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12/16

 つい昨日は、また真夏日を超えただの、多治見では38度を超えただのと言っていたのに、今日は最高気温が25度だという。急に熱くなった5月も大変だったが、こう温度差があると、体が慣れずに悲鳴を上げる。

 福田と吉岡が2人揃ってマスクをして出勤して、鼻をグズグズさせている。相変わらず早朝出勤の美音は一仕事終えたところで、コーヒーを飲んでいた。

「おはようございます。風邪ですか?」

「昨日の夜、涼しかったでしょ。クーラー掛けっ放しで寝たら、朝、鼻がグズグズで……」

 と言いながら、大きく1つくしゃみをする。

「お前、なんでくしゃみする時に、マスク外すんだよ。意味ないだろ」

「ん……。だって、マスク汚れるし……」

「だっ、もー」

 と吉岡が文句を言っている。それでも仕事を始めれば優秀な2人なので、休まれては大変だ。美音は自分で常備している風邪薬を、2人の元に持って行った。

「これ、ひき始めによく効くんですよ。ただ、眠くなるので、気をつけてくださいね。毎食後1回2錠ですよ」

「ありがとう……、お母さん」

 福田がふるふるした目で美音にお礼を言った。その頭を後ろからコツーンと書類で叩きながら、斉木が声を掛ける。

「でっかい子供だねぇ」

「おはようございます、斉木さん」

「おはようございます」

 出勤してきた斉木と、挨拶を交わす。美音は、この斉木こそが次のACDだったのではないかと考えていた。自分がそこに割り込んでしまった形になったのではと思っている。「その日」が来た時のために、美音は室岡に教えられていることを、ずっと手順書の様に書類に残している。人脈も、名刺と写真をファイルに残し、性格や会話で得られた小さな情報なども書き起こしている。スケジュール管理などは、既にフォーマットができているので、それを渡すだけだが、それでも何かを引き渡せたらと思っていた。

「杉浦さん、それ僕にも頂戴」

 美音を呼んだのは室岡だった。そう言えば課長も朝からマスクをしてたっけ……。

「課長も風邪ですか?」

「ん……。どうやら、熱っぽい」

「えっ、熱があるなら、病院行って下さい。これは、熱にはあまり効かないんです」

「それでいい」

「……じゃ、解熱剤を差し上げますので」

 と席に戻りかけたら、室岡がメモにさらさらと何やら書いた。トントンと指で示して、美音に読めと言っている。

“みんなにばっかり、ずるい。ぼくにもおなじの、ちょうだい!”

「……」

 うわっ、子供か! しかも平仮名ばっかりで、読みづらい……。半眼になりつつ、掲げたまま待っている左手の掌に、同じ薬を乗っけた。満足そうに微笑んだ室岡の顔を見て、

「もう1人、大きな子供が……」

 と小さな声が、美音の後ろから聞こえた。振り向くと斉木が、美音と同じ目をして課長を見ている。思わず目で頷き合いながら、美音は席に着いた。やっぱり、引き継げるのは斉木しかいないと、決意が新たになる。


「11時に神田でよかったか?」

「はい……。あの課長、体調が悪いのでしたら、予定をズラしていただきましょうか?」

「そんな軟なこと言ってると、『だから女は』って、言われなくてもいいこと、言われるぞ」

「……申し訳ありません」

「さあ、行こう」

「はい」

 室岡に付いて仕事をするようになって、1つだけ自分の価値観が変わったことがある。それは、やはり男性は頑張っているということだ。愚痴も言うし、サボりもするし、逃げることもある。だが、基本的には、頑張って仕事をしている。多分、女性よりも……。

 女性が頑張っていないということではない。敢えて言うならば、女性はどこかに「甘え」があるのだと思う。意識下に「許してもらえる」という、甘えがあるのだと思えてならない。それはきっと、小さい頃から「女の子なのだから」と守られて育ってきた証なのだろう。

 もちろん、女性ならではの悩みもあれば苦労もある。しかしそれは、ほとんどの場合、仕事にとってはどうでもいいことだったりするのだ。結局、日本の仕事を根本で支えているのは、男性なのだと思うようになった。そして男性も仕事に於いて、決して楽に、生き易く生きているわけではないのだと実感した。

