もろびとこぞりて 八
俺はあの映像を見たとき、なぜかしらその人物をよく知っているような気がした。
もちろん、こんな小僧が永年在職議員に面識などあろうはずもなく、また佐野なんて苗字、三世代分の親族の中にもいなかったし、もし親戚の親戚に混じっていたとしても、それはもはや他人でしかないのだろう。
とはいえ、はっきりとした感覚は確かにあったのだ。
ところがそれを思い出そうとしても、追憶の糸は焦らすように、俺の思考をやんわり躱してくれる。
深夜、ベッドの上で長いこと暗い天井を見つめながら、あの議員が喋ったことを無意識のうちに反芻していた。それは政治の世界の堅苦しいもので、まったく与り知らない類の話のはずだった。
まあこんなこと、言っても仕方のないことだから、ガーゼを当てて治療をしてくれている母さんには、黙っていたけれど。
けれどもあのミカンコ嬢なら、なにかしらの答えをくれるはず。
俺はそれを期待して、今夜は眠りにつくのだった。
翌朝、俺は教室でいつものタスクを終えてから、部室にまで駆け上がり、「いよっ」と掛け声をかけて重たい扉を引き開けた。
すると、奥の部長席にはもう彼女がいる。
「ごきげんよう。何かあったのですか、ハンチさん?」
さすがはミカンコ嬢、開口一番、これである。
「分かンのか?」
「ええ、あなたのその手の感じ、なにか違和感があったものですから」
まだ早朝の、寒気の残る静けさの中で、長く伸ばしていたコートの袖口を引っ張り上げると、出てきた包帯の手を軽く振るってみせた。
「昨日、ちっと、怪我しちまってよ」
「まあっ、ご自愛くださいませ」
心配してくるミカンコを見て、俺は笑う。
「ハハ、たいしたことねぇから」
そしていつもの場所に尻を据えて落ち着くのである。
窓の外には鳩でもやってきているのか、クウクウ音がする。ミカンコも振りかえって、外を見ていた。
俺の見立てでは、今朝のこの彼女、おそらくご本人ではない。しかしながら中身は正真正銘、鷺ノ宮家ご令嬢のはずである。その彼女と瓜二つの傀儡はたいへん重宝するらしく、もはや彼女の必需品ともなっていた。
それを指摘すると、ミカンコは意外そうな顔をする。
「よくお分かりですね。ご存じでしたの?」
「いや、そうじゃねぇけど」
その白い頬と鼻筋は、窓を向いたときなど、たいへん綺麗だが、少しほのかに剣味があった。知的で我の強い女子にはよくある傾向である―――そこまで精巧にできた傀儡を眺めて、俺もなんでだろうと不思議がった。
もし間違えてうっかり口にしたとするのなら、それは悪意がないつもりでも、たいへん無礼な言動でもあるのだし。
「ひょっとして、まだベッドで寝てるのか?」
俺はそう、気安く言ってのけた。
「はい、今日は私、お休みするつもりですの。ですが、そうはっきり申されてしまいますと、少々きまりが悪いですわ」
ミカンコは、口元を隠してちいさく笑った。
俺は通り一遍の軽口のつもりだったので、ホントに彼女の具合が悪いことを知って、大弱りである。
「わりぃ、マジで体調良くねぇのかよ」
「ただの疲労ですよ。この二日間、ろくに眠れぬほどに忙しかったものですから」
そうしてお嬢様は、はにかみながら夜着に包まれた身の上を語る。美しい瞳にかかる気怠げな表情や、その魅力ある陰影は―――ちょっと油断していると、男子の意識があっさり奪われそうになるほどだ。
「あー、なんだ。とにかく元気になってくれねぇとな」
「大丈夫ですよ。私は意外と丈夫ですから」
彼女は強がった。
「いやいや、完全復調してくれねーと、きっと俺と世界がたいへんだ」
「まあ」
こう冗談ぽく言えたら、俺も少しは落ち着いてくる。
それで、ひとつ大きく息を吸い込むと、昨日の、右手の爪が割れた経緯を、俺は用心深く話しはじめた。
