台風
今年の台風は早くも7月から始まり、8月に入ったら毎週のように発生して、9月になっても衰える様子がない。ここ5、6年、日本は熱帯雨林のような夏の気候である。
「皆様、午後からは不要不急の外出はお控え下さい」
10時頃からモーニングショーやらニュースやらで、しきりに注意喚起をしている。ネットニュースで特別配信がされたくらいだ。どうやら台風が関東地方を直撃するらしい。朝の出勤時点では、明日の上陸だろうと思われていたのだが、近くにある別の台風の影響で、速度が急激に早まったと言っている。夕方頃の通過が確実になった。
朝はまだ、雨どころか空には青空が覗いていたため、皆、普段通りに出社した。しかし、外の空気が生暖かく湿ったものになってきて、窓にも時々強い風が当たるようになれば、いよいよ皆も仕事どころではない様子になっている。電車は動くのか、いつがピークなのか、無事家に帰れるのか、近年の激変する天候に慣れてきてはいるものの、宿泊の予約やら、仕事のキャンセルやらで、フロアは騒然としていた。
「今いる社員、全員帰宅するように」
と正式にお達しが出たのが、午後2時だった。今回は、ちょっと判断が遅かった。後で聞けば、暴風雨の最中に帰らせるよりも、フロアを解放して、社員を泊まらせた方が安全なのではないかとの意見があったらしい。結局、まだ雨も酷くないのでと、帰宅させることになったとのことだ。室岡も部下に通達して回る。
「仕事は持って帰ってやれ〜。明日もどうなるか分からないから、携帯の充電は切らすなよー。休みじゃなくって「自宅待機」だからなー。オンラインでの打ち合わせ、できるようにしとけよ〜」
「課長、こんな日に仕事持って帰れって、勘弁してくださいよ」
福田もせっせと帰り支度をしながら、室岡に絡んでいる。
「しょうがないだろ。それとも、会社に泊まってくか? 納期がパッツパツだろ」
「そこを何とかしてくれるのが、上司なんじゃないんですか?」
「台風は局所的だからなぁ。クライアントが沖縄じゃ、言い訳は難しいだろ」
「天変地異は、許してくれますって……」
「分かった、分かった。とにかく、皆、早く帰るようにー」
あちこちから「お先に」「お疲れ」と声が飛んでくる。
「杉浦さんも気を付けて帰って」
福田とは違った顔で、美音にも声を掛ける。
「はい。お先に失礼します」
と言うが早いか、あっという間にフロアからいなくなった。
「……お疲れさん」
室岡は小さく溜息をつきつつ、独り言のように、もういない相手に挨拶を返した。
美音の忌引休暇が終わり、彼女は今まで通りの日常に戻った。もちろん戻ったその日に、あの10万円もきっちり返してくれて、お世話になったからと、香典返しまで渡された。家族葬なのだから、そういったものはなくて当たり前なのだが、突き返す訳にもいかず、受け取っておいた。
室岡は、あの日を境に美音が自分に対して心を開いてくれるものだとばかり思っていた。ところがそんな期待は、あっさりと退けられた。
相変わらず2人で行動するように週に1、2度は調整したのだが、前にも増して仕事以外のことを話さなくなったし、「素顔」を見せることがなくなった。それに、想像していた通り、彼女は実にディレクター的素質を持っているで、仕事もどんどん覚えて、アドバイスをする機会までも減っている。最近は「近寄るな」オーラまで出している。「特養」での美音は、どうやらスーパーレアキャラだったらしい……。室岡は、日々溜息の数が増えていった。
そろそろ室岡も帰ろうかと支度を始めたところで、外線が鳴った。
「課長、ITLさんから3番にお電話です」
鳴海のチームのクライアントだ。小さな金属加工の会社で、最近自社製品のオンラインサイトを立ち上げたところだった。
「はい、お電話変わりました、室岡です。……はい。……はい。ちょっと、待って下さい。今確認します」
そう言いながら、パソコンの電源を入れ直す。ログイン操作も煩わしそうに、クライアントのオンラインサイトを開いたが……、確かに繋がらない。
