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第三十話 天秤の女神

『貴方には、まだやるべきことが残っている』


 やるべきこと……エルナさんを守ること? 彼女は逃げられなかった?


『貴方と一緒にいた少女なら、助けを呼びに貴方の通う学び舎へ。無事ですよ』


「そっか……無事なら良かった」


『…………彼女は、まだ諦めていないのに、貴方は諦めて良いのですか?』


 天秤に座るその人は、ごく僅かに眉間にしわを寄せ、悲しみと怒りを滲ませた一見すると蔑まれているような気分になる。そんな目を僕にむけ、そう問いかけてきた。


 そうだ、僕は諦めた……時間が流れるほど、状況が変わっていくたび、選択肢は移り変わっていく。あの時、胸に受けた一撃で、生き残るのは無理だと悟った。

 今は痛くも痒くもない。それでも息を吸いにくく感じるそんな胸の傷に、なぜか手を伸ばしてしまった。

 ぐっちょりとして柔らかく生暖かい感触と、ゴツゴツと石のように固い骨の感触。触っても痛みはなく、くすぐったいだけなんだが……

 なんで触ったのかを後悔するような恐怖の念に襲われた。

 ……こんな状況で諦めないほうがおかしいよな


『ノア、貴方の未来は、ここで終わるように出来ていない。もし、貴方にまだ生きる意志が、人を自分を救う心があるのなら。私、女神テミスは貴方が選べる未来の道を一つ増やすことが出来る』


 こんな身体どうやって? 

それでも、生きれるのなら、生きていたい思いはある。まだやること、やりたいことが残っている。

 でも……


「……生きる意思はあると思います。でも、僕に人を救う心があるのか、分かりません」


 女神様はきっと、僕がエルナさんを助けようとしたから僕に手を差し伸べてくれている。

 でも、僕は竜の前に立ったとき、後悔した。なんで僕がこんな危ない目に遭っているんだ、エルナさんを置いて逃げてしまおうか。そんな事も考えた。

 そんな自分に、女神様の施しを受ける権利はあるのだろうか。


 そんな僕を見て、女神様はクスッと笑っていた。これが、迷える子羊を見る目なのだろう。とても優しく温かい目だ。見られているだけで悩みが溶けていきそうだ。


『ノア・ベルク、救う心というのは、助けようと考え、そして行動に移すこと。私から見れば貴方は、その心を持っているように見えますよ』


「……そう、でしょうか……」


 そう言われても、僕にはまだ納得できなかった。僕は誰かを守れるほど強くない。それなのに、勝手に飛び出して、恐怖して、負けて……いろんな人に迷惑をかけている。

 それなのに、まだ生きたいとまで思ってて……


 正解が、正しさが分からない……


 女神様なら……女神テミスなら正解を、正義を決められるだろうか……

 そう、僕は女神テミスを見つめた。貪欲に正解を求める。そんな薄汚れた人間の目に見えたのだろうか、女神様は困ったような顔をしてしまった。

 

『…………申し訳ありません。正義とはなにか、私自身もそれを決めることは出来ません』


「……正義が決められない?」


 思っていた解答と全く違うものだった。女神テミスと聞けば、真っ先に古代ギリシア神話に出てくる正義の女神を思い浮かべる。正義の女神様なのに正義を決められないことがあるのだろうか?


 そんなことを考えていると、女神テミスはふわりと笑みを浮かべ天秤の皿をスッと一撫でし、音もなく天秤から降りてきた。

 そんな女神様とは裏腹に、重りを失った天秤は天を突く勢いで大きく動き、ゴーンゴーンと教会の鐘のような腹に響く低い音を立て揺れている。


『私の天秤は、正義そのものを決めるものではありません』


 女神様は、天秤にそっと手を添え女神の役目、天秤の力について教えてくれた。


『天秤が量るのは公平さです。誰が有利で誰が不利か。その者が何を得て、何を失ったのか。これまで、どんなことがあったのか、そしてこれから何が起こるのか……その全てを乗せた上で天秤がどのように釣り合うかを観るのです』


「公平さを、見る?」


『ええ』


 女神様は、全てを見透かしているような、包み込むような達観した笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに歩みを進めてくる。


『そして私は法と秩序の女神。天秤が量ったものを、定められた法と秩序に照らし合わせ審判を下す。それが私の役目です』


 役目、そう言った女神様の顔はどこか哀しそうに見えた。

 女神様の手が僕の頬に触れたとき、人とは違う温かいのに体温を感じないその手から、後悔と、哀しみの香りを感じた。


『天秤は……必ずしも正しいと言える答えを出すわけではありません』


 僕よりも頭二つ分ほど高い位置にある顔に、不気味に思えるほど穏やかな笑みを浮かべながら、女神テミスはこう続けた。


『天秤は、どちらが正しいかを決めません。ただ、公平に量るだけ。その結果を見た時、どちらを選択するのか、それは貴方が決めることです』


 僕が……決める……?


 女神様は自分の胸に手を当てる、そして僕の穴の空いた胸にも手を当てる。


 僕は、痛いと声を荒げてしまった。さっきまで痛みなんて感じなかったのに……

 胸から広がり感じる痛みは熱く鋭く。目に見えない無数の歯車に体内をかき回されているような、体内をすり潰されながら断ち切られているような、そんな絶え間ない痛みが神経を、血管を伝って全身に広がっていく。

 痛い。力を抜いて膝をつきたいのに力を抜くこともできない。

 体感で数分が経った頃、やっと女神様の手が僕から離れた。


『貴方に、天秤の力の一端を貸します。それは貴方の魂を支え、平均を保ってくれるでしょう』


 女神様の手が触れていたところを見れば、あれほど酷かった胸の傷は、綺麗さっぱり治っていた。

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