ガラケー
「おはよう」
「おはようございます」
忌引き明け、やはり美音は皆より早く出勤し、出勤してきたメンバーに挨拶を交わす。珍しく早くきた室岡のデスクの前に、美音は立った。
「課長、忌引休暇ありがとうございました」
「いや、少しは落ち着いたか?」
「はい」
「納骨は、いつ?」
「もう少し先にしようと思ってます。父もまだですし……」
「……そうだね。急ぐこともない」
「はい」
「……少し、打ち合わせしようか。今、大丈夫?」
「はい。まだ、始業前ですから」
室岡は自分のパソコンで会議室を予約したらしい。美音を連れて、部屋に移動した。
「ブラインド開けてくれる」
そう言いながら室岡は、美音に気づかれない様に入口のカギを掛けた。そのまま、窓のところに立っている美音の横に立つ。
この部屋は小さいのだが、窓が大きく取られているので、外の景色が朝の空気の中で輝いて見えた。空には小さな彩雲が出ていた。小さな雲の塊の端の方が、薄く虹色に染まっている。美音もそれに気づいたらしく、小さく「綺麗」と呟いた。
「あれを見ると、幸運の印らしいぞ」
室岡はそんな外を眺めながら、話を始めた。
「アシスタントの仕事、再開しても大丈夫か?」
「……はい。よろしくお願いします」
その声が、まだやはりあまり乗り気ではないように聞こえて、室岡は小さな溜息を吐いた。
「今、煌愛欄に行ってる?」
「いえ、少し交代をしてもらってます」
「君が休んで、土日を挟んだから、会えなかった日が1週間……」
「はい」
「綾ちゃんになってくれないかな……。少しでいい」
「えっ……」
返事をする前に、美音は抱き締められていた。室岡は何も言わず、更に強く抱きしめる。体温と鼓動が伝わってきた。
「課長……人が来ます」
「ちゃんとカギは掛けてある……。もう少し」
そう言われて、仕方がないので美音も力を抜いて、そっと室岡に体を預けた。
「明日から、大阪に行くことになった」
「……どれくらいですか?」
「1ヶ月くらいだ。週に1度は戻ってくる。こっちも、放っておけない案件ばかりだからな」
「はい……」
「広瀬に留守は頼むことになる。君と打合わせた案件は、サポートしてやってくれ」
「はい」
まだ放してくれない室岡の腰に、美音は両腕を回した。そっと力を入れて、スーツの上から抱き締める。
「そんな事されたら、もう無理だ」
室岡は美音の頬を両手で包んで、そのまま唇を覆った。今までよりもずっと熱いキス……。
「んっ……」
長いキスの最後は、惜しむようにもう一度、下唇にだけそっとキスをした。美音は拗ねた様な目で室岡を睨んだ。
「……課長、何してるんですか」
「ん〜、セクハラ」
「……油断もスキもない。……戻ります」
ドアに向かって歩き出す美音の背中に、室岡が声を掛けた。
「なぁ、もし、また大阪に異動になったら……」
その言葉に美音は振り向く。室岡は言葉をつぐんで、美音を見ていた視線を窓に戻した。
「いや……、何でもない」
「課長」
今度は美音が室岡の背中に声を掛けるが、こちらを振り向くことなく答えた。
「……何だ」
「口紅が付いてます」
「おっと」
ハンカチで口を拭くのと、ドアが閉まるのが同時だった。
翌日、美音は常務室のドアを叩く。前室に秘書が座っていて、美音を迎えた。
「杉浦美音です」
「常務がお待ちです。時間は15分でお願いします」
頷いて、常務の部屋に入った。
「長い間、父と母がお世話になりました」
常務は椅子に座ったまま、美音を見据えている。無垢材の重厚なデスクの前に置かれた応接セットには、あの島崎部長が座っていた。頭を上げた美音に、横から島崎が声を掛ける。その声は、やけに明るかった。
「お母さんは、急だったね」
「はい」
美音は手に持っていた古い携帯電話を、常務の机の上に置いた。それを見た島崎が慌ててソファからやってきて、奪うようにその携帯を手に取った。電源を入れ、慣れないガラケーに手間取りながら、それでもなんとか目的のものは探したらしい。スピーカーから音声が流れだした。