「至急調べまして、すぐ折り返します」
電話を切ってすぐに、担当の鳴海を呼び出す。幸いまだ社内にいたらしく、デスクに慌てて戻ってきた。
「鳴海さん、これ調べてくれる?」
「分かりました」
その間にも、他のメンバーを呼び出して、社内に残っていた5人程が戻ってきた。皆で一斉に調べ出したところで、美音も戻ってくる。どうやら更衣室で鳴海たちと一緒だったらしい。
「どうだ……」
「わっかんねぇ」
当然室岡も確認しているが、よくあるパターンではない。こうなると、台風どころではなくなる。みな画面に引っ付いている。美音は自分には解決できることもなさそうだと、改めて帰ることにした。
突然、室岡のスマホが鳴り、画面を確認してそのまま席を立った。「ちょっと、私用」と皆に声を掛けて、フロアを出て行く。美音も忙しそうにしている皆に「お先に失礼します」と声を掛けて外に出た。
エレベーターに向かっていると、珍しく室岡のイラついた声が、どこからか聞こえてきた。
「だから、今すぐは帰れないって!」
給湯室で話しているらしい。なんとなく気になって、美音は足を止めていた。
「しょうがないだろ。ん……、いいよ諦めるから……。自分でやらないでよ、無理だから。もぉ、だから、屋根は飛ばないって……。分かってるよ、なるべく早く帰るから。じゃ!」
ふーっと大きな溜息を吐きながら、給湯室から出てきた室岡は、出口のすぐそばにいた美音に驚いた。
「わぁ、びっくりした!」
「……どうされたんですか?」
「母が雨戸を閉められないってね……。まぁ、なんとかなるよ」
「他にどなたか、近所の方に頼めないんですか? さすがに今日のは、ちょっと危ないと思います」
「それがね、マンションとかアパートとかが多くて、友達は少し遠くでね。自転車じゃないと無理なんだ。しかも、みーんなご老人ばっかりで……。来てもらう間に、風で飛ばされちゃうよ」
と言って笑う。そういえば、母親と2人暮らしだと言っていたか……。
「あの、私で良ければ、雨戸閉めに行きましょうか?」
「は?」
「お宅は、どちらですか?」
「いいよ、いいよ。杉浦さんこそ危ないから、早く帰らないと」
「ウチは雨戸がない網入りガラスのアパートなので、特に問題はありません」
「そうじゃなくて、杉浦さんが、帰宅途中危ないでしょ」
「こんなこと言ってる間に、どんどん近づいて来ますよ、台風」
「……」
美音が社交辞令ではなく、本気で言っているのだと、やっと気づいた室岡は、ちょっと意外な顔をした。
「何ですか?」
美音がその顔に、半眼で質問する。
「いや、心配してくれて嬉しいなって思って」
「……単に、困ったお年寄りを心配しているだけで、課長を心配しているわけではありません。出過ぎた真似の様なので、私はこのまま帰ります」
踵を返す勢いで言い放つ美音を、室岡は慌てて引き留めた。
「待った待った。久し振りに仕事以外の話ができたのに、つれないなぁ」
「……やっぱり、帰ります」
回れ右をした美音の前に、小走りで回り込んだ室岡が、今度は真面目な顔で答えた。
「いや、本当にそうしてもらえるなら、ありがたい。でも、本当に大丈夫?」
「何がですか?」
「ウチの雨戸、力とコツがいるんだけど」
「板戸ですか?」
「そう。昔のタイプ」
「じゃあ、大丈夫です。建付け悪いのは、昔実家で慣れてますから」
ふっと笑った室岡は、今度こそ頭を下げた。
「よろしくお願いします。母には僕から電話しておくから。それと、住所はLINEで送る。マップで出てくると思うけど」
「分かりました。ちなみに、お母様は人見知りでいらっしゃいますか? 知らない人間は家に上げないとかありますか?」
「……相手によるかな。大丈夫。ちゃんと説明しておくから。家に着いたら、電話くれてもいいよ。それで話せば、間違いない」
「分かりました。では、課長はお仕事に専念して下さい」
