第十話 キリアンと森狼
「クリスティーヌ、よければ森狼たちを見に行ってみないか?」
季節がすっかり夏に変わった頃、執務が一段落ついたらしいキリアン様が談話室に姿を現した。
「森狼、ですか?」
「輿入れの日に、あなたが乗っていた大きな狼のことよ」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。すると一緒にお茶をしていたお義母様が教えてくれた。
「あの子たちは森狼と言うのですね! ぜひ見てみたいです! あ、でも、今はお義母様たちとお茶をしているところで……」
「気にすることはないよ。行ってくるといい」
同席していたお義父様は優しく送り出してくれる。その隣でお義母様は微笑みながら頷いていた。
「見てごらん、あのキリアンの寂しそうな顔を。まるで自分より義両親を優先するのか、と言っているような顔じゃないか」
「なっ、父上! そんなことはありません!」
お義父様がからかいを含んだ声でキリアン様を見る。キリアン様のいつもと変わらない表情だったが、少し耳を赤くしていた。
「クリスティーヌがお茶を飲む時間くらい待てます」
「僕には早く行きたくてそわそわしているように見えるけどね」
「つ、妻との二人の時間を楽しみにして何が悪いんですか!」
お義父様を前にするキリアン様はまるで子どものようだ。お義父様が昔からこうして接してこられたことが伺える。また一つ、キリアン様の新しい顔を知れて、微笑ましく思った。
「ふふ。キリアン様、行きましょうか」
ティーカップをテーブルの上に置く。お義父様とお義母様に断りを入れてから立ち上がると、目の前にすっとキリアン様の手が差し出された。
「妻のエスコートは夫の役目だから」
キリアン様のゴールドの瞳は柔らかく細められる。私はためらいなくその手を取った。
背後からはお義父様とお義母様の生温かい視線を感じる気がする。きっとお義父様はキリアン様をからかいたくて仕方がない顔をしているのだろう。キリアン様もそれを察しているのか、二人を振り返ることなく、私の手を引いて談話室を出て行った。
城を出て外郭の内側を歩く。騎士たちの訓練場の隣を抜けると開けた草地が見えてきた。
「ここが森狼たちの休憩場だ」
「わあ!」
丸まって眠っている子、四肢を放り出して横になっている子、身を寄せ合いながら座っている子など、灰色の大きな狼たちが思い思いにくつろいでいる。私たちが近づくと、狼たちは一斉にこちらを見た。
「グゥゥ」
相手がキリアン様だと分かった瞬間、狼たちは次々に頭を垂れた。彼らはキリアン様を主と認めているのだ。何十頭もの狼たちが頭を下げる中で、唯一背筋を伸ばして立っているキリアン様。その光景は圧巻だった。
――狼を統べる王。キリアン様はまさしく『狼大公』という異名にふさわしい姿だった。
そのとき、草地の奥から一頭の黒い狼が姿を現した。輿入れのときに私が乗せてもらった狼よりも一回りほど大きい。太い足でしっかりと大地を踏みしめて悠然と歩くその姿は、どこかキリアン様を彷彿とさせた。
「そんなところにいたのか、トール」
「トール?」
「ああ。私の相棒の森狼で、城にいる森狼たちのリーダーだ」
私たちは草地へと足を踏み入れる。トールは私たちの前まで来るとおすわりをした。
「トール。彼女は私の妻のクリスティーヌだ」
「よろしくお願いしますね、トール」
「グルル」
おすわりしたトールを見上げながら、そっと手を伸ばす。トールは指先の匂いを嗅いだあと、ぺろりと舐めた。
「トールに触れても大丈夫でしょうか?」
「ああ、撫でてやるといい」
トールの胸元にゆっくりと触れる。日向ぼっこをしていたのか、毛並みはふかふかで温かかった。
ぺろり。トールが私の頬を舐めた。
「ふふっ。トールも撫で返してくれるの?」
「グルル」
「おい、トール! クリスティーヌは私の妻だぞ!」
ぐいっと手を引かれ、気づいたときにはキリアン様の腕の中にいた。ぽっと灯がともったように、自分の顔が熱くなるのが分かる。そっと見上げれば、キリアン様はトールを睨みつけていた。
「……キリアン様、少し苦しいです」
「す、すまない!」
キリアン様は私を抱きしめていることに気づいたのか、慌てて両手を上げた。自分を落ち着かせるために息を長く吐く。それを見たキリアン様の眉尻が下がった。
「……嫌な思いをさせただろうか……?」
「い、いいえ! ただ突然のことで驚いただけです!」
「……嫌ではなかった?」
「もちろんです!」
――はっ!? 私は何を言っているの!?
「そうか。嫌じゃなかったならいいんだ」
キリアン様を見ると満面の笑みを浮かべていた。途端に恥ずかしくなって、私は視線を逸らして俯くことしかできなかった。
「あ、相棒の森狼はどうやって決めるのですか……っ?」
私はパタパタと手で顔を仰ぎながら、なんとか話を逸らそうとした。
「グルドガルド帝国との国境近くに『森狼の森』という深い森があってな。一人前になった騎士はそこで森狼と力試しをして、相棒となる一頭を見つけるのだ」
「トールともそこで出会ったのですか?」
「そうだ。当時のトールは森のリーダーで、私たちは三日三晩戦った」
「そんなに……!」
キリアン様がトールの鼻先を撫でる。トールは気持ちよさそうに目を細めた。
力試しをすることでお互いを認め、相棒として絆を結ぶ。キリアン様とトールもそうして認め合ったのだ。とても素敵な関係だと思った。そのときだった。
「待てー!」
「きゃあ!?」
小さな灰色の塊が、私の胸元に飛び込んできた。その衝撃で、思わず尻もちをついてしまう。
「クリスティーヌ! 大丈夫か!」
「いたた……。はい、なんとか」
「ん? これは……」
キリアン様が上から私を覗き込む。その視線を追って胸元を見てみると、そこには小さな子狼がぐりぐりと私に頭を押し付けていた。