「……この売女が! どこから金が出た。…… 男にでも貢いだか!」
慌てて音声を止めて、「くそっ!」と吐き捨てながら、狂ったような強い目で美音を睨みつけた。
「バックアップは、ないだろうな!」
「もう、必要ありません」
それを聞いた途端、島崎はその折り畳み携帯を両手で力いっぱい折り曲げる。ガキッという音と共に、携帯は2つに分かれた。挿入されていた小さなメモリを抜き、それまでも力づくで折り曲げる。
「もういいだろう。お前は仕事に戻れ」
言われた島崎は、苛立たし気に美音の横をすり抜けて、部屋を出て行った。
「さて、君はどうする」
「辞表をお持ちしました。日付は1ヶ月後にしてあります。できれば、引継ぎのため2週間は出社したいのですが。後は、有給消化をお願いいたします。後任はご用意いただけますか?」
「分かった」
「常務も、お元気で。失礼します」
美音は頭を下げることなく部屋を出ていった。常務は電話で、秘書を呼びつける。人事部部長を呼び出すよう指示を出した。
次の日には他の部署で庶務をしていた女性が1人、美音の部署に配属された。美音は皆に挨拶して回る。
「異動が決まりました。せっかく皆さんに良くして頂いたのに、残念です。あと2週間、引き継ぎでお世話になりますが、最後までよろしくお願いいたします」
突然の出来事で、驚いたのは斉木達だ。
「何、何で異動なの? 杉浦さん、何かした?」
「さぁ、よく分かりません。いつものことで……。斉木さん、これ受け取っていただけませんか?」
「何?」
美音はファイルを1冊渡す。それに目を通した斉木が驚いた。
「これ、アシスタントの資料じゃない。しかも、こんなに細かく……」
「課長がいらっしゃらないので、広瀬さんにご迷惑をお掛けしてしまいます。少しでもと思って作っておきました」
斉木はその言葉を聞いて、口をつぐんだ。今日の今日で、どうしてこんな資料が用意できるだろうか……。
「杉浦さん、当然この異動のこと、課長は知ってますよね?」
「はい。ご存じのはずですが……。逆に私には分かりません」
「つぎは、どこの部署ですか?」
「2課です。古巣の隣で、急に人が辞められるみたいで。向こうに行っても、たまに遊びに来てもいいですか?」
「いいけど……」
「斉木さんは、ディレクターになりたくありませんか?」
「それは……」
「その資料は、いらなけれは捨てて下さい。斉木さんのために作りました。何の役にも立たないかもしれませんが、せめてものお礼です。この半年、とても楽しく仕事させていただきましたから」
「杉浦さん……」
それからは、新しく来た庶務の女性に、美音は引継ぎをするのに忙しくなった。しかし、同じ庶務なので、細かいルールが違うだけで、思ったほど苦労はしないで済んだ。
その週の金曜日、本来は室岡が戻って来る日なのだが、とにかくこちらの日程が詰まり過ぎていて、クライアントに直行し、撮影現場やパッケージの確認、更に別のクライアントを巡りながら打ち合わせをし、そのまま大阪に直帰するという、美音にとっては顔を合わせずに済む日程で、無事終了した。後で聞いた話では、広瀬がヘロヘロになって帰社したらしい。その間、室岡からは何の連絡もなく、逆に美音は不安になったくらいだ。裏で動かれていては、困る……。それでも、美音からは連絡をしなかった。……できなかった。
美音が心配した通り、室岡は裏で動いていた。といっても、今回の大阪行きは、前回大阪にいた時の大型プロジェクトの第2弾で、クライアントの要望で室岡が指名され急遽決まったことで、自由に身動きが取れないでいた。美音の詳しい異動の内容も、情報収集すらできない状態で、さすがの室岡もお手上げに等しい。ここで美音に直接問いただしてもいいのだが、きっと彼女は本当のことを言わない。直接顔を見なければ、嘘かホントか判断はできなかった。
「待ってろ。とにかく1ヶ月後には、こっちに引き戻してやる」
そう言い聞かせながら、目まぐるしい日々を送っていた。