なんせ無意識のことだから、細かいことまでは無理だけど―――俺はもどかしそうにひとつ唸った。そうした状景を言葉で正確に語るのは、我がことながらもたいへん難しい。けれどもこのお嬢様を前にすると、なにか話す義務があるようにも思われた。
「もし、さしつかえないようでしたら、ハンチさん、その右手―――」
彼女が差し出した手に、俺もソファの上で伸びあがって、包帯の手をそっとのせる。それが傀儡の手であったとしても、ほのかに人の温みが感じられるようだった。
「以前に渡された資料のこと、覚えていらっしゃいます?」
手を離すと、ミカンコはそう問いかけてくる。以前に渡された資料とは、おそらくあれだろう、怪しげな公安調査庁の人から渡された、あの封筒の中身のことである。
「その中にありましたかつての軍人さん、三本 五路生のことですが、あなたにも、少しお話ししておかなくてはなりませんね」
ここまで言うと、ミカンコは俺の表情を窺うように、じいっと睨むように見つめて―――そこでまたふっと目元を緩ませると、少したゆたっていたらしいが、彼女らしい透明な智慧のある声で語りだすのである。
「戦争末期、その方は九州から上京して参られて、宮中でもあなたと――あなたの曽祖叔父さまと、よくお会いしておりましたの。それまでにも夜半電報や電話を掛けられていたようですが、同じ土地のお生まれのせいか、たいへん仲のよろしいご様子でして…」
日本軍は米軍の九州上陸作戦 (オリンピック作戦)を迎え撃つため、九州の防衛を一手に担う第十六方面軍の司令部を福岡に置き、そこで九州全域の部隊を統括していた。
その中でも三本大佐のいる第四十軍は、連合軍の上陸が最も予想される地域を守り抜く、極めて重要な部隊でもあった。
「春に三日の晴れはなしと云われますが、その日は、穏やかな晴天、東京も府から都への統合があった翌年のことでしたから、今夜ばかりは大本営から、都内の我が邸へと、そう三本さんから御呼ばれされた際には、なにか新鮮味のある心地で古賀さんも向かわれたそうです。
戦争中に、九州から都に赴く別邸のおつもりで建てたそのお屋敷は、建築統制をどうごまかしたのか、茶室まで備えた邸宅で、おかげで縁あった私の曾祖母まで招かれてしまいまして―――ホホ、その新邸に訪れると三本さん、角帯に白足袋、短い羽織姿で待っておりました」
座敷は数が少なく、いかにも遠くに本拠を持つ人の東京の別邸のようで、さほど大きいものではなかったが、なんとも座敷の造りが大げさで、派手だったという。
「先代は貴族院議員もした人とかで、そのご子息である彼はもう当然のように希人云々の噂もご存じでした。曾祖母からのご注意もあってひとつ頭を掻いておりましたが、その日に古賀さんをわざわざ招いたのは、軍部の目の届かぬところで余人を交えず内緒ごとを、そういった思惑があったからなのでしょう。『妖怪の出るとやったら、多少いわれのあろうと思っとった』と、希人のことを気楽に評して大笑いします。これでも国家機密の扱いなので、もし外に漏れ出たならば、彼ほどの人物ですら、上告の権利のないままに裁かれていたと思いますと、まあなんとも豪胆な方でした」
こう言ってミカンコは笑った。
淡い色の唇からのぞく白い歯は綺麗で、八重歯ほどではないが、その歯並も整然としているより本物らしくて、当時を語るに良い印象であった。
ともすると、その趣ある巧みな言い回しは、まるでその時代に生きていた人のように思われて、この俺をじつに不思議な気分にさせるのである。
「彼は歓心を買うつもりで曾祖母へも、上品で権高、我々ではとてもとても、お傍へは寄りかねて、取次をいつも控えていたお美しい侍女に頼まねばならず、などとぬけぬけと申します。実のところ、彼はその侍女の身請けを企んでいるようでした。それで曾祖母が、侍女たちもお仕事のつもりで、あなたとやむを得ずのお付き合いをしたに過ぎませんので悪しからず、そうぴしゃりと告げますと、その人は困ったように頭の上に掌をのせて笑うのです」