 ただこれは、あくまでも仕事に於いての話である。子を産み育てることに於いては、立場が逆転する。これは、体の構造の違いなのだから、いかんともし難く、分かりやすい事実だろう。

 そして、確定的なことは、男だ女だなどということを超越できない世界で自分は生きているのだと、美音は悟ったのである。性別に関係なく、その「人」にしかできないという「仕事=お金が稼げる」の世界で生きている人は、ごく一部に過ぎない。

 

 訪問先は馴染みのクライアントで、すでに企画営業から大まかな話は聞いていたのだが、室岡が立ち会えば、自ずと具体的な話になり、打ち合わせは2時間程掛かった。お昼の時間になっても、先方の要望が途絶えることがなく、終わったのが1時頃になった。

「課長、大丈夫ですか?」

「何がだ?」

「……体調です」

「……昼食にしよう。腹が減っては、だよ」

「……そうですか」

 打ち合わせ中から体調が万全でないのが、隣にいる美音にはよく分かった。無理が効く歳ではない、とは言えない……。

「今日の店長、エネルギッシュな方でしたね」

 自分の店の3店舗目を出店するとのことで、今までの出店で広告を請け負っていた我が社に、引き続き依頼が来たのだ。ちなみに、店長は女性だ。

「この仕事の一番いい所だな。前進している人ばかりに会える。エネルギーを貰える」

「課長も、エネルギーを与えている側の人だと思いますが」

「……」

 あれ? ドヤ顔ネタが返って来るかと思ったが……。そんなに、調子悪い? 美音は横から顔を覗き込んだ。それに気づいた室岡が、少し身を引きながら不思議そうな顔をした。

「何?」

「いいえ、ホントに大丈夫ですか?」

 そんな美音をじっと見つめて、室岡は足を止めた。

「ん……。君は、どうして前進しないのかなって思ってね……」

「……」

 そのまま何故だか室岡が「ちょっと、座ろうか」と言って、パイプのガードレールに腰を落ち着けてしまった。美音はスカートが汚れても困るので、座ることなく室岡の横に立った。後から考えれば、この時室岡は、かなりしんどかったのだと思う。

「何が一番不安?」

 改めて問われて、美音は即答できなかった。「その日」の後、自分はどう生きていきたいのだろう。父が亡くなったことで、「その日」は確実に近づきつつある。

「お一人様の老後? ですかね」

 笑って欲しい所だったが、なんだか真面目に考えている様子で、やはり熱があるのだろうか。

「……なんだ、そんな事か」

「そんな事って……」

「至極簡単なことだよ。お一人様が不安なら、子供を産めばいい。それには相手が必要だって言うなら、探せばいい。探せないというなら、近場で間に合わせればいい」

「そんな……、簡単にいきません」

「簡単だよ。君が難しくしているだけだ。過去がどうであれ、未来までそうだと決め付けている」

「学習しただけです」

「そういうのは、学習と言わない」

「何です?」

「冒涜だ」

「ぼうとく?」

「そう。全ての人に与えられた唯一の平等なもの、『時間』に対する冒涜だ。怠惰とも言うな。また同じ結果になるだろうから、もうしない、ってやつだ」

 それまで普通に話していた室岡が、次にはまるで演説でもするかのように、手振りまで付いた。

「かの松下幸之助は言った。『失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる』とね。そして、そうした努力を惜しむことを、怠惰と言う。時間を軽んじているから大切にしないということだ。つまり、冒涜だ」

「……課長は、面倒くさいって言われませんか」

「言われない。それに」

 一旦言葉を切ったかと思ったら、わざわざこちらを見て、美音が目を合わせるのを待って言葉を続けた。

「近場になら、僕がいる。どう?」

「……しつこいって言われることは」

「ない!」

 ふんっ、と美音の言葉を鼻であしらいながら、顔を元に戻した。

「課長の様に、全て勝ち抜いてきた人には分からないんです。懲りるって、分かりますか? 誰も同じ過ちで同じ苦しみを味わいたくないんです」

「じゃあ、君の過ちは何だったと?」

「……全て、ですよ。全ての選択は過ちだった。この会社に入ったのも、東京に出たのも、ピアノを習ったのも、生まれてきたのも」

「ふっ、君は1か0なんだな。人間はデジタルでできているわけではないよ」

「……課長には、過ちや失敗はなかったんでしょうね」

「なかったよ。かのエジソンはこう言った。『私に失敗はない。ただ1万通りの上手くいかない方法を見つけただけだ』」

「……やっぱり、面倒くさい」

「エジソンをバカにしちゃいけない。彼はこうも言った。『私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう1回だけ試してみることだ』とね」