次の金曜日、前回と同じくスケジュールは一杯で、広瀬と撮影スタジオに移動している時だった。
「課長、次の撮影ですが、斉木さんに参加してもらってはダメでしょうか?」
「斉木? 彼女では、内容は分からないだろ?」
「それが、杉浦さん、斉木さんに今までのアシスタント資料、全て文書にして渡したらしいんですよ」
「杉浦さんが? 何で、斉木さんに?」
「僕をサポートできなくなるからって、用意していたみたいで……。僕も斉木さんにコピー貰いました。これです」
その資料の量にも驚いたが、担当者の「人と成り」に至るまで、こと細かに書かれている。ざっと目を通して、室岡は違和感を覚える。
「これは、いつ渡された?」
「それが、異動が決まった日に……」
「……」
「おかしいですよね。彼女は事前に知っていたんでしょうか、異動の事……。じゃなきゃ、こんな資料、急には出てこないですよね」
「……そうだな。取り敢えず、斉木を参加させていい。この資料は、読み込んであるんだな」
「はい。張り切ってましたから」
「……そうか。じゃあ、広瀬の荷物持ちくらいはできるだろう」
確かに資料は優れている。だが、これで即座に美音の代わりができるわけではない。室岡としても、斉木がこのまま順調にデザイナーの技量を上げていってくれれば、次はアートディレクターを経験させていこうとは考えていたが、まだ今では早い。
クリエイティブディレクターに必要なのは、何より判断力だ。デザインもコピーもCMも、今ではウェブの全体像までも、方向性は全てディレクターの判断で決まってしまう。各クリエーターの実力はもちろん、得意・不得意までも把握し、ベストなチームで企画営業が示した方向性を実現していかなければならない。
判断するためには、クリエイトの経験だけでは無理だ。生まれ持っている資質が大きく関わってくる。企画営業から持ち込まれたクライアントの要望を、どこまで汲み取ることができるのか、そこでは想像力とコミュニケーション能力は必須だ。個性の強いクリエーターたちの衝突も収めていかなければならない。そこには冷静さと折衝能力が必要である。
また、どんな順序でどんな仕事が発生するのか理解したうえで人を収集し、タイムスケジュール通りに進んでいるかの管理能力も大切だ。
そして最終的には、それに関わる全ての人達を惹きつけるカリスマ性が必要になる。美音にはその才があった。経験値が少ないのは確かに不安要素ではあったが、ここまで引っ張り上げられたのは、もちろん私情もあるが、何より彼女が適任だと判断したからだ。「なりたい」や「ならせたい」だけで、なれる立場ではない。室岡にしても、まだまだ志半ばであり、思うようにいかないことも多々あるのだ。そんな美音が、今更庶務に戻るだなんて、あり得ない。
「あと、課長……。もう1つ気になることが……」
「何だ」
「杉浦さんの異動先なんですが、おかしいんです」
「……どういう意味だ」
「先日同期と飲み会があって、そこに杉浦さんの異動先の奴がいて、その話になったんですが」
「うん」
「確かにお子さんの病気とかで庶務さんが辞めるらしいんですけど、新しく来る人が若い子だって喜んでるんですよ、そいつ」
「どういうことだ? 広瀬達から見て、杉浦さんは若いのか?」
「そんなはっきり言わなくても……」
「違うよな」
「はぁ、まぁ。それに、10年前の杉浦さんのことは、僕らの年齢なら一応知ってますし……。名前は聞かされていなくて、年齢だけの情報だったのかもしれないんですけど……。ちょっと、それ以上聞けなくて……」
「確かにどちらも、おかしいな……。分かった、一度聞いてみよう。とにかく、次の案件に集中したい」
「分かりました」
全てのスケジュールをこなした室岡は、タクシーを拾おうと、広瀬と一緒に待っていた。
「課長、どちらに」
「一度会社に戻る。少し調べたいことがある」
「もうこんな時間ですよ」
時計は、もうすぐ22時になろうとしている。
