もろびとこぞりて 七
週明けは、なんだかんだと面倒な課目が並んでいるせいか、午後の体育の走り高跳びも、ちょっとした箸休めの気分であった。
その授業のはじまる前までに、グラウンドを五周ほど回らねばならないのは億劫だが、それは女子とて同じこと。そうして身体を温めてから、彼女たちは体育館へと向かうのである。
しかしながらできるだけ長く、せめてはしばしの間、その柔らかい乙女の伸びやかな姿態に酔いしれたい、そう願う俺などは、清らかに澄んだ純粋な眼差しをもって、あの敏捷にしなやかな四肢、弾力のある素晴らしい大きな尻―――これらは素直に健康な男子の心情をはぐくむ滋養ともなろう。ゆめゆめ決して、邪な欲望などと見間違えて欲しくない。それだけは、あらかじめはっきり申し上げておく。
ところがそんな男子の口舌も、お嬢様にしたら違うらしい、卑しき欲望をもって女子の身体を推量することは恥じねばならぬと、いきなり背後に現れた向日葵ちゃんによって、そう託けられるのである。
「――って向日葵ちゃん、どっから来たよ!」
「すぐ戻る。でも体育になると、お兄ちゃんの目がいつも助平になるから、お姉さまがご注意を―――」
そして俺をひと睨みすると、飛ぶように去っていった。
ああ、これは不味い、たいへん不味いな―――このままでは部室へ集まる放課後からが思いやられよう。それまでに、なにかしら向日葵ちゃんのご機嫌を取る良い策でも考えておかねばならない。
そこへ、都合よく飛鳥くんがやって来る。
「こんな時間に傀儡が姿を見せるだなんて、なにか事態に進展でもあったのかい?」
「いや、そうじゃなくてよ」
せっかくなので女歴のながい飛鳥の中身によいお知恵を給わりたく、俺は経緯を説明し、なりふり構わず頭を垂れてみせるのだった。
「あのねえハンチ」
「いや分かってます、分かってますとも!」
呆れた顔で馬鹿だの迂闊だのと繰り返しながら、それでも、俺の情けない顔が面白いのか、一緒に考えてくれるという。
それで飛鳥さん、胸の前に組んだ腕を支えに頬杖をついて、しばしご一考。
「たとえば話の切り出し方からしても―――そうだな、まず、普通の女の子というのは、好意を寄せている相手から自分の小さな変化に気づいてもらえると、けっこう嬉しいものなんだよ。相手が自分に関心があることを実感できて、機嫌が良くなることもあるんだ」
「小さな変化?」
と申しましても、あの向日葵ちゃん、髪型や服装はいつもほとんど変わらないのですが。
「なにか思いつかない? なら、仕草や小物を褒めてみるっていうのは、どうかな」
「その火扇筒、いつにもましてマッチョだね、とか?」
飛鳥は頭上近くの陽を仰いで、ひとつ唸ってみせた。
「うーん、コツは、変化の良し悪しをジャッジするのではなくて、気づいたことをそのまま伝えるだけで十分なんだけど。こんな初歩的なものでも、ハンチには難しいか…」
飛鳥が問題の解決に悩んでいると、グラウンドを走り終えた大男も心配そうな顔でやってくる。やはりなにかしら事態に進展でもあったのかと疑ったようだ。
「ハハ、そうじゃなくってさ。ハンチがあの傀儡っ娘の機嫌を損ねたらしくって、その相談に乗ってあげてんの」
「そうかあ、良かった。じゃなくて、良くないのかな」
それで珍しいことに久場まで、この相談に加わってくれるというのだ。
「そうだねえ、放課後なら、その時間は授業や人間関係の疲れを吐き出したい時間でもあるのだろうし――」
飛鳥は大男の言葉をじっと聞いていたが、ふと吐息して、
「そうして共感に徹する手もあるけれど、ハンチは基本ケダモノだし、傀儡は授業に出てないしで、共感するのは難しくない? そもそもあれ、疲れんの?」
「ハンチくんには、難易度、高いかな」
「おまえら、話す前から勝手に決めつけんなよっ」
俺は鼻を鳴らしてふたりに抗議する。