 途中から気が付いたのだが、こんなにスラスラと格言が出てくるという事は、きっと課長自身が何度も何度も自分に言い聞かせてきた言葉であって、人を説得したり懐柔しようとして言っている言葉ではない気がした。何だか今も、自分に言い聞かせているように聞こえる……。

「課長、なにか心配事でもおありですか?」

 唐突だったのだろうか。前屈みで、膝に預けた掌を組んだ姿のまま少し固まってしまい、また不思議そうに美音の顔を見る。次の言葉が出てきそうになかったので、美音は課長を元に戻すことにした。よし、お腹を満たそう!

「課長、もう1回試す前に、私はお腹が空きました。何か食べませんか?」

「……確かに、いい提案だな。この先に美味しいパスタを出す店があるから、そこでいいか?」

「はい!」

 店に移動すべく、通りを曲がった。しばらく2人とも無言で歩いた。美音は冗談のように繰り返される室岡の言葉を反芻していた。もう1回だけ……。


 室岡の方は、昨夜のことを思い出していた。久し振りに東京に出張で来た、大阪時代のディレクター仲間と会っていた。

「やあ、元気か?」

「久しぶりです。相変わらずですか?」

「お陰様で。東京はライバルも多いが、顧客の絶対数も多いから、何とかな。そっちは?」

「色々大変です。この間、狭間さんが異動になったの、知ってますか?」

「一応な。やっぱり、大変だろうな……」

「ええ。ディレクター達が、バラバラですわ」

「そうだろうな……。狭間プロデューサーでまとまってたようなもんだったからな」

「そうなんですよ。どのチームも、どのディレクターの言う事優先させたらええんか、もう振り回されっぱなしで」

「後釜は、観世(かんぜ)さんだったか?」

「そう。あの人、ダメです。既存のチームや人材無視で、自分の仲間ばっかり引っ張ってきて起用する。軋轢しか生まない」

「うん……」

 だろうな……。観世は叩き上げのプロデューサーじゃないから、現場とのズレがある。それがいいこともたくさんあるのだが、人の繫がりが密な大阪では、確執も多く生んでしまう。そこのところが、東京育ちの観世には、まだ分かっていない。カウンターで横並びで話していた彼が、室岡の方に顔を向けて真剣な目で言った。

「室岡さん、大阪に戻ってきませんか!」

「……」

「室岡さんなら、観世さんにも上手く立ち向かえるし、体勢を立て直すこともできると思うんです。室岡さんさえその気になってくれたら、僕ら上に掛け合います!」

「……少し、考えてみるよ」


 元々、室岡が大阪転勤になったのも、当時の大阪支店が今とよく似た状況になっていたからだった。狭間プロデューサーに呼ばれる形で行ったのだ。だから、やりがいもあったし、何とか立て直してきたという自負もあった。だが、同じことをもう一度するのには、今の室岡には手放すものが大きすぎる。東京で新たに築いた人脈や、部下たちの面倒も、まだまだ中途半端だ。そしてなにより、今の一番の気掛かりは、美音である。

 ひっそりと隠れるように生きてきた人を、自分の気持ちだけでここまで表に引きずり出してしまった。それを見捨てて離れることは……、できない。


 ――課長、なにか心配事でもおありですか?


 心配事は、君だよ……。もし一緒に行ってくれるなら……。室岡は隣で歩く美音の耳元で煌めく、あのイヤリングを目の端で確認しながら歩いた。


「これ、何の音だか分かるか?」

 美音は突然声を掛けられた。室岡の足が止まっていた。ヴィーンと唸るような音がしている。かなり大きな音量だ。こんな街の中に、どこかに工場でもあるのだろうか?

