13:期末試験 -前編-
体育祭が終わってすぐに、俺たち学生には試験勉強という試練が待ち構えていた。
そこまで勉強に対する苦手意識は無くなったとはいえ、何もせずにいれば赤点の危機に陥る可能性は十二分にある。だから今回も千蔵と勉強会をすることになったのだが、会場は当初予定していた図書室ではなく俺の家に変更となった。
「ニャオン」
家に到着してすぐ、同じ屋根の下で生活をしているはずの人間の横をすり抜けた愛猫きなこは、待っていたとばかりに千蔵の足元へと擦り寄る。千蔵も挨拶をしながらきなこを抱き上げると、ゴロゴロと喉を鳴らす猫と共に俺の部屋へと歩いていった。
「勉強……ってのは口実で、ホントは猫触りたかっただけじゃねーの?」
「そんなことないけど……図書室は先客が多かったみたいだし」
(大半はおまえ目当ての女子っぽかったけどな)
前回、俺と千蔵が図書室で勉強をしていた件は、組み合わせの物珍しさもあって学年中に広まっていたらしい。王子と同じ空間で勉強しようと考えた女子は一人や二人ではなかったようで、その様子を一足先に目撃していた妹の紫乃が、手話で千蔵に合図し状況を伝えていた。
(けど、ウチに呼べて正解だったのかもな)
千蔵は気づいているのかわからないが、俺と二人でいることを快く思わない人間もいるらしいと、近頃は肌で感じつつある。始めは物珍しさが勝っていたものが、見た目からして正反対の俺たちが一緒にいる状況が続くのを、王子を神聖化する人間は許容したくないのだろう。
「橙、ここわかる?」
「ん? ああ、前回教えてもらったトコだろ。さすがに覚えてる」
教材を広げて問題を解いていた俺は、前回教わったものの応用だとすぐに気がつく。以前であれば試験後にはすべて頭から抜け落ちていたかもしれないが、きちんと理解できていたおかげで脳に刻まれていたらしい。
「ふふ、なら今回はいい点数がとれるかな」
「任せとけ、オール100点だって余裕だろ」
「それは頼もしいね」
オール100点はさすがに盛りすぎたが、そんな自信を持てるくらい勉強への苦手意識が薄れている。
「ニャア」
「ん? きなこ、どうしたのかな?」
千蔵の膝の上で寛いでいたきなこが、自分にも話しかけろとでもいうように千蔵を見上げる。伸ばした前脚できなこが頬に触れると、「肉球冷たい」と笑いながら千蔵の大きな手が丁寧に毛並みを撫で上げた。
(あのきなこが、すっかり懐いたもんだな……)
「遊んでほしいのかな? だけど今は勉強中だから後でね」
一応の断りを入れつつも、千蔵の手はまだきなこの顎や首元を撫でている。利き手は空けているから勉強の続きはできるとはいえ、心を鬼にしきれてはいないのがわかった。
(千蔵はおまえにばっか構ってられねえんだぞ、きなこ。今は俺と勉強中なんだって)
俺のもの言いたげな視線に気づいたのか、きなこは飼い主であるはずの俺の方を見て、どこか自慢気な顔を向けてくる。
(な、なんだよ。別に羨ましくなんかねーっての、なんだその顔。普段の千蔵は俺優先なんだからな……って、猫相手になに考えてんだ俺は……!?)