そう言うと、美音はさっさとエレベーターに向かって歩き出した。室岡は、そんな美音の頭に、追い抜きざまポンと手を置いた。「ひゃっ」と驚いた美音の耳元に、
「ありがとう。本当に嬉しいよ」
と囁いていく。そのまま小走りでフロアに戻って行った室岡を見送りながら、美音は顔が熱くなるのを止められず、思わず呟いた。
「だから……、違うってば」
だがその言葉は、もう室岡には届かない。
初めての場所なので心配したが、さすがに一軒家は探しやすい。それに、この家は少し特徴があって、住宅街の中にあっても見つけ易かった。瓦が赤いのだ。この辺りでは、この瓦の色はこの家だけである。住所と一緒に「赤い屋根の家」と送られてきていたので、それを目印に歩くことができた。
風は強くなってきたが、雨はまだそんなに降っていなくて、美音もさほど濡れることなく到着した。一息整えて姿勢を正し、門扉にある玄関チャイムを押す。
「はーい」
明るい声で返事が返ってくる。
「室岡課長の部下の杉浦美音と申します。雨戸を閉めに参りました」
「はいはい。どうぞ中へ入って下さい」
門扉を開いて敷地の中に入った。横長の石が緩くカーブを描いて玄関まで誘ってくれる。美音は1階や2階にある雨戸の場所を確認しながら、玄関の庇の下に入った。格子戸の玄関が、カラカラと音を立てて開かれた。
「まぁまぁ、わざわざありがとうございます。早く入って、入って」
60代と思われる元気そうな女性が出迎える。えっ……。若い……。美音は思わず身を引いた。
「はじめまして、杉浦と申します。雨戸を……」
「聞いてます、聞いてます。困ってたの、助かるわ。まずは、上がって下さいな」
先に立って玄関の高い框を上がる際、室岡の母が、片手に杖を突いているのに気が付く。
「失礼します」
とお邪魔をして、早速雨戸を閉めに掛かろうとしたのだが、
「まぁ、お茶でもどうぞ」
と言い出した。いやいや、それでは来た意味がない。
「お母様、まずは雨戸を……。台風が来てしまいます」
「あら、そぉ? じゃ、お茶は後でゆっくりね」
と軍手を渡された。なるほど、軍手がいる程、建付けが悪いわけね……。
「まずは、こっちと、そっちを……」
1階の広縁から始めた。戸袋からガツン、ゴツンと引き出して、慎重に滑らせていく。ここを力づくで引いてしまうと、ニッチもサッチもいかなくなる。本当に懐かしい感触だ。高校生の頃、いつも雨戸を閉める役目は私だった。
「次は、こちら……」
1階が全て終わったところで、階段の前まで連れて行かれる。母親は、2階に上がれないという。
「3部屋あるの。よろしくお願いしますね。右側が、直輝の部屋です」
「えっ、あっ、はい。分かりました」
うーん、困った。そうだった。これは考えになかったが、どうしようか……。美音は迷った末、LINEを送る。送られた室岡はそれを見て、頭をポリポリした。
「しょうがないな……」
独りごちて、LINEを返した。
「綺麗にしてないから、窓以外は見ないで、よろしくお願いします」
それを見て美音はぷっと笑ってしまった。窓以外を見ないのは、なかなかに難しい。他の部屋が済んでしまったので、意を決して室岡の部屋に入った。
うーん、確かに綺麗ではない。書類や雑誌が机や床に散らばっているし、脱いだ服も椅子に投げ出したままだ。スーツだけは一応壁に掛けてあって、でもやっぱり、ベッドの上の布団はぐしゃっとなっている。美音は兄弟がいないので、こういう部屋には慣れていないが、大学時代の彼氏の部屋は、突然訪れた時にはこんな感じだったと思い出した。
「まずは、雨戸」
そう言いながら、本人の希望通り、なるべく隅々まで見ない様に努力しつつ、雨戸を閉める。あとは帰るのみ……。そう思いながらも、ついつい目は部屋を確認してしまう。まったく、好奇心という奴は、いくつになっても下世話なものらしい。
ふと目に付いたものの中に、あまりこの部屋に似つかわしくないものがあった。黒いビロード素材の、ケースだ。ダイヤの指輪を買った時などに付いてくる、あの宝石用の小さいケースである。
