もろびとこぞりて 三
東京湾への入港待ちをしている内航船から、米国の艦船や航空機に異常な動きが見られるとの情報が一部の番組に寄せられた―――そう地上波のニュースで報道されたのは、週末の早朝であった。
「南房総沖にて、所属不明の水中艦船、潜伏の兆候あり」――。
米側は太平洋における哨戒訓練の名目で、三沢からP-8A哨戒機を飛ばし、その広大な海原を上空から監視、また当海域では横須賀から出航したアーレイ・バーク級駆逐艦が、その作戦指揮にあたっていた。
一分ほどのニュース映像の中には、P-8Aが広範囲にソノブイをバラ撒きながら飛行している様子などが映しだされている。その機器からの情報によって、生物か水中艦船かの判別が行われるという。先のハワイ沖で遭遇したものと同種であるのかどうか、音響解析装置を使い、そのデータベースと照合するわけである。
「今年は台湾海峡の有事も懸念されていることだし、米軍さんもずいぶんぴりぴりしているんだなあ」
何も知らない父さんが、スーツのネクタイを整えながら、ぼんやり呟くようにものを言った。
そこへ母さんが、作り立ての弁当を入れた会社の鞄を持ってくる。
「はい、お父さん」
「おお、悪いね」
「テレビでなにかやってるの? また合同訓練?」
「ほんとの戦争だったら、たいへんだよ」
などと言い合いつつ、ふたりは玄関の方へ歩いてゆく。
そして二階からはパタパタとスリッパの音―――すこし寝坊をした陽葵ちゃんが、自分の役目を果たしにあわてて降りてきた。だがあいにくと、母さんがその弁当を作り終えている。よって朝食はそれらの余り物となる。
そう伝えると、妹は気の抜けたようにしてソファに突っ伏した。
「当番なのに、寝坊しちゃった」
「まあいいんじゃねえの。一回くらい作らないでも」
俺は笑って言った。
「お兄ちゃん、リモコン取って」
それでリモコンを渡してやると、真面目な報道番組から美人のお姉さんのゆるんだ天気予報へと変えられた。
これもまた、いつもの朝ののどかな光景――。
そして地上波の向こうでは、米軍がこの日のために密かに策定していた計画が実行されている。いやまあほんと、訓練の名目だけで済んでいるうちはいいのだけれど―――そんなことを心配しているうちに、俺も学校へ行く時間となる。
遠方より来りて、門をくぐるほどこそ、いとをかしけれ。学び舎の空気の、清らにて冷ややかなるが、身に沁むる心地するは、えも言はず。
かかる折しも、慶将といふ者、ふとおし歩みて来れり。
いとまめやかなる顔つきにてあるは、その端厳なるかたちをいよいよ際立たせ、さながら玉の細工などを見る心地して―――。
「とつぜん何を口走っているんだ? キミは」
「頭ん中、昨日しくじった古文の小テストモードのままになってんだよ」
それで、俺もついつい随筆スタイルでやってしまったが、朝からよけいな知恵を使ったせいか、ちょいと頭痛がしてくる。
「千葉沖ではあんな騒ぎになっているのに、まずは部室に来てもらわないと困るんだよ。キミこそが、すべての根源なんだから…」と、慶将は呆れた調子で言った。
ああ、そうだった、そうだった。うっかりしていつもの調子でいたので、俺もあわてて駆け出すのである。
部室につくと、威厳たっぷりの部長席にお嬢様と向日葵ちゃんが姉妹のように仲良く座って、オンライン動画をご覧になっていらっしゃる。
俺が現れたのに気づくと、「ごきげんよう」と顔を上げてにこやかに挨拶はしてくるものの、その視線はすぐさま落とされた。なにか込み入った状況にでもなっているのか、俺たちも少し歩いて彼女の後ろに立つのである。
PCの画面には、やはり今朝のニュース映像と同じような場面が映し出されていた。俺が聞くと、今現在に行われているものだと、彼女は言う。
「やっぱり年末の騒ぎの続きか。なあ慶将、これ傀儡じゃねぇんだろ? 火廣金とか無ぇはずなのに、なんで米国さんそんなに執拗になってンだ?」