「ハハ、当時もやっぱりミカンコってわけか」
気の強い血統は争えないものだと、俺は三本氏の心境を思いやり、いろいろ想像し思いを募らせた。
以前にも聞かされたが、鷺ノ宮の娘は成人するまで代々、巫女を名乗ることになっていた。これもまた母方の血統をたどる系譜を維持するためのものらしく、そうして彼女の家が完璧な女系を保つのも、古来より呪術を扱う特異な血を薄めない為の方策でもあったという。
「あら、そんな暢気なことを仰ってもよろしいの? その侍女とは、栞雫さんのことなのですよ」
その栞雫嬢、俺は写真の姿すら見たこともないが、美しく典雅なること、察するにも余りある。真率な叔父がすっかり見惚れてしまうのも当然だ。
もっとも、令和のお清楚さまタイプだったらその点、むかしの概念とはまるで違うから女も楽である。アリオのような女子だって、白い清潔そうなワンピースにでかい尻を押し込めて、ホホホと笑えば絵姿になる。
「帝国の威信の詰め込まれた陸軍士官学校本部も、戦局が悪化するにつれ、食事も簡素で殺伐として、かつての華やかさを忘れられぬその人は、晩酌の中でも、侍女たちにうつつを抜かして撥ねつけられた苦心談をしきりとされ、曾祖母もいいかげん嫌になって、途中退席も考えておりましたが、わざわざ希人を呼びつけた理由を、まだ露ほども伺ってはおりません。
あとから思えば、三本さんが鷺ノ宮の娘の同席を願ったのは、古賀さんの中にある、なにか得体の知れない怪しいもの、それとひとりで相対するのは、やはり恐ろしかったからなのでしょう。それでも、希人は彼らにとって、この度の負け戦で唯一、米国へ一矢を報いることのできる存在です。その正体を知った上での彼の本心を、曾祖母はたいへん気になりました」
そこでミカンコは立ち上がって、茶器を運んできたので、その間、ちょっと話が途切れる。朝のまぶしい陽がカーテンを透して、卓の上に陽炎のような明暗をみせていた。
「ホホ…、ちょうどよい緑茶があったものですから」
「ああ、悪ぃな、わざわざ」
この堅苦しい雰囲気を少しでも解放しようと、彼女も意識して、そこで微笑んでいるらしかった。
「三本さんが薩摩半島や周辺離島の守備を担当している軍の偉い方というのは、曾祖母もすでに存じ上げておりましたが、こちらは軍の階級などに関わりを持たない社家の娘です。酩酊のあまり、そこで要求されるお酌も、さりげなく家門を示すと、いっぺんに酔いを覚まされていたのは愉快でしたが、そのうちに酔語に紛れて『敗北敗北』と叫んだのだけは、適切なことばであり、またその人も、そうでも言わねばとてもやって行けなかったのだろうと思います」
その座の中で、このたびの戦は必ず敗北すると、三本大佐は何度も口にしていた。
ことにミッドウェーの敗北以降は、いかに工夫を凝らそうとも如何ともしがたく、それでも時の参謀総長はあの奇妙なアクセントをもって「一億火の玉」などと豪語し、この期に及んでまだ国民を焚きつけていたのである。
「軍の上層部の身勝手なふるまいに、ひたすら追従することは、それまで軍へ反抗したことのない男児には仕方のないことだったのかもしれません。そうした苦しいお話の中で、一言も発せず、どんなに座が荒ぶろうとも、身じろぎせずに端然と、ただ静かに大人しくしていた娘へ向け、その人はさながら内親王のごとくと、ホホ…」
そう皮肉交じりに言わねばならないほど―――いままでは鷺ノ宮嬢を見るなり、可愛い身内を迎えたような態度でいられた三本大佐も、このときばかりは正直に、憤懣やるかたない心情を吐露するしかなかったようである。
そしてまた、大佐は落ち着いた顔に戻ると、重たい口調で語りだす。
内容は、確かこんなだったはず。
『大和の滅亡を避くるためには、とくに陸軍を政治より絶縁せしむることが先決である。しからば、小磯内閣はこれに徹底し得るや否や、否! もはや大本営の「損害軽微なり」は損害甚大なりの反語に過ぎず、日とともに痛みは増すばかり。