 美音はキョロキョロしながら、上空を眺める。音は、上からしている。美音は、音の先にある空間を目にし、音を探すことをあっという間に手放していた。もうすぐ冬だ……空が、高い。

「また、君はすぐ空に心を持っていかれる。ちゃんと、探して。いいか、あそこに防音壁があるだろ」

 室岡が指を差すその方向に、意識を戻した。

「あぁ……、はい」

 首都高の側面にある防音壁だ。その所々に、小さな引き戸の窓が作られている。それは、その外にある街灯の整備点検のための窓だと思われた。その窓の、摺動するために必要なわずかな隙間から風が通り抜け、この不快で大きな音を発していることに気がついた。

「あれがあるから、この音がしてるんだ。音を防ぐはずのものが、自ら音を出して近くに住む人々の騒音になる」

「はい」

「君も同じだ」

「……」

「自分を守っているはずの心の壁が、逆に君を孤立させ、永遠に恐怖が恐怖のままで、融解することがない。そして、全ての感情が外に出られずに、君に跳ね返るんだ」

 室岡はそっと掌を美音に差し伸べた。

「もう、そっから、出ておいで」

「課長……」

 もう1回だけ……。美音は手を少しだけ上げた。室岡は「おっ」という顔をして、じっと待つ。いつか恭介のバーでした時の様に、決して自分から美音の手を取りにはいかない。美音は上げた手を、やはりそのまま下ろしてしまった。

「う〜ん、上手くいかなかった1回だな」

 そう笑った室岡は、出した手を引っ込めて、またパスタ店に向かって歩き出した。


 翌日、結局室岡は会社を休んだ。やはり熱が上がったらしい。あのあとパスタ店でも、室岡は半分ほど残していた。きっと、あの時すでに、相当苦しかったはずだが、当然の様に弱音は聞かれなかった。

「やっぱり、無理にでも帰ってもらえばよかったな……」

 小さく独り言ちながら、美音は庶務の仕事をこなしていた。その美音のスマホが振動した。

「楠の里ですが」

「はい。お世話になっています」

「お母様が骨折されまして、病院に入院されました」

 美音は午後から早退させてもらった。


「お部屋の中で、自分でトイレに行かれようとしたみたいで」

 父が亡くなって、母は個室に移った。そのことで、急激に認知症が進行してしまった。父がいるうちは、母は母なりに父を面倒見ていたのだろう。所々言う事の辻褄が合わないくらいで、自分のことは自分でできていた。もちろん、車椅子への乗り降りやお風呂などは介助が必要だったが、トイレに行きたいだとかの意思は伝えられていたし、食事などはちゃんと自分で食べていた。

 だが、昼間話す人がいなくなり、そのうちみるみる耳が聞こえづらくなった。それは更に人とのコミュニケーションが減る要因となり、どんどん認知症が進んでしまっていたのだ。認知症にとって生活の環境が変わることが良くないことは分かっていたのだが、美音が引き取って介護することは、本当に無理なので、ただ見守るしかなかった。

 もう今では、ほとんど自分でトイレで排泄することはなくなっている。昼間は車椅子で、色んなレクリエーションに参加させてもらっているようだが、それも自分でやりたいと言ったわけではなく、日々のローテーションの中の1つとして認識しているようで、美音は手をこまねいているしかなかった。


「お母さん……」

 病院に到着した美音は、大部屋の隅に寝かされている母と対面した。骨折のせいで熱が出ているらしい。足がワイヤーで牽引されている。点滴もされていて、痛み止めも入っているらしく、「痛い」と言う言葉は聞かずに済んだ。今は寝ているばかりだ。

「まさか、ベッドの柵をご自分で外してしまわれるとは思いもよらなくて……」

 介護士の女性はそう説明した。施設内のケガなので、ことによっては損害請求に発展する事項だ。美音は、毅然とした態度を取った。

「信頼してお任せしていたんです。痛い思いは、させないでやって下さい」

「申し訳ありません」

 施設長は一応頭を下げた。しかし、きちんと見回りもしていたし、今までそんな行動は一切なかったので、こちらとしては責任を負いかねると弁明した。弁護士を立てて係争をすれば、多少の金額は手元に入るかもしれない。しかし、美音にはその気力はとうていなかった。これからのことを考えるだけで、精一杯だったのだ。

