訪問者は、突然来る
朝。
シオンの顔色が、昨日より良くなっていた。
ロルフが確認するように額に手を当てると、シオンが「体温を測るのは三回目です」と言った。
「二回目だ」
「朝起きた時と、朝ごはんの後と、今です」
「……三回だったか」
「心配してくれるのは嬉しいですけど」
シオンが少し笑った。
「大丈夫です。昨日よりずっと軽い」
ロルフは手を引いた。
確かに、体温は正常だ。毒の流れも安定している。昨日一気に解放した反動は、一晩でほぼ抜けている。
回復が早い。
神の末裔というのは、こういうことか。
「昨日——」
シオンが、少し間を置いてから言った。
「全部使って、どうでしたか」
ロルフは少し考えた。
「最高だった」
シオンの頬が、じわりと赤くなった。
「……そういうことを、さらっと言わないでください」
「事実だけど」
「事実でも」
「なぜ駄目なんだ」
「駄目です」
シオンが顔を背けた。
耳まで赤い。
ロルフは首を傾げながら、鍬を担いだ。
広場では、テオが一人で土を掘り返していた。
真剣な顔で、両手を使って、せっせと掘っている。
リゼットが仁王立ちで見下ろしていた。
「テオ、何をしてるんですか」
「シオンさんに教わった、土の声を聞く練習」
「それは掌で触れることであって、掘り返すことじゃないです」
「深い方が声が聞こえると思って」
「思わなくていいです。埋め戻してください」
「でも——」
「今すぐ」
テオが渋々、掘り返した土を戻し始めた。
ロルフが横を通りかかると、テオが顔を上げた。
「ロルフさん、深く掘ったら声が聞こえますか」
「聞こえない」
「なんで」
「耳は土の中にないから」
テオが「じゃあどこで聞くんだ」と言った。
ロルフが「指の腹」と答えた。
テオが「触れるだけでいいの?」と言った。
ロルフが「触れるだけでいい」と答えた。
テオが「じゃあ最初から教えてくれよ!」と言った。
リゼットが「テオ、まず埋め戻す」と言った。
マルタが来たのは、午前中だった。
昨日持ってきた土の診断結果を聞きに来たのだ。
シオンが丁寧に説明した。
「マルタさんの村の土は、水はけが悪いです。毒果樹の根は水に弱いので、このままでは育ちません」
「じゃあ駄目か」
「改善できます。排水路を作って、土に堆肥を混ぜれば、半年で変わります」
「半年か」
「急ぐなら三ヶ月でもできますが、土が安定しません。半年の方がいいです」
マルタがしばらく考えた。
「……わかった。半年でやる」
「では、堆肥の作り方をお教えします。ロルフさんに教わった方法で——」
「ロルフ様に直接聞けないか」
シオンが少し間を置いた。
「……ロルフさんに聞いた方がいいですか」
「あんたに聞いた方が、わかりやすいからな」
シオンがまた少し間を置いた。
今度は、表情が少し変わった。
柔らかくなった。
「……わかりました。一緒に畑を見ながら話しましょう」
マルタが頷いた。
二人で畑の方へ歩いていく。
ロルフはそれを遠くから見ていた。
(……シオンが、教えている)
毒を抱えて、死を待っていた少年が。
今は誰かに、土のことを教えている。
ロルフは何も言わずに、次の畝へ向かった。
昼過ぎ。
ロルフは一人で、果樹の列の端へ向かった。
白い土の様子を確認するためだ。
近づいて——足を止めた。
目印の小枝が、四本になっていた。
昨日の夜、ロルフが三本目を刺した。
四本目は——刺した覚えがない。
ロルフはしゃがみ込んで、四本目の小枝を見た。
自分が刺したものと、同じ太さの小枝だった。
誰かが——刺した?