「ねえハンチ、つまりところ、男と違って女子との会話ってのは解決しちゃダメなのさ。だから、大変だったね、とか、マジでお疲れ様、といった感じに共感を示して、その相槌だけに全力を注ぐのが一番なんだよ。基本、アドバイスは求められるまで不要だしね」
「相槌に全力って、そもそも力を入れるところ、なんか間違ってねえ?」
というか、その話、向日葵ちゃんに通用すんのかよ。
「使えるかどうかは分からないけれど、もし将来、ハンチが女子とふたりだけでお茶をする機会にでも恵まれたら、これ美味しいね、と言っておくだけでも十分なんだよ。そうしたポジティブな感情の共有は、ふたりの空気を和ませることにも繋がるだろうから―――」
こんな俺でも、あれこれと飛鳥たちのアドバイスを聞いていると、向日葵ちゃんの機嫌を良くするためのそれらしいアイデアのようなものが、漠然と頭に浮かんでくるのだから、不思議である。
その頃には、走り込んでポカポカしていたはずの身体も、すっかり冷えてしまっていたけれど。
俺は大きなくしゃみを一発―――そこへ、体育の先生が立ち現れる。
「ちょっと、久場くん、また手伝ってくれないかな」
走り高跳び用のスタンドとバーは、いつも体育用具室の一番奥の方にしまい込まれているので、当日は係でなくとも、この男はよく重宝されていた。それで今回も素直に返事をすると、もうドナドナと連行されてしまうのである。
いやはや、先生に対する生徒の従順さを型の如くしめす大男の役割というのも、たいへんだ。
「つか、俺の気のせいかもしれねぇけど、久場のやつ、なんか今日はえれぇ機嫌よくね?」
「そりゃあね。彼もあんな玩具を与えられていることだし」
昨日は丸一日、公安さんの用意した学校近くにある倉庫で、巨大ロボの整備をひとりで行っていたらしい。
幼少からモノ作りが大好きで、そして太古からの記憶もそうさせているのか、今や対象の真髄にまで心が及ぶ次元というのだ。
それほどの腕前、ならいっそのこと、三代目の阿弥陀如来坐像でも鎌倉に建立させてみたらいかがかしら、さぞ観光客も増えるだろうし―――なんてことを言ってみせたら、
「なんでやねん」
飛鳥がただしくツッコミを入れてくれた。
「珍しいな、おまえがそんなツッコミをするなんて」
「いいんだよ、飛鳥文化は奈良県だし、奈良の親戚の人も『なんでやねん』してるから」
よく分かるような分からんような飛鳥の返答である。
「やっぱ大仏は奈良ならでは?」
「そうじゃなくって、ボクが言いたいのは、幼少の頃の彼と、今の彼とは少し分けて考えた方が良いってことさ」
「え? だってよ…」
確か久場は前世でも、どこぞの工廠で軍艦を造っていたはずですが。
「ハンチ、封印を解かれたのは去年の春ごろだったでしょ?」
「ああ」
それですぐさま思い出すのは、少しの感傷と、あの三万円のことである。
「それまでは、ボクらもふつうの高校生だったんだよ。ボクは見かけ通りの陰気で内向的な男の子だったし、久場くんも、ちょっと手先の器用な材木屋の倅にすぎなかった」
飛鳥は首を傾げる俺を見て、微苦笑を浮かべた。
「そして前にも話した通り、希人の封印を解いたとたん、それまでのボクらは『記憶』に食べられてしまったのさ―――そこからだね、今のボクが始まったのは。だから両親もずいぶん戸惑っていたよ。親の前でも満足に喋ることすらできなかったような息子が、ある日突然、明るく饒舌になっているんだから」
「マジかよ。おまえの親、平気だったの?」
「そりゃあ、内心では思うところも沢山あったと思うけど、でもまあ、腫れもの扱いというか、元々、うちの親同士でさえ、なにかよそよそしい雰囲気の家庭だったから」
飛鳥は微笑を消すと、深いため息をついていた。
「ああ、すまん、悪ぃ」
俺が詫びると、飛鳥も「別に―――」そう言いさして、首をゆっくり横に振るった。
「よそう、こんな話をしても意味ないしね。それよりも傀儡っ娘のことだけど、どう? なにか良い解決策でも思いついた?」
「ああ、一応はな」
