第二十九話 薄氷の騎士
昨日よりどこか、ワクワクしている気持ちを胸に、ノアは駆けていた。走って向かわなければきっと電車に乗り遅れる。
今日は寮に寄って荷物を置いてこなくてはならない。時間に遅れている今、もう少し焦ってもいいようなものだが、ノアは楽しそうに走っていた。
(はは、このままじゃ、ギリギリだな)
霞んで見える春の空は、そんなノアを優しく見守っているようだった。
しばらく走っていると、前を一人の少女が歩いているのが見えた。子猫のようにふわふわの金髪を風に揺らし、もたもたと俯きがちに歩いている。
ノアと同じ国立竜災防衛学園の制服を着ているその少女に、ノアは会ったことがあった。
(あれ? エルナさん?)
それは昨日、オカルト研究会で出会ったエルナ・ルーシェその人だった
ノアは一声掛けるべきかと思い、走る速度を落としたが、昨日驚かせてしまった手前、なんと声を掛ければいいか分からなかった。後ろから声を掛けたら、また昨日のように脅かしてしまうかもしれない。
それに今日、ノアは先を急いでいる。自分から声を掛けておいて、その後に「今日は急いでいるから、さようなら」なんて言うのはすごい失礼なのではないかと、ぐるぐる考えてるうち、エルナとの距離はどんどん縮まっていく。
(すれ違う時に軽く、おはようだけ言おう)
ノアは驚かせないよう、離れた距離からなるべく大きめの足音を立て、エルナの横を走り抜けようと、再び速度を上げた。
「おはよう」そう、ノアが口を開きかけた。
突然、二人を照らしていた太陽が隠れてしまった。先程まで暖かかった空気が、生暖かい不穏な風を作っている。
ノアが上を向くと、そこには、ノアとエルナを見据える二つの目があった。
竜が現れる時、必ず警報が鳴る。どこにいても聞こえる空を切り裂くような大きな警報が。だが、そんなもの聞こえなかった。
(なんで……)
そいつは尻尾をこちらへ突き刺さんと大きく振り上げている。角度的に狙われているのはエルナだ。
ノアは咄嗟にエルナと竜のあいだに入った。竜からしてみれば一兎を追おうとしたら、もう一兎もこちらに寄ってきたようなものだ、人間のような肉など、容易く貫ける。
ノアは、自分へ向かってくる鋭い尻尾に、持っていたスーツケースを思いっきりぶん投げた。
──ギャギィンッ!!!──
そう、大きな音を立て穴が空けられたスーツケースは、奇しくも竜の攻撃を防ぎ切り、盾としての役割を全うした。スーツケースとしては、もう使えそうにないが……
刺さった衝撃が思いのほか強かったのか、竜は先の曲がった尻尾を引き下げた。
ノアはエルナに怪我がないか確認したかったが、戦闘経験のないノアでも分かる、目を離したら殺される。
(あ゛あああぁぁ!!! 馬鹿!なんで前に出たんだ!!! 勝てるわけ無いのに!)
ノアは防衛隊なのだから自分が守らないとと、考えなしに飛び出した自分の愚かさに腹を立てた。
基本、対面で竜に勝てるのは戦士兵だけだ、ノアたち防衛兵は、拘束や肉体強化など、サポートに回ることが役割になっている。
それでも、攻撃ができないわけではない。実際に攻撃魔法という物も存在する。ただ、負荷があるせいで長くは戦えない。正面から対峙すれば、いずれ竜に押し負ける。
どんなに強くなろうとも、せいぜい竜を一匹戦闘不能にするのが関の山だ。
自分に何ができるのか、恐怖で手が震え、ろくに魔法陣を描くことも出来ない。そんな自分に何が出来る?
それでも、前に出てしまった以上、もう背中を向けることはできない。
手が震える? それでも昨日のような失敗は許されない。
ノアはエルナに声を掛ける。その声は、恐怖を感じている心とは裏腹に、とても穏やかで優しいものだった。
「走れる?」
その言葉に返事は無かった。
けれど背後から、ゆっくりと立ち上がる音が聞こえた。
それを了承と捉えたノアは震える肩を手で抑え込み、これは武者震いだ。と自身の心を欺いた。
「僕が囮になるから、その隙に逃げてね」
ノアからすれば、突けばバラバラと割れてしまうような薄氷の虚言を張り、震え引きつった顔で言い放った心底格好の悪い必死の言葉。
だが、エルナから見るノアの姿は、おとぎ話に出てくる騎士そのものだった。
ノアは火球の魔法陣を描き、竜の顔面に始まりのゴングを叩きつけた。
爆炎が竜の顔を包み、その巨体が地面に叩きつけられた。
「走って!!!」
ノアはエルナにそう告げ、次の魔法陣を描き始めた。
◇◇◇
「ゲホッ……ッ……カヘッ ぅっ……ぉぇ……」
ノアは地面に倒れていた。全身に打撲痕やえぐられたような引っかき傷を作られ、これ以上立てそうに無い。
(……熱い)
頬や指先に当たる地面は、氷のように冷たく感じるのに、全身の傷口が熱を帯び、その熱が身体の中心でひとまとまりになっているのかと思うほどに中が熱い。
視界が歪み霞む。
遠くに竜の目が見える。ギラギラと光る捕食者の目。耳の中で響く弱々しい脈とともに揺れている。
なんでこの状態で僕は死んでないのか、死にたくないとすら思ってしまう。でも、もう息をする力すら残ってない。
(エルナさんは、逃げられたかな……)
◇◇
『───』
『─ア───』
『ノア────』
『ノア・ベルク。起きなさい。貴方にはまだやることが残っている』
誰……?
気が付くと目の前に、大きな天秤に腰を掛けている一人の女性がいた。