いや。
ロルフは四本目の小枝の根元を見た。
白い土の端に、小枝が一本、自然に倒れていた。
昨日より範囲が広がった分、端に立っていた小枝が、倒れて白い土の外に出た——そういうことだ。
つまり。
(……また、広がった)
ロルフは白い土の端を指でなぞった。
昨日より、拳一つ分、外側に広がっている。
そして——
白い土のそばに、小さな水たまりがあった。
雨は、ここ数日降っていない。
地下から、滲み出てきた水だ。
ロルフはその水に指を浸した。
冷たかった。
(……おかしい)
地脈の水なら、温かいはずだ。
土の中を流れる水は、地熱を帯びる。
これは——冷たい。
体温のない何かが、土の下で触れたような。
まるで——
(地脈が、押し出した水だ)
地脈そのものじゃない。
地脈が「何かに押されて」、行き場を失った水が地表に滲み出てきた。
ロルフは水から手を引いた。
立ち上がった。
空を見た。
雲が、少し多い。
(……フィンへの手紙、届いただろうか)
昨日出したばかりだ。届くとしても、早くて数日後だろう。
ロルフは目印の小枝を一本追加して、立ち上がった。
小枝が、五本になった。
夕方。
村の入口の方から、声がした。
「すみませーん! ロルフさんという農夫の方はいますか!?」
妙に明るい声だった。
リゼットが入口へ向かった。
ロルフも、鍬を担いだまま後に続いた。
村の入口に立っていたのは——二十代半ばの、やたらと荷物の多い青年だった。
背中に地図の筒を何本も差している。腰には見慣れない計測器具がいくつもぶら下がっている。頭には、羽根のついた帽子。
どこからどう見ても旅人だが、どこからどう見ても普通ではない。
リゼットが「どちら様ですか」と聞いた。
青年が満面の笑みで答えた。
「フィンです! 地脈研究家です! ロルフさんから手紙が来たので飛んできました!」
リゼットがロルフを見た。
ロルフを見た。
また、フィンを見た。
「……手紙、昨日出しましたよね」
「出した」
「昨日出した手紙が、今日届いて、今日来たんですか」
「地脈で移動したので!」と、フィンが元気よく言った。
「……意味がわからないです」とリゼットが小声で言った。
フィンがロルフに気づいた。
目を輝かせた。
「あなたが【毒素等価交換】の人ですか!!」
「そうだけど」
「会いたかった!! 地脈の流れを観測していたら、豊村の周辺だけ異常に活性化していて、ずっと気になってたんです! それで手紙が来た瞬間に、これは絶対行かなきゃって思って——地脈の流れに乗ったら半日で来られたんですが、途中で測定器が一つ壊れてしまって、でも他の器具で代用できたので問題なかったんですけど、それよりここの地脈——」
「落ち着いてくれ」
「落ち着いてます!」
シオンが横からそっと言った。
「落ち着いてないと思います」
フィンがシオンを見た。
一瞬、固まった。
「……あなたが、神の毒を持つ方ですか」
「そうです」
「なるほど。地脈の活性化の中心に、もう一つ強い毒の気配があると思っていたんですが——なるほど、なるほど」
フィンが手帳を取り出して、何か書き始めた。
リゼットがロルフに小声で言った。
「……大丈夫ですか、この人」
「腕は確かだと聞いた」
「性格は聞きましたか」
「聞いてない」
「聞いてきてほしかったです」
夜。
フィンが地脈図を広げた。
大きな紙だった。豊村を中心に、周辺一帯の地脈の流れが細かく書き込まれている。王都まで繋がる幹の地脈、辺境へ伸びる細い支脈、そして——
「見てください」
フィンが地図の一点を指差した。
「王都周辺の地脈は、ここ最近で解放されてますよね。ロルフさんの仕事の結果だと思います」
「そうだな」
「でも——この深部の流れ、おかしくないですか」
フィンが指をずらした。
豊村の真下を通る、深い地脈。その流れが——逆を向いていた。
他の地脈は全て、王都から辺境へ向かって流れている。
でも、この一本だけが。
辺境の深部から——王都へ向かって、逆に流れている。
「まるで誰かが、意図的に地脈の向きを逆回しにしているみたいで」
ロルフは地図を見た。
逆流が走っている方向と——白い土が広がっている方向が、一致していた。
ロルフは椅子から立ち上がり、縁側へ出た。
土に指を刺した。
目を閉じた。
大地の奥から、鼓動が返ってくる。
健康な土のリズム。その奥に——別の鼓動。
「……この鼓動か」
ロルフは目を開けた。
「ずっと気になってた」
フィンが手帳に素早く書き込みながら言った。
「ロルフさんは、土でそれを感じていたんですか」
「毎朝」
「いつ頃から」
「豊村に戻ってきた日から」
フィンが書く手を止めた。
ロルフを見た。
「……それ、かなり深刻かもしれません」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
ロルフは地図を見たまま、静かに言った。
「知ってた」
夜の霧が、静かに流れていた。
地脈が、その下を流れていた。
逆に。深く。
そして——確かに、大きくなりながら。