「施設に戻れるかどうかまだ分かりませんが、父が安らかに逝けたのも、皆様のお陰です。今後ともよろしくお願いします」

 と頭を下げた。これから、美音はしばらくこの救急病院に通うことになる。それがどれほどの負担になるかは、何度か経験済みだった。生活が、一変する……。

 

「課長、お話があります」

 翌日、病み上がりの室岡のデスクの前に、憔悴した美音が立った。2人とも日頃のエネルギーの半分もない。

「分かった。会議室を取るか?」

「いえ、打ち合わせブースで結構です」

 フロアの片隅に、誰でも使えるオープンで小さな会議スペースがあった。その机の端に、室岡と美音は腰を落ち着ける。

「アシスタントを、外していただけないでしょうか」

 突然の申し出に、当然室岡は驚く。

「どうした!?」

「母が施設内で骨折をして、救急で入院しまして……」

「いつ!?」

「昨日です」

「……」

 室岡も、母親が家の中で転んだ際、腰椎圧迫骨折の疑いのため2日程入院したことがある。その時に、たった2日の入院なのに、かなり時間のやりくりに苦労したことを経験していたため、なぜ美音がこんな申し出をしてくるのかは、十分理解ができた。

「手術になるの?」

「まだ決めていなくて……」

「そう……。お母さん、認知症の方は、どう?」

「……父が亡くなってから、急激に酷くなってしまって……」

「知らなかったな……。そうだよな、お父さんがいなくなって、お母さんも生活が変わっただろうから」

「はい……」

 認知症の介護は大変だと聞く。ひどい暴言や暴力。それによる、診療拒否や退院勧告。病気がさせる行動だと、誰もが分かっているのだが、それを、その誰もが甘受してくれるほど、現実は甘いものではない。

「辛くないか?」

「大丈夫です」

「君の大丈夫は、信用できないからなぁ……」

 その言葉に、急に小さくなってしまう美音を、さすがの室岡も、これだけ人の目があっては慰めることができない。これからどんどん大変になっていくことは、目に見えていた。

「申し訳ありません。せっかく、引き上げて下さったのに」

「いや、それはいい。こんな時代だ。だれにでも起こりうることだから……。また、落ち着いたら復帰すればいいから」

「……ありがとうございます」

「取り敢えず、庶務の仕事は続けられそうか? 介護離職は避けられるよな?」

「はい。それは続けさせていただけると、助かります」

 今、仕事を辞めることは無理だろう。経済的にも、入院費は高額医療費制度を利用すればいいとしても、特養もタダではない。今後必要なお金が、減ることはないのだ。

「分かった。もう少し、広瀬に頑張ってもらおう」

「すみません……」

「それにしても……」

 君はどれだけ苦労するんだ……。と言う言葉を、思わず声にしそうになって、慌てて引っ込めた。そんな室岡に、今度は美音が声を掛ける。

「課長は、もう大丈夫なんですか? ちゃんと、病院には行かれましたか?」

「昨日行ったから、大丈夫。皆に迷惑掛けました。申し訳ない」

「それは、よ……。……ったので」

 小さく呟いたので、室岡は聞きそびれた。

「何?」

 確認すると、急に美音の顔がみるみる赤くなった。何、この可愛い反応は……。なんて言ったの? 絶対聞きたい!

「何?」

 期待を込めてもう一度聞く室岡に、美音はすっかりいつもの半眼に戻って

「なんでもありません。では、よろしくお願いします」

 と席を立ってしまった。いやいや、上司が質問してるの。先に席立つって、ありえないから……。皆の目があるため、これ以上引き留められない。うわー、何だったんだー!