「おそらく月詠の方も、わざと教えていないんだろうね。そうだとしたら、今の彼らには狗も傀儡も区別はつかないさ」
フレームの中には大きなヘリが映っていた。映像は近くにいる小型船舶からのものなのか、ショットサイズがややぎこちなく、波の動揺でよくフレームから飛び出ていたが、機種くらいは慶将でも判別できるようである。
「ふむ、どうやら駆逐艦から発進したMH-60Rのようだね。ということはアクティブ音波を打って、今は逃げる海洋魔人を包囲網に抑え込んでいるところかな」
「これからどうなるんだ?」
「攻撃の最終段階に入っているのだろうから、魚雷でも打つのではないか?」
「へえ、ちょっとした見ものだな」
「まあ海の中のことだから、演習でするように、一発撃って終わりというわけにはいかないのだろうけど」
ところがそこで予鈴が鳴らされる。惜しいことに生徒の務めが俺たちにはあるので、さっさと教室へ戻らねばならなかった。
いやまったく、途中まで見た映画をあきらめて席を立つ心地である―――それで気になる俺は、彼女に尋ねてみた。
「なあミカンコ。この前みたいに、また占いだか予知だかでこの先の展開、わからねーの?」
背筋を伸ばして腰を上げる古式ゆかしい山の手風のお嬢様は、よく磨かれたスクールバッグを胸に抱えて、ほんのり笑みを浮かべていた。
「この場合は、占いではなく予見視、もしくは予見知と申しますが、もちろん私も、幾度か試しておりましたのよ。けれども、様々な法師たちが同じ未来に意識を向けておりますと、どうにも難しいものですので…」
「ん? 様々な法師って、他にもお嬢様みたいなのが、今回の騒動の予見視をやっているってことなのか?」
「ええ、おそらく月詠の――」
こう言うと、その微笑みにちょっとした苦味が加わってくる。
「同じ未来に向けて複数の法師たちの思念が絡み合いますと、どうしても現実と意識の間で乖離が生じてしまいますの。どのように抑制してみせても、人の意識には我欲がございますから、お互いのそれが干渉しあって、自分の見たい未来だけが間違って視えてしまうのです」
人の意識が関われば、当然、そこに我欲も生じてくる。坊さんが申すように、我欲から解放されるのは墓の下に入ったときだけなのである。そうしたものは、この俺なども神域の中で身をもって体験している。
「ふうん、つまりサッカーの予選でうっかり勝ち抜いちまった弱小チームのファンが、現実の実力差を顧みず、決勝で舞い上がっちまうようなもンなのか?」
「そうなると、もはや未来ではなく、錯覚であり願望になってしまいますでしょう?」
「なるほどねえ」
じゃあどうすンの? と尋ねるのはちょっと気が引けた。なにかもう全部お嬢様に丸投げしているみたいで。
「ハンチさん、こうしたときこそ『運命』を持ち出すものですのよ」
彼女は悪戯めいた笑みをちらとみせる。
それはもちろん、交響曲の第五番ハ短調のことなんかではなくて、そうした他力本願じみた諦めへ、すべてを押し付けてしまえば気も心も楽ですよ、そう彼女は申しているのである。
俺は意外に思ってその美人顔を見つめた。
するとお嬢様は、俺の顔のどこかを睨めるようにしつつも、そのお口の端にふっと可笑しさの笑みを忍ばせて――。
「あら、私が丸投げすると、へんですか?」
「そうじゃねぇけど…」
今までのお嬢様呼ばわりが、それでまたふいにミカンコへ戻ったほど、妙な親しみやすさを覚えるのだった。
扉の外へ出る俺たちを向日葵ちゃんが見送りに来て、入り口でひとつお辞儀をする。
その傀儡の娘の頬に白い手を添えて、ミカンコはなにかひとことふたこと、彼女が離れると、向日葵ちゃんは俺に向けて「はやく戻って来てね」と寂しそうにするのである。
もうお兄ちゃんは庇護欲に駆られて大変だ。