悪いこととは思いつつも、引き寄せられるようにそのケースを手に取ってしまった。さすがに逡巡したが、少し予感があって、思い切って蓋を開けた。
そこには、あのイヤリングが入っていた。恭介の店で、カウンターに置いて来たイヤリングだ。ケースにはゴールドの文字で、ダイヤが有名な店の名が刻印されていた。
「やっぱり……」
地金の金色が、張りやメッキではないことは18Kの刻印があったからすぐに分かったし、その先についている小さな透明な石も、小さいくせに輝きが違ったのだ。ダイヤではないかと、感じていた。照明を落としたクラブでは、それはもっと顕著で、なによりそのデザインがシンプルなのに「品がいい」と思っていた。
「どこが試供品なの……」
ふいに、あの日言われた言葉が頭をよぎる。
――僕にとっては、今の小さな笑顔や、困った顔や、少し怒った顔で十分なんだ。
思い出すたびに胸がきゅっと締め付けられる。……あんな言葉を、お守りの様にいつまでも大切にしていては、いけない。美音は元あった場所にケースを置いて、部屋を出た。
「まぁまあ、お疲れ様。本当に助かりました。お茶入れたから、飲んでいって」
「いえ、私も帰らないといけませんので……」
「あら、こんなんでも帰れる?」
と、室岡の母はテレビを付けた。そこには、電車が止まったとテロップが流れていて、画像には、駅で立ち往生して、ホームから溢れた人々の姿が映し出された。
「えっ……」
美音は小さく声を出す。美音が電車を降りてからの1時間程の間に、外は景色が一変していたらしい。
「よかったわ〜、雨戸間に合って。この台風、あっという間に来るって、知らなかった?」
「あの……、すみません。少し居させていただいて、よろしいでしょうか……」
「ええ、ええ、もちろん。なんなら、泊まってって」
嬉しそうに話す母親に、美音は気後れしてしまう。課長は、母親似に違いない。この押しの強さと、想像を超える発言がそっくりだ。親子、恐るべし……である。
「さすがに風が強くなってきたわね……」
その母が、少し不安そうに口にした。この建物は木造の在来工法と思われる。築30年程だろうか。当然、軋みがすごい。在来工法は、軋まなければ逆に倒れてしまう工法だ。しかも、隣の敷地が開いていて、風がまともに当たる。風速35mを超える風が当たれば、きっと揺れると思われた。
「失礼ですが、お母様はお食事は?」
「どうしようかと思って。美音さん、食べていってくれる? 1人だと、どうでもよくなっちゃって。夕飯は直輝のために作ってるようなものだから……」
「もしよければ、私が作りましょうか? 居させていただくお礼に……」
「あら、ほんと!? 嬉しい。ぜひ、お願いしちゃう。もう、人が作った夕飯なんて、久し振り!」
……しちゃうって、この方はいったい幾つなのだろう。美音は自分の母と比較して、年上の室岡の母もきっと70代だと思っていたのだが、よく考えればそれは思い込みであることにすぐ気が付いた。
美音の母は、美音を生むまでに、2回流産している。いずれも、子宮内で胎児が育たず流産となってしまったらしい。だから美音が生まれた時は、両親は本当に喜んだと聞かされていたし、母も若くなかった。お陰で、愛情もたっぷり貰ったし、若くない母はゆったりと構えていて、なんでも美音の好きなようにさせてくれた。
それでもさすがに、東京に出る時は反対された。特に父親が酷くて、当初は絶対ダメだと言っていたのだが、それを説得してくれたのも母だった。やりたいようにやる性格に育てたのは自分達だと、父には言ったらしい。後で父から聞かされた。あのまま、福島にいればよかったと、10年前に後悔した。「茄子の花と親の意見は……」だと、身に染みた。
「お野菜で、てんぷらはいかがですか?」
冷蔵庫を見ていいとのことで、メニューを考える。あの電車の様子では、きっと室岡も簡単には帰宅できないだろうし、クライアントの問題も解決したかどうか分からない。男性用のお肉は外して、煮物とお浸しくらいでいいだろうと、提案する。室岡の母親は、「まぁ、手作りの天ぷらなんて、何年ぶりかしら」とこれまた喜ぶので、メニューは決定した。