 その週末、美音は病院の担当医と面談をしていた。

「お母さんの様子を見ていたんですが、痛みに対しては、さほど反応をされません。痛くて寝られないとか、暴言を吐き続けるだとかは、今のところ全くありませんよ」

「先生、母は骨折前から車椅子でしたし、認知症が進んでいて、手術を受けたことが認識できるかどうかも分からないと思うんです。ですから……、痛みが落ち着くようなら……、手術はしないでおこうと思います」

「そうですか。その判断には、私も同意します。まだ年齢的にはお若いので、いざという時の全身麻酔のリスクはさほど高くないのですが、とにかく本人の不安が激しいようで……。そんな方に手術を勧めるのは、強制でしかないのではと考えます。まぁ、これは私の主観ですが」

「そう言っていただくと……」

「ただね、もしかしたら、このまま寝たきりになってしまうかもしれないんですよ。そうすると、あきらかに死は近づきます」

「はい……。分かっています……」

「分かりました。では、入院は多分2週間くらいかな。その後、特養に戻られるということで、よろしいですか?」

「はい」

 面談室から出た美音は、「お母さん、ごめんね」と小さく呟いた。


 美音の母が退院し、特養に戻ってから1週間程たった日に、室岡が席までやって来た。

「杉浦さん、今日一緒にお昼でも、どう?」

「いえ、私は……」

「お母さんのこと、少し聞かせてくれないかな」

「……はい」

「今日暖かいから、公園でも行こうか」

 途中コンビニで昼食を買い、会社の近くの大きな公園に足を運んだ。風もなく、小春日和の穏やかな天気である。


「お母さん、様子はどうなの?」

「痛みが随分引いたみたいで、世話がしやすくなりました」

「そう、それはよかった。……ところでさ、どこを骨折したか聞いてなかったんだけど」

「大腿骨頸部です」

「大腿骨って……、前、話に出たよね……」

「はい……」

「それじゃ……」


 ――つまり、体は確実に「死」に向かっていくのだとか。しかも、急速に……


 それっきり、沈黙が続いた。室岡も次の言葉が見つけられなかった。きっと何を言っても、表面的な言葉しか出てこないだろう……。すると、美音が少し明るい声で話を始めた。

「私、昔から桜が大好きで」

 顔を見れば、少し上を向いて微笑んでいる。

「桜って、散った花びらの1枚まで綺麗じゃないですか」

 小さな花びらの、薄いピンク色を思い出す。

「あぁ、確かに」

「そんな風に生きたいなって思ってました」

「潔くって、意味か?」

「いいえ、純粋に、最後まで綺麗なまま、終わりたいなって」

「……」

「それに比べると、ツツジは最悪」

「ツツジ? どんなんだっけ?」

「咲き終わっても、花が落ちないんです。木にしがみついてる。茶色くなって、汚いったら……」

「ふっ……。でも、ほとんどの人は、そうやって終わっていくんじゃないか?」

 ちゃんと話の真意を分かってくれて、美音は室岡の顔を改めて見た。この人は、色んな現実を、しっかり受け止めて生きている。強い……。美音は顔を前に戻して、話の続きがあることを知らせる。

「でも、今のお気に入りは、この紅葉(もみじ)なんです」

 ベンチの端に落ちている、赤い小さい六葉の葉を手に取った。ふいに室岡の手首を持って、掌を上に向けさせる。その上に紅葉を置いて、美音はスマホで写真を撮った。室岡は、黙ってされるままになってくれていた。紅葉をつまんで、美音は指先でクルクル回しながら話す。

「紅葉って、もちろん新緑の楓の季節も綺麗ですけど、みんなが一番見たいのは、この赤でしょ」

「ああ」

「だれも花や実なんて期待してなくて、枯れるのを待ってるんですよ。そして、散ったものまで『絨毯』のようだって称える。素敵だと、思いませんか」

 同意を求める美音を、室岡はじっと見つめる。

「僕は、目の前に咲いてる百合で十分だけどな……」

「……」

 少し驚いた顔をして、それでも美音は室岡の目を見たまま続けた。

芍薬(しゃくやく)が良かったです」

「はは、そうか……」

「ま、課長の周りには牡丹もバラも、美しい花々が競演してますからね。百合ごときでは、太刀打ちできませんよ」

「僕は、百合がいいと言っている」

 また熱い眼差しを美音に向けたが、美音はこちらを見ず、微笑んだまま前を向いて視線を落とした。

「……母は、コスモスが好きでした」

 その言葉を聞いて、室岡は美音の手をそっと取った。組んだ自分の膝の上に持ってきて、その上からもう一方の手を重ねる。

「咲いてる時期で、よかったな」

「はい……」

 小さく泣く美音の手を、室岡は何度も擦ってくれた。


 1ヶ月後、美音の母は、多臓器不全で、病院で息を引き取った。

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