陸軍の自分が、この戦争を終わらしめんとするのは、国を滅ぼしたくないからだ。このままでは必ず滅びる。もし今日、国を滅ぼしたとしたら、橿原宮より営々として我が国を築き上げてきた祖先に対し、なんと申し開きをするか、腹切って死んだだけでは済むまいが』
「驚きました。まったくその通りでございますが、一字一句、よく覚えていらっしゃいますのね」ミカンコは、目を丸くして俺に言った。
「は?」
「今、あなた自身がそれを仰ったのですよ」
いったいなにを申しているのか、とした顔でいる俺の前で、彼女は軽く息を吸うと、再び同じ内容のことばを繰り返してくる。
俺はポカンとして、その意味をしばらく考えていたが、右手の痛みを覚えたことで、はっと我に返った。
「今、俺が?」
「ええ、間違いございません」
ミカンコが淹れてくれた熱い茶を啜りながら、俺は落ち着かない気持ちを持て余していた。
―――ひょっとしたら、この俺も飛鳥たちのように、ついに記憶に喰われてしまったのだろうか
妙な不安がしきりと胸を過っては、影を落としてゆく。
そう怯えもしていたが、未だはっきりした記憶は呼び覚まされず、この俺の拙い自我だけが、胸の内に留まり続けているようだった。
「あの人はその後、なんと申したのか、覚えていますか?」
お盆を静かに降ろした彼女が、遠慮がちに聞いてくる。
俺は怪我をした指先で卓をこつこつ叩いて、その痛みにまた顔を顰めた。
「いや、なんも」
「そうですか」
ミカンコは綺麗な顔を俺に振り向けて、ご安心なさいな、と笑いかけた。
「きっと、場の雰囲気にのまれて、つい叔父様の方も御手つきをなされたのですよ」
「そう、なのかな」
だと、いいんだけど。
「ところで、その後の話って、なんだ?」俺は不安を打ち消すように切り出した。
ミカンコはいくらか緊張した顔になって、俺の隣に歩み寄ってくる。
「実はそれが問題でして。しばらく調査をしておりましたあの議員さんの物言いが、当時、三本さんの申した言葉にそっくりでしたの」
『我らはこの際、一切の古き衣をかなぐり捨てて、新しき覚悟を持って、この国で誰がいちばん国民を救うことができるのか―――なあ古賀くん、キミのその力とこの三本とで、いっちょ、競ってみようではないかね。それが些かなれども、後に新しき大和のために奮い立たんとする、民の糧となるならば―――しからば暁鐘は遠からずして、列島へ響き渡ることになるであろうぞ』
三本大佐は悠々としてあぐらを掻いていた。そしてその言葉から九州防衛の構図が生まれることになる。それは多数の兵を消耗するため、時局をわきまえざる計画と中将から睨まれることにもなるのだが、妥協すれば腑ぬけになると、大佐は毅然として弁じていたという。
「あの開票日に、当家が後援する議員さんに呼ばれまして、私も父と東京へ赴くことになりましたが、その開票センターで、与党の圧勝を告げる報道陣から少し離れた場所に控えておりますと、その佐野議員が向こうから妙なお顔をされてこの私を見つけてくるのです。そして私の名を呼ぶと『やあ、しばらく』などと仰って…」
お嬢様が、はっとした態度でそのひとを見つめていると、身辺警護のために連れてきた向日葵ちゃんが、そこでひどく反応したという。
「おいおい、ちょっと待てよ、向日葵ちゃんが反応しちまったってことは―――」
ミカンコも、静かに首肯した。
「はい、その議員もおそらく狗に憑かれているのでしょう。そして曾祖母譲りのこの容姿をご覧になって、そう応じるのですから、もう間違いございません。どうした因縁なのか、議員は三本氏その人になっているのです」
壮の志を持った写真の将校の印象のままに、老いの影深まる彼の双眸は、今もって赤裸々な執念の光を宿していたというのである。




