いので」
シオンがロルフを見た。
ロルフが頷いた。
「準備が整ったら、行く」
「いつ頃ですか」
「畑の手入れを済ませてから」
フィンが「畑が最優先なんですね」と言った。
リゼットが「いつもそうです」と言った。
夜。
フィンはリゼットの家に泊めてもらうことになった。
「測定器具が多いので広い部屋がいいんですが」と言ったら、リゼットに「納屋ならあります」と言われた。フィンが「納屋で大丈夫です! 地脈に近い方が寝やすいので!」と言った。リゼットが遠い目をした。
ロルフは一人で縁側にいた。
霧が薄かった。
星が、少し見えた。
足音がして、シオンが来た。
隣に座った。
しばらく、二人で霧の向こうを見ていた。
「……根源の大地」
シオンが静かに言った。
「怖いですか」とロルフに聞いた。
「怖くはない」
「でも」
「でも?」
シオンが少し間を置いた。
「僕のせいで、また遠くへ行かなきゃいけない」
ロルフは霧の向こうを見たまま言った。
「君のせいじゃない」
「でも、引き寄せているのは僕の毒で——」
「土がそう言ってるから行くだけだ」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
「……それ、慰めになってますか」
「なってないか」
シオンが少し黙った。
「……なってます」
小さな声だった。
ロルフが、シオンの方を向いた。
「根源の大地に何があるかは、まだわからない。でも」
「でも」
「君と一緒に行く。それだけは決まってる」
シオンが、また黙った。
今度は、少し長く。
「……農夫なのに、たまにそういうことを言いますね」
「農夫だから言える」
「どういう意味ですか」
「農夫は、自分の畑から離れない」
シオンが、小さく笑った。
霧が、静かに流れていた。
地脈が、その下を流れていた。
逆に。深く。
それでも——二人の隣に、土は温かかった。