「あぁ、広瀬はもう帰っていいよ。お疲れさん。来週も、また頼む」
「分かりました。お先に失礼します」
何かの予感があったわけではない。ただ、今日が美音の異動前の最後の日だから、何か変わったことはないか、目で見て確かめようと思っただけだった。もし残っている者がいれば、少しでも話を聞いてみようとも考えていた。広瀬の情報だけでは、分からないことが多すぎる。
室岡がフロアに入った時、フロアの半分は消灯されていた。どんな状況であっても、22時を過ぎる残業は、現在許されていない。ところが1人、手荷物をもってやっと帰途につこうとしている姿が目に写った。
室岡は大股でその人物に向かって足を進める。そして1歩進めるたびに、今までその相手には抱いたことのない「怒り」が、どんどん大きくなっていく……。室岡の存在に気付いた相手も、驚きと恐怖が混ざった顔で、歩みが止まっていた。室岡は、その人の前にすっくと立った。
「どういう事だ!」
室岡はその人に向かって、声を荒げた。相手はピクリと体を強張らせた。
「課長……、どうして……」
「どうして!? こっちが聞きたい! それは何だ。異動するのに、なぜ全てのものを捨てる必要があるんだ!」
美音が1人、残っていた。そして、手には大きなゴミ袋がぶら下がっていた。そのなかには、美音が使っていただろう、多種多様の私物が入れられている。筆記用具やスリッパや小さなクッション、卓上扇風機にコーヒーカップ、ひざ掛けもある……。それらは今まで美音のデスクにあったものばかりだ。引き出しの中や、机の下や、椅子の背に。室岡はちゃんと知っている。美音の事なら、何でも知っているのだ。異動ならば、異動先でも使うものばかりである。
「君は、会社を辞めるつもりなのか!」
フロアが静まり返った。2人以外誰もいないフロアに、美音が床に荷物を置く音が小さく響いた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
美音は両手を揃え、静かに頭を下げた。今日も課長は直帰の予定だった。会わないで済むはずだったのに……。もっと、綺麗に、目の前から消えることができるはずだったのに……。
室岡は次の言葉が出てこなかった。目の前で頭を下げているその人が、急に見たこともない赤の他人かとさえ思えてくる。一体、君は、誰だ……。
頭を上げた美音の顔を見て室岡は全身に衝撃が走った。
「言っただろう! その顔で話す言葉は、僕は信じない!」
雛人形の笑みだった美音の顔が、みるみる歪んでいく。頬を一筋、涙が伝った。
「どうして僕のそばにいてくれない!?」
「……すみません」
「こんなに大切に思ってるのに、分からないのか!?」
「……すみません」
「行かないでくれ」
「……すみません」
「教えてくれ。どうしたら、君の心に届くんだ……」
泣きそうな顔を、室岡は隠すことなく晒す。プライドも常識もメンツも、もうそこには無い。
「……すみません。もう心は……、壊れて無くなってしまいました」
「頼むから、止めてくれ。これ以上、苦しめるのは……」
「本当に、すみませんでした。もう、いなくなりますから、課長は、苦しまないで下さい」
「違う! 苦しんでいるのは……、君自身だ」
驚いた美音が、室岡の顔を見上げた。
「苦しんでいるのは、僕じゃない。君が、君自身を苦しみ続けてる」
「……」
「もう、止めてくれ……」
何を言っても届かない。どうすることもできなくて、室岡は美音を抱きしめた。抱きしめているのに、触れているのに、君の心に届かない。
「君の人生は、君自身でしか、取り戻せない」
「課長……」
「君は、愛されるべき資格のある人間だ。早く、思い出して……。頼む……」
「……」
更に強く抱きしめられて、身動きが取れない。心臓の音が……、室岡の心臓の音が、体を伝わって響いてくる。あぁ、それでもこの人は、心を結ぼうとしてくれている……。
――だから、綾ちゃんには見逃して欲しくない
「課長……、抱いてください……」