「私も何か手伝う?」
と聞かれたので、気になっていることを口にしてみた。
「立っているのは、大変ではないんですか?」
「そうなのよぉ。こないだ、家の中で転んじゃって。捻挫した足を庇って動いてたら、ギックリになっちゃって。もぅ、大変」
「だったら、どうぞ横になっていてください。できたらお呼びしますから」
「ううん、せっかくこんな綺麗なお嬢さんが来てくれたんだもの。寝てなんかいられないわよ。ねぇ、直輝とは、いつからのお付き合いなの?」
「……あの、お付き合いではなくて、部下なので……」
「あら、そうなの。あの子、こんな綺麗な部下さんに、手出してないの? 情けない……」
「……」
あの、お母さん、手出したらダメなんですよ。情けなくないです……。とも言えず、別の言い方で会社での課長を説明しておいた。
「課長は多くの女子社員の憧れの方なので、選ぶの大変なくらいだと思いますよ」
「そうかしら。家に女の子連れてきたのなんて、大学以来すっかりなくって、なんてつまんない男かと思ってるんだけど」
……お母さん、つまんないって……。この人に育てられた課長って……。色々なことが頭をもたげてきたので、せっせっと天ぷらづくりに精を出した。衣で花を咲かせて、サクサクに仕上げる。久し振りに美音も天ぷらを揚げたので、楽しかった。実家にいた頃は、よく母と一緒に作ったものだ。
マグロのお刺身の残りを使ってもいいというので、たんぱく質をと「ネギマ」にして、具材たっぷりの味噌汁とほうれん草のお浸しで完成である。
「わー、こんな彩りのいい食卓、久し振り〜。ねぇ、写真撮っていい?」
……お母さん、大したことないですよ。写真撮る程のものでもないし……。とも、やっぱり言えず、返事も聞かずに既に写真を撮り始めている室岡の母を、雛人形の笑顔で眺めた。
「お母様、写真をどうされるんですか?」
「もちろん、インスタに」
「すごいですね。インスタやられてるんですか?」
「あ、美音さんもフォローして」
とユーザー名を教えられる。早速フォローして、写真を見ながら話が盛り上がる。
「これは、もしかして課長ですか?」
「そうそう、3歳の時ね。かわいいでしょ〜」
「ええ」
マジか……。既に意志のハッキリした眼をしている。やはり、三つ子の魂百までなんだな……。
「ねぇ、美音さん。このコスモス畑はどこの?」
「福島です。実家があった近所の……。随分前に、お墓参りに里帰りした時のものです。早く父も納骨をしないといけないんですが……」
「あら、お亡くなりになったの……。それは大変だったわねぇ。おいくつだった?」
「74でした」
「そう。寂しくなったわね」
「はい……。あの、お味は大丈夫ですか?」
「えっ、ああ、すっごく美味しい。天つゆなんて、ほんと久し振りよ。直輝の分もあるかしら」
さすが母親である。息子の分をきちんと心配している。
「はい。大丈夫です」
「じゃ、それも食べちゃお。きっと、直輝は何か食べてくるから」
……違ったか。恐るべし、課長マミー……。
「一応取っておきましょうか。さすがに今日は、仕事が終われば、まっすぐ戻られると思いますので」
「そーお? じゃ、しょうがないわねぇ」
と言って、ペロッと全て食べてくれた。その間も、台風は強くなってきて、やはり家が揺れている。きっと2階は、もっと揺れているだろう。大丈夫だろうか……。
「台風、いつ頃まで続きますかね」
「1時間くらいじゃない。時速50キロって言ってたから」
「早いですね」
「韋駄天台風だって」
「今日、お風呂はどうされますか? 停電するといけないので」
「この辺は大丈夫よ。でも、そうねぇ。ちょうどいいわね。美音さん、手伝ってくれる」
「えっ……、何を……」
「ほら、この腰だから。大変なのお風呂。いつもは1人で頑張ってるんだけどね」