「ホホ、お兄さんもたいへんですわね」
ミカンコは可笑しそうにする。隣では慶将も笑っていた。
俺は気恥ずかしさを隠すように、下顎を突き出して、このイケメン小僧に喰ってかかった。
「ヘイ慶将、言いたいことがあンなら、さっさと言えヨ!」
「いや、僕からはなにも」
そうは申しながらも、なにか面白いものでも見つけたようなそのお顔、いっとき、俺は無口となる。
「まあまあ、そうへそを曲げない。おかげでミカンコさんもずいぶん助かっているのだから」
「なにが助かっているんだ?」
廊下の窓から斜めに差し込む陽射しを眩しく黒髪に受けながら、前を歩くミカンコが振り返ってくる。
「希人の騒動を利用して企み事をするのは、なにも月詠だけに限った話ではないのですよ。この私も―――」
なんだろう。あの丹造さんが、また向日葵ちゃんに妙な擬装でも施したのだろうか。
「さあ、それは私もよく存じませんが―――少し、急ぎましょうか」
窓の外には、朝練を終えて急いで戻ってくる運動部員たちの姿があった。
それを見つけて急かしてくるお嬢様は、それこそ明治の文明開化の学校教育でも受けてきたかのように折り目正しく、由緒ある家柄に育ったせいか、その髪型、姿勢ならびに言葉づかいまでもがたいへん優雅で麗しいのである。
ゆえに礼法に疎い俺などは、馬銜をかまされたお馬ちゃんのようにして、その高貴なる尻についてゆくしかないのだった。
さて、房総沖で行われた『哨戒訓練』が中止となったのは、米海軍の哨戒機がよってたかって対潜魚雷を撃ち放った後のことである。
軍事作戦などに不案内な俺はそれがよいのか悪いのか、わからずじまいでのほほんと午前中を過ごしていたけれど、そのまま他人事で済むものでもないらしい。
昼になると飯を食う時間も惜しまれるほど、また慶将によって部室にまで引っ立てられて、さっそくこの右手に術式をかまされることになるのだった。
「これほどの強烈な目くらましを施しましても、もって半日といったところでしょうか。ほんと、他の法師の方がご存命でいらしてくださったら…」
「やっぱり、あれも魔人クラスの狗だったのですか?」
慶将は俺の右手をしげしげ眺めながら、ミカンコに尋ねた。
「ええ、間違いなく。さきほど、そのことで先生からもご注意がありました。なんとか撃退はしましたが、仕留め損なったそうです―――あ、ハンチさん、その右手、触らないでくださいましね。まだ固着しておりませんので」
「まるでギプスだな。つうか、目くらまし?」
「そうですよ。あの魔人は間違いなくあなたを目指してやってくるのでしょうし」
「ちょっ、いやいや、勘弁してくれよ…」
俺は先の人面鳥の一件のことを思い出して、慌てて窓の外へと目を転じた。
そんなことをじかに聞かされてしまうと、もうびくびくと怯えた子犬のようになっちまうのである。
そこへ向日葵ちゃんが寄り添ってきて「大丈夫」と―――その丸い瞳が俺の尖った神経の末端をやさしく包み込むように微笑んでいた。
ふと気づけば、ミカンコ嬢も俺の右手を取っている。
その右手には読めない文字がいくつか、水の底から湧きあがるように浮き出てきては、ぱっと霧散するのである。
「希人さんの潜在力はほんとうに底が知れません。こうして見ている間にも、すでにいくつかの術式が崩されております」
「おいおい、これ、ホントに大丈夫なの?」
俺があえぐように落ち着きなく言うと、彼女は軽く睨めてぴしゃりと鞭打ってきた。
「しっかりなさい、男の子でしょう」
お嬢様は毅然とした態度で俺を叱った。
それから、指先で俺の額に何か文字を描くのである。それがどんな呪いだったのかは知らないが、たったそれだけで、納まるべき位置へすとんと覚悟らしいものが落ちてくる。
「ああ、悪ぃ。俺がしっかりしてなくっちゃな」
「そうですよ。あなたには常に泰然として頂きませんと」