きなこに対抗意識のようなものを燃やしてしまっている己の思考回路が信じられず、視線を引きはがすと一文字も書き進めていないノートに向き直る。あんな風に可愛がられて羨ましいだなんて思っていない。
誰が相手でも可愛がられたいなんて考えたことはないし、ましてやダチを相手にそんな考えが浮かぶはずもない。
(ダチなのに、なんで……)
体育祭の時もそうだった。教室で一緒に弁当を食っている千蔵を、独り占めにしたいような気持ちが湧き上がっていた。ついつい気を許しすぎているのかもしれない。千蔵といると途端に距離感がバグる、その自覚が少なからずある。
「そ、そういや前に勉強した時はやれなかったし、今回は俺がなんかやる」
「え……? あ、もしかして褒美の話? オレも貰ったでしょ」
「あれはやったうちに入らねえし、俺の気が済まねえんだよ」
千蔵は俺の時間を貰ったからだとか適当な理由をつけてあの話は終わりになってしまったが、ダチなら俺は対等な立場でいたい。ましてやコイツには色んなことをしてもらってばかりなのだから。
「まあ、橙がそう言うなら。……なんでもいいの?」
ふと、俺を見る千蔵の目が据わったように見えてぎくりとするが、声のトーンが一段落ちたせいだろう。
「ああ、俺にやれるもんなら」
「男に二言はないよね?」
「ね、ねえけど……」
わざわざ念押しで確認してくる千蔵に、一体何を要求されるのかと震えてしまう。けれど一度した発言を訂正するつもりもなく、俺は頷くしかない。
「つっても、おまえの場合は赤点取らねえだろうし……全教科90点以上とか?」
「それでいいよ」
ハードルが高すぎただろうかと俺が考え直す間もなく、千蔵はあっさり条件を受け入れた。その自信が以前なら鼻についたのかもしれないが、千蔵のことを知った今ではさほど難しい条件でもないのだろうと思える。
褒美の内容は考えておくという千蔵に、また時間が褒美だなんて言い出さないよう釘を刺しつつ、一通りの勉強を終える頃には気がつけば外はすっかり日が沈んでいた。
「遅くまでお邪魔しちゃってごめんね、つい夢中になってた」
「気にすんな。俺も集中してたし、アラームセットしときゃ良かったな」
夕飯の時間になっていたことに気づいた頃、おふくろが千蔵も一緒にどうかと誘いに来たのだが、「帰らないとマズいので」と千蔵自身に断られた。千蔵の最寄りは2駅隣なので、俺は自転車を押して並びつつ駅までの道のりを二人で歩いている。
「橙も、送ってくれなくて大丈夫なのに」
「ついでだよ、おふくろに牛乳買ってこいってパシられたし」
「まあ、一緒にいられて嬉しいけど」
「っ……」
こういうことを恥ずかしげもなくさらりと口にするこの男は、実はイタリア人辺りの血でも流れているのかもしれない。そうでなければ日頃のスマートな気遣いも甘ったるい言動も、まるで説明がつかないだろうと思う。
「……あ」
「ん? 橙、どうかした?」
不意に立ち止まった俺を不思議そうに見る千蔵に、返さなければならないものがあることを思い出したのだ。
「借りっぱだったヘッドホン、返そうと思ってたのに持ってくんの忘れた。悪い……!」
幸いにも自転車で来ているし、今から急いで引き返せば取りに帰ることもできるだろう。そんな俺の思考を読んだみたいに、千蔵の方が先に口を開く。
「ああ、いいよ。橙が持ってて」
「いや、おまえだって使うだろ?」
前を歩き出してしまう千蔵に、慌てて俺も動き出しながら隣に並び直す。
「オレがそばにいない時も、橙を守れてるんだって。そう思うと安心するからさ」
「ま、守るって……」
大袈裟、とは言えないのかもしれない。俺にとっては自衛手段の一つであって、一人でいる時間にはほぼ必須のアイテムだ。
「俺は自分のヘッドホンもあるし」
「じゃあオレのは学校に置いといて、緊急時用ってことで」
そんな風に当たり前の口振りで話す千蔵。同情心でそこまでできるものなのかはわからないが、あまりにもケアが行き届きすぎている。
「……なんで、そこまでしてくれるんだよ」
「なんで……か。オレがしたくてしてることだからなあ」
「お人好しすぎるだろ、おまえ」
少しだけ呆れも含んだ俺の言葉に、今度は千蔵の脚がぴたりと止まる。
「……オレは別に、お人好しじゃないよ」
街灯の明かりは頼りなくて、前髪で影も落ちて表情なんてよく見えないはずなのに、間近に見えた千蔵の瞳はきなこにも見せないような甘ったるさをしていて。
「橙が特別なだけ」
猫の毛並みを撫でるのともまた違う、優しくて大きな手が俺の頭をひと撫でした。
「駅そこだし、オレ行くね。帰り道気をつけて。また明日の朝ね」
去っていく千蔵に名残惜しさすら感じるのに、引き留めるために動くこともできない。遠ざかっていく背中に投げかけたい言葉はたくさんある。今すぐ名前を呼んで答えを聞きたいのに、千蔵の姿が見えなくなるまで行動を起こせず、結局は自分の中で問答を繰り返すしかなくなってしまった。
(特別ってなんだ、ダチならみんな特別なのか? それとも……)
まさか、という期待を振り払うことができない。俺の頭はどうしたって都合のいい答えを導き出してしまう。
(それとも、俺だけ……?)
じわじわと込み上げてくる熱が顔中を火照らせて、今が日の沈んだ時間じゃなければきっと、みっともない顔を晒していたことだろう。自問自答した答えが合っていれば嬉しい、そんな風に思うのはなぜなのだろう。
(そっか、俺……千蔵のことが好きなのか)