俺がそう言ってみせると、飛鳥も心持ち、ほっとした感じ。それから無理に笑顔をつくる。こんな話のあとでも快く後に澱を残さないよう、こいつなりに気を使っているらしかった。
「へえ、ちょっと聞かせてくれない」
「まあ、いいけど、聞いて呆れるなよ?」
そこでまた先生の声がして、芝生で寛いでいた生徒らは皆、腰を上げた。
俺の考えを聞いた飛鳥も、呆れてはいたが、俺が礼を言うと面目をほどこした感じの良い顔である。それから皆で列を作って、出席を取る頃には、俺も少しくだけた感じに、いつもの気楽な調子に戻っていた。
やがて放課後になった、もう足の方が勝手に部室へと向かってしまう。
ところが二階にあるあの大仰な扉の取っ手を掴むも、扉はびくともしなかった。
俺は一瞬、この世の終焉でも覗いたような顔になって扉を見つめていたが、たんに鍵がかかったままだと知って、ほっとした。この扉の反対側で、あの向日葵ちゃんがへそを曲げて扉を抑えつけているのではないのかと、そう疑ったからである。
鍵が掛けられている場合、たいてい部活は休みとなった。そもそも部活動なんて全然やってないけれど、いつも部屋番をしている向日葵ちゃんもいないとなると、もうお嬢様たちは先に帰ったのである。
向日葵ちゃんのご機嫌を取り損ねたのは残念だが、これもなにかの緊急事態に違いなく、もし俺に用向きがあるのなら、こんな男の首根っこなど、とうに捕縛されていたはずなのだ。
つまり、今日はそのまま帰宅しても良いということになる。
しかし希人という分不相応な立場になっても、皆の期待を裏切るようで悪いが、ほとんどはひどく平凡でつまらないものだった。
特撮ヒーローなど、主人公はいつも怪人と戦っているような印象を受けるが、実際、そんな戦いなど生活の中のほんのわずかな間に過ぎず、ほとんどはクソをして顔を洗って、そして学校へ行って帰ってきたら、もう一日の大半は終わってしまうのである。
そんなことをぼんやり考えながら、俺も家へたどり着く。
玄関で靴を脱いで居間の前を通りかかると、母さんが菓子を摘みながらのんきにテレビを見ていた。そこの応接卓には和洋菓子に番茶が一揃い、おそらく陽葵ちゃんが一緒にいたのだろう。その妹も、今は呼ばれて翠ちゃんの家へ出かけていた。
「なに見てんの、母さん」
俺はそう声をかけて、制服のまま、どさりと座った。
「ほら、きのうの選挙の、特番」
「ああ、なんか一方的だったらしいね」
さして興味のない俺は、気の抜けた受け答えをして、クッキーを口に放り込んだ。
昨日に投票が行われた衆議院議員選挙では、女性の党首率いる与党が単独過半数の議席を獲得し、歴史的な大勝を収めたことは、海外でも驚きをもって伝えられていたようだ。
そしてその勝利も、政策や首相への信任以上に、むしろ野党の壊滅的な大再編が招いた失策だと報道されていた。
―――やっぱり、野党の幹部が高齢のお爺さんばかりであることが、時代錯誤だったんじゃないですかねえ
―――私はむしろ、ネット広告や動画を駆使したプレゼン力の差が勝敗を分けたと考えてますよ
「あ、そうそう。食いモンの消費税、下がるの?」
「すぐには無理みたいよ。さっさとやって欲しいところだけど。アンタたち、よく食べるし」
「なんだ、すぐじゃねーのか」
番組ではMCやコメンテーターがなにやらもっともらしく解説しているが、俺や母さんの認識なんて、この程度のものである。
これがまた父さんになると、その職場環境からも政治の影響をモロに受けやすく、昨晩は選挙の結果を踏まえて、ビール片手にいろいろ思案していたようである。
―――えー、先ほどの会見で、総理は公約を確実に実現していく責任があると強調しました。連立を組む代表も、定数削減や社会保険料の引き下げなどの改革を進めていく考えを強調しております
―――あ、ここでですね、比例で当選した前官房長官の、佐野議員によるお話があるようです。カメラさん、ちょっとリポーターの方を映していただけます?