「課長はどうしてらっしゃるんですか?」
「あの子はいつも遅いから。待ってたら、日が暮れるわよ」
「……そうですね、お忙しいので……」
「じゃ、よろしくね」
と言うので、お風呂も準備する。その間に台所を片付けて、介助がいるときに呼んでもらうことにした。
さすがに服の着脱は自分でされたのだが、湯船から出る時が一番大変で、美音は湯船に腰かけて、自分の上半身にバスタオルをかけ、室岡の母を抱くように介助した。同じ女性とはいえ、なるべく裸体は見ない様に努力して……。
すっかりベッドに腰を落ち着けたところで、美音も一息ついた。
「お茶、飲まれますか?」
「冷たいのが冷蔵庫にあるの。いいかしら」
「はい」
美音も一緒に麦茶を飲みながら、テレビで台風の様子を見た。
「少し風が弱くなってきましたね」
「ほんとね。あと少しだわね。それにしても、美音さん介助が上手ねぇ。楽だったわ。たまに直輝にも助けてもらうんだけど、あの子は力任せで、ほんと下手くそ」
「母が介助が必要なので、少し慣れてるんです。それにお母様は痩せてらっしゃるし……」
「あら、それは大変ねぇ。美音さん、偉いのねぇ。今日は大丈夫なの?」
「はい……。母は、施設におりますので」
「そう……。じゃ、安心ね。よかったわ」
あっけらかんと言われ、何だか逆にホッとする。やはり課長は母親似だと確信する。いつまでもグズグズしていない。
「さぁ、じゃ少し横になるわね。ちょっと疲れたわ。帰る時、教えてね。ゆっくりして下さいな」
「ありがとうございます。もう少し、お世話になります」
「どうぞ、どうぞ」
随分信用されたものだ……。赤の他人をよそに、寝てしまうとは。お母さん、肝が太い……。台所に戻って、テレビをつける。あとどれ程で帰れるだろうか……。できれば、課長と会わずに帰りたい……。夕飯は食べたから、帰ってそのまま私もお風呂に入って……。
室岡はタクシーから降りた。風はすっかり静かになって、2時間前が嘘のようだ。門扉を開けながら眺めれば、雨戸はきっちり閉まっていて、安堵する。玄関を開け、そこにパンプスを見つけギョッとした。腕時計を確認すれば、間もなく11時になる。母親の部屋はすっかり電気が消えていて、テレビの小さな音が台所から聞こえている。急いでダイニングの扉に手を掛けた。
美音がテーブルに突っ伏して、寝ていた。そっと近づけば、小さく口を開けて「スースー」と寝息を立てている。音をたてないように、周りを確認すれば、食事が用意されていることに気が付いた。天ぷらなんて、絶対母は作らない。腰を痛めてからは、なるべく簡単なもので済ませている。母さん、一体何させた……。
ふーっと1つ大きく息を吐いて、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップで一気に流し込む。それにしても……、いい眺めだな。これじゃ、まるで、旦那の帰りを待つ健気な奥様だ……。と、そこで、美音が起きた。後ろの方にいる室岡には気づかず、ぼーっとしている。壁の時計を確認して、小さく溜息を吐いた。
「お疲れさん」
室岡は流しに腰を預けたまま、声を掛ける。驚いて振り向いた顔が、安堵に変わり、小さな笑顔になった。たまらない……。空になったコップを、流しに置いた。
「お疲れ様でした。ITLさん、どうなりましたか?」
仕事の顔に戻る前に、ほんの少しだけ……。室岡は美音に近づき、細い顎を指で上げ、そのまま口づけた。そっと触れた唇は、やはりとても柔らかかった。
「課……長……」
予想通り驚いた顔で、きっと次は怒るな……。
「何してるんですか!」
「無防備に寝顔を見せる方が、悪い」
「……帰ります」
「もう、電車ないから……。それより、お腹空いた」
「あっ、今、温めます。少し待って下さい」
冷蔵庫からビールを出して、パタパタと用意しだした美音を、眺めながら待つ。ホントにこれは、クセになるな。世の男達が結婚する理由が分かる……。
