第七話 距離が縮まる夜
「な、な、な……!」
「どうかされましたか、旦那様」
「き、君は! 私と一緒に寝てもいいというのか!?」
「夫婦は毎日一緒に寝るものだと、両親から教わりましたわ」
がっくり。まさにその言葉が似合う様子で、キリアン様は頭を抱えた。
「いや、夫婦であれば自然なのか……。だとしても危機感というものが……っ」
キリアン様は何やらぶつぶつと呟いている。その姿が子フェンリルと重なって見えて、思わず笑みがこぼれてしまった。
「ふふっ。旦那様は、可愛らしい方ですね」
「かわ……っ!?」
顔を上げたキリアン様は目を白黒させていた。しかめ面ではない初めての表情だ。もっといろんな顔が見てみたい。
「き、君は……本当に私が気味悪くないのだな……」
「はい。もちろんですわ」
「そうか……そうなのか……」
はーっと、キリアン様は目を閉じて、深く長く息を吐く。そして目を開けたとき、ゴールドの瞳がまっすぐに私を見ていた。
「……君が妻になってくれて、とてもうれしい……」
最後は消え入りそうな声だったけれど、しっかりと聞こえた。そんな率直に気持ちを伝えてもらえるとは思っていなくて、私は自分の耳が熱くなるのを感じた。
「旦那様。私たち、一緒に幸せになりましょうね」
「ああ」
なんだか恥ずかしくて、キリアン様の目が見られない。俯きがちにそう言うと、キリアン様はすぐに返事を返してくれた。その早さに、結婚式での誓いの言葉を食い気味に返していたことを思い出す。
――キリアン様は、私を大切にしてくれる方だ。
不器用なこの人を、もっと知りたい。大切にしたいと思った。
***
その日の夜。夫婦の寝室のベッドに腰かける私から距離を取るように、子フェンリル姿のキリアン様はベッドの端でおすわりしていた。
「旦那様? どうしてそんな端っこにいらっしゃるんですか?」
「き、君の夜着姿を軽々しく見てはいけない……!」
夜着は確かに薄い布だが、決して露出が多いわけではない。それでいうと昨日の初夜の方が、色っぽいデザインだった気がする。
「でも旦那様。昨夜、見ていらっしゃったでしょう?」
「あれは! 不可抗力というもので!」
「ですから今さらですわ。ほら、こちらにいらっしゃって」
「う、うむ……」
本当はこっちに来たいと思ってくれていたのだろうか。キリアン様は尻尾をゆるく振りながら、こちらに来てくれた。ふわりとした毛並みが腕に触れる。撫でたくてたまらない。
「旦那様、触れてもよろしいでしょうか?」
「……許可などいらぬ。好きなときに触れてくれ」
そっと手を伸ばして、まずは頭を撫でる。尻尾がシーツの上を掃くように左右に大きく揺れている。
なんてやわらかな毛並みなの! 顎下を掻けば、キリアン様は気持ちよさそうに、金色の瞳を細めた。
だが今夜はこれだけではない。アンヌに言って、用意してもらったものがある。
「――旦那様。ブラッシングなどはいかがですか?」
「ブラッシングだと!?」
さっと隠し持っていたブラシを見せる。キリアン様は目を輝かせたかと思うと、ためらうように視線を伏せた。
「だ、だめだ……っ。ブラッシングなど、まるで本物の狼のようではないか……!」
「人もブラシで髪を整えますわ。それと同じです」
「しかし! 今はフェンリルの姿であって……!」
「フェンリルのお姿でも旦那様は旦那様ですわ。実は綺麗な御髪に触れてみたいと思っていたのです」
「む? そうなのか? それならば構わぬか……」
横でちょこんとおすわりをするキリアン様。どうやらうまく言い含められたようだ。そんな素直なところも可愛らしい。
「では失礼して」
まずは背中からブラッシングしていく。引っかかる箇所などなく、するするとブラシは通っていった。
「……ああ、気持ち良いな……」
キリアン様の口調が、いつもよりゆったりとしている。お気に召していただけたようだ。
頭から首筋にへ、首筋から胸元に向かって毛を整えていく。ブラッシングしやすいように、キリアン様が寝転がってくれた。しかも――。
「ああ……、お腹も頼む」
四肢を広げて、お腹を仰向けにして無防備に見せてくれた! これは可愛すぎる! 毎晩ブラッシングして差し上げよう!
「ブラッシングとは、こんなに気持ちの良いものだったのだな……」
とろとろとまどろんでいるような表情のキリアン様。夜のキリアン様はなんと分かりやすいお方なのだろうか。こうなると、昼間のキリアン様の笑顔が見てみたい。
「はい、綺麗になりましたよ」
「……う、うむ。すまない。すっかりくつろいでしまった」
「明日もしましょうね、旦那様」
「う、うむ?」
そして上掛けをめくってベッドの中に入る。そして横を軽く叩きながらキリアン様を呼んだ。
「旦那様、こちらへどうぞ」
「い、いや! 私はもう少し離れて寝る!」
「そんなこと言わずに。初夏とはいえ、夜はまだ冷えますわ」
「……君が冷えるのは良くないな」
のそのそとキリアン様が隣に来る。丸まったところで、私はその毛並みに少しだけ顔を埋めて目を閉じた。
「夫としてこれでいいのだろうか……?」
キリアン様が何か呟いた気がする。けれど私の意識は、そのまま眠りの中に引きずり込まれていった。
***
「ん……」
なんだか息苦しくて、目が覚める。目を開けば、目の前にはキリアン様の顔があった。体には彼の腕が絡まっている。
「っ……!」
唇が触れてしまいそうな近さに、思わず声にならない悲鳴を上げる。それが合図になったように、キリアン様が身動ぎをした。
「ん、朝か……?」
寝ぼけ眼のキリアン様と目が合う。その瞬間、彼は飛び起きた。
「うわああ! すまない!」
「大丈夫です! 大丈夫ですから!」
「っ、こ、こちらを見るな!」
「ひ、ひゃあ!」
ベッドから転がり落ちそうな勢いのキリアン様は裸だった。ベッドの上掛けで体を隠しながら、右手で顔を隠しているキリアン様の耳は真っ赤になっている。
「み、見苦しいものを見せてすまない」
「い、いいえ、そんなことは……」
「昨夜は甘やかされたばかりか、君を抱きしめたまま眠るなんて……!」
目の前のキリアン様は、もう怖くなどない。私は顔を覆っているその手に、自分の手を重ねた。
「お顔を見せてくださいな、旦那様」
そして顔から引き離すようにやさしく手を引っ張る。案外簡単に離れた。
「……幻滅していないか?」
「ちっともしておりませんわ」
「……そうか。――おはよう」
「はい、おはようございます」
キリアン様の眉間には、相変わらずしわが寄っている。それでもいつもより穏やかに見えたのは、私の気のせいではないはずだ。