ミカンコが言う、その後ろで、慶将が小さく肩をすくめていた。
「ハンチくん、特に今回の相手は、本来の力を取り戻してもいないのに、米海軍とタメを張れるほどの化け物だ。これで相即でもされた日には、それこそ関東一円、火の海だよ」
「マジで、大怪獣なんかい」
俺は嘆息して窓の外へ目をむけた。
陽の出ていた早朝とはうってかわって、薄曇りの空に灰色の雲が流れていた。やや雪の気配が濃く、たいへん寒々しい眺めでもある。
「なあ慶将、あのなんとかの印で、調伏とかできねーの?」
外の景色を眺めながら、俺はいま思ったことをぼんやり口にする。
「キミが生身で海中に飛び込みたいのだったら、どうぞご自由に僕は止めやしないが、それまでに、楮紙のお札はふやけてばらばらになってしまうだろうね」
「やっぱ陸に上がった魔人を、動けないほど痛めつけてから調伏するのがセオリーか」
もし万事が上手くいったとしても、陸は大惨事になることくらい、俺にだって安易に想像がつく。
「同じ魔人でも、強さはいろいろだってのは、この前の人面鳥の件で理解できたけどさ。ならいっそのこと、イオっちに頼んでみるってのはどうだ?」
思い付きでもそれを言ってみせると、自分でも、良い思い付きのような気がしてきた。
それにはすぐさま、ミカンコが異を唱えてきたが。
「ハンチさん、神さまと人が同じ舞台に立つことはありませんよ」
「なして?」
「ざっと千年以上前から、法師たちのありとあらゆる界隈であの神さまをめぐる話が囁かれておりましたが、どれにも共通しているものは、小さな神さまが自ら手を下すのは、なんらかの特別な事情に限ったこと。この世界の秩序を一変させてしまうほどのことならいざ知らず、この程度のことで神さま自らが手を下すことなど、ありえませんわ」
「なんらかの事情って?」
「それが分かれば苦労はしませんが、おそらく、この世で唯一、里見さんだけが知っている、たいへんな内緒事なのでございましょう。私たちでは、頼みごとのひとつですら難しいと思いますよ」
「ふうん」
とはいえ、自分でやらかした不始末の帳尻合わせくらいなら、イオっちもしてくれるようだが。
まあすこし考えてみれば、あのひどい戦争にすら出てこなかったんだから、そりゃそっか。
「ところでミカンコさん、月詠もこれだけの騒動を、いったいどうやって収束させるつもりなのでしょうか」
慶将の問いかけに、ミカンコは曖昧に首を振って応じた。
「私にも見当がつきませんが、先の大戦になぞらえて、あの魔人を上陸してくる連合軍に見立てているのは確かでしょう。その場合は、遠からず栞雫さんが現れることになるやもしれません。私たちは、それを第一にして動くしかないのでしょうね」
お嬢様は、憂鬱そうにため息ひとつ。
慶将も、あきらめにも似た苦笑いをしていた。
「上陸ですか―――うっかりしたら、街がひとつ消えるかもしれませんよ」
常軌を逸したお話の連続に、いまひとつ実感が伴わないのだが、右手の封印が解けるにつれ、なにかに追い詰められているような気がしていたのは、こんな俺でもそうなのである。
「まわりに妙なモンがずいぶん増えてきたから、世間様にご迷惑をお掛けする前に、俺も、なんとかしたかったンだけどよ」
ミカンコがやんわり微笑む。
「あなたの叔父様は、なにかおっしゃって?」
「いーや、まったく」
とした俺の返答は、心持ち拗ねたような感じ。
「ホホ…、きっと、すべては叔父様がなんとかしてくれますよ」
「そう願いたいんだけどな」
「あの方は、ご自分の本当の素性を知ったとき、その責任の重さに、人であることを憎みもしたそうですよ。そして憎みつつ―――愛してもおりました。とんでもない力を持つ希人とて、心はいつまでも人のままだったのでしょう。そんな叔父様を、あなたも信じてあげてくださいな」
そこまで一息に言うと、お嬢様は目を細めて、ひとつ打ち笑むのだった。