「ITLさん、解決したよ。ちょっと、手間取ったけどね」
「それは良かったです。電車止まっちゃって、皆さんちゃんと帰れたんでしょうか?」
「営業車を出した。福田が、斉木と鳴海を送って、吉岡が三波を送ってった」
「それは、大変でしたね」
「まぁ、台風が通過した後だったから、運転も大丈夫だったみたいだ。皆、帰宅したと連絡があったから」
「よかった……」
そう言いながら、温めた夕食が並んでいく。出されたそばから箸を付ける室岡を、少し驚いて美音は見ていた。
「課長、お食事してないんですか?」
「ん……、忘れてた」
「……今日だけじゃなくて、ビールだけでは、ダメだと思います」
「ん……、気を付ける」
「……」
いつもと違って素直に返事をするし、美味しそうに頬張る室岡を眺めていたら、急に、可愛いと感じてしまった。美音は、心の中でぶんぶんと頭を振る。
「母さんが、色々させたんだね。ありがとう」
「いえ、私から言いました。雨宿りさせて頂いたので」
「雨戸、ケガしなかった?」
「大丈夫でしたよ。それより、こちらの屋根、ホントに赤いんですね」
「ああ、これ、親父の趣味で」
「お父様は、島根ご出身ですか?」
食べようとしたナスの天ぷらを手に持ったまま、室岡は一旦動きが止まった。
「……よく、分かったね。どうして知ってるの?」
「津和野に行ったことがあって。出雲大社に行った時に、萩とかも回ったんですけど。その時の街並みを思い出して……」
「誰と行ったの?」
少し拗ねた様な顔をするので、それには答えずに話を進める。
「課長は、標準語のイントネーションだから、こちら出身ですか?」
「……、男?」
「お母様もきれいなイントネーションだから、こちらで出会われたのかな」
「……」
本格的に拗ねた顔になったので、思わず吹き出してしまった。やっばり、今日の課長は子供みたいだ……。
「大学の卒業旅行です。女友達と行きました」
「まったく、最初から、そう言いなさい。それなら、よろしい」
……お父さんか! と突っ込むのは止めておいた。色々、面倒くさい……。
「お風呂、どうされますか? 追い炊きしてきましょうか?」
「お風呂まで手伝ってもらったの!? 母さんは、もう……。すまなかったね、遠慮を知らなくて」
「いいえ。楽しいお母様で。お若いので、ビックリしました」
「若くないよ。あれでも72だ。足腰は正直だよ」
「えー、ホントですか!? てっきり、60代前半かと……」
「それ、直接言わないでよ。付け上がる」
ふふっ、と笑いながら、最後のお茶を出してくれた。
「お風呂、一緒に入る?」
「……帰ります」
「冗談だよ。美味しかった。本当に今日は助かったよ。タクシー呼ぶから、待ってて」
食器を片付けて、冷ましておいた油の処理もした。テレビを付けて確認をすれば、すっかり台風は太平洋に抜けている。明日はきっと、台風一過で爽やかな日になるだろう。
「これ、この間の忘れ物……」
タクシーが到着して、玄関でそう言いながら室岡が手に持っていたのは、あの黒いビロードの箱だった。中身を確認しつつ、呟いた。
「立派な試供品……」
「結構、選ぶのに苦労した」
「頂けません」
「イヤなら、捨ててって言ったでしょ」
そう言いながら、今回は箱ごと渡された。美音は黙って受け取った。
「課長って、嘘つきですね」
「そうかな……」
「ええ。体、鍛えてないって言ってたのに」
と言いながら、美音は自分のスマホを見せる。
「うわっ、そうだった。窓以外は、見ないでって言ったのに!」
悪そうな笑顔を見せて、美音は半眼でうそぶく。
「お部屋、もう少し綺麗にされた方がいいですよ」
ハーッと、項垂れた課長を尻目に、美音は玄関を出てタクシーに乗り込んだ。両手を腰に、呆れ顔で見送る課長に会釈をして、タクシーは出発する。美音のスマホには、部屋の片隅に置かれたダンベルや懸垂マシーンが写されていた。
しばらく走ったところで、美音はそっと唇に指先を当てた。柔らかかった感触を思い出すように……。