ぱっと映像が切り替わると、報道陣の前にその議員が会見を開いている様子が映し出された。
「あ、この人じゃん」
それで俺も、思わず見入ってしまう。昨晩の疲労もそのままに、顔が若干やつれているが、間違いない、昨年の夏のあのお爺さん議員である。
印象がすこし違って見えたのは、やはり比例をぎりぎりのラインで当選したからなのか、眼の周囲には深く年季の入った皴が刻まれ、その眼だけがやたらとギラギラ光っていた。
『今回のハンデを皆さんの力で跳ね除けていただいた。この勝利を与えていただいたこと、誠に感謝の念に堪えません。そして、直面する内外の諸課題、国政に停滞をもたらさないよう、一議員として、引き続き誠心誠意、取り組んでまいりたいと思います』
―――あのう、今回の比例の順位、総理の報復ではないかと言われているようですが
―――あまりに巨大な与党の誕生に対し、リベラル層や法学者からは懸念の声も上がっています。この件については、どうお考えでしょうか
白髪頭を深々と下げたその佐野議員へ、報道陣からさまざまな声が飛ぶ。保守系の新たな総理と一線を画す人物だけに、歯に衣を着せぬ総理への批判を期待しているのは、誰の目にも明らかだった。
『もちろん、全ての委員会を与党が牛耳ることのできる、その絶対安定多数を遥かに超えたことで、国会の議論が形骸化し、強引な法案成立が進むのではないかと、皆さまがそう懸念するのも、無理はございません。ですから、記者の皆さまと一緒に、個別の政策ごとに目を光らせてゆくことで、私は、国民の生活を守ってゆきたいと考えておるのです。どうでしょう、今この放送をご覧になっている篤志ある方々も、この国で誰がいちばん国民を救うことができるのか―――その目できっちり見極めて頂きたいと思うのです』
そして、フラッシュが眩しくたかれた。これで明日のリベラルの紙面にはまちがいなくこの人が取り上げられることになるのだろう。母さんも呆れて見ている。自分が支持されなかった理由は分かっているくせにさ―――
「そんなことより、消費税なんとかしろよなあ。バイトをする暇さえない俺には、とんでもなくキツいんだからよ」
母さんは急須を手に取って、自分と俺の茶碗に淹れると、もう笑いながら、卓上へ差し出した。
「そうねえ、あんたはそこよねえ―――ちょっと、友則っ」
「え、なに?」
母さんのぎょっとした顔に当惑しながら、俺もその視線の先をぼんやり見つめた。
するとこの右手、摘まんでいたクッキーごと今はかたく握られ、それどころか、内から弾けるように爪がふたつに割れており、もうぽたぽたと卓の上に血まで滴らせている有様なのである。
ひと呼吸おいて、俺は奇声を発した。
「なんだあ!」
すぐに身を乗りだしてくる母さんの顔はすでに紅潮していた。そのまま、空いた手で俺の手首を鷲掴みにする。
「なにしてんのっ、血、すごいじゃない。やだもうっ」
そう叫ばれると、俺もよけいに慌ててしまうのだ。
ともかくも絆創膏の買い置きが残っているのか、それを心配していると、
「救急箱の中に、ガーゼとテープがあるからっ」
母さんは大声で言って、いらいらと俺を洗面所へ引っ張ってゆくのであった。




