10年前のこと
シティホテルの一室で、室岡はゆっくりと愛撫を始めた。美音は恥じらうように瞳を閉じている。もっと体の力を抜いて……。
「怖い……?」
室岡から自然にそんな言葉が出た。年齢的にも、もっと体を開くことに慣れていても不思議ではない。むしろ夜の顔を疑ったくらいなのだから、体を預けることに従順であってもいいはずだ。
「……」
返事がないので、体から顔を上げて美音を確認すれば、首を横に振っていた。それでも彼女の緊張が伝わってくる。……そうなのか。彼女は、男に馴れていない……。室岡は美音の唇に、愛撫を戻した。
「体の力を抜いて……。優しくするから、怖がらなくていい」
「……はい」
それからは、まるで舞妓の水揚げの様に、丁寧に優しく扱う。全身をゆっくり愛撫し、それは隅々にまで施される。それまでどんどん熱くなる息遣いだけの美音だったが、とうとう声になった。
「ぅん……」
初めての声に、室岡の体が素直に反応する。首筋に這わせていた唇を、耳元に近づける。
「よかった。君の声が聞けて……」
もちろん指先で彼女の体を満たしていくことも惜しまない。
「もっと、声が聴きたい」
室岡の言葉に反応するように、美音は少しずつ心の箍を外していく。こんなに丁寧に全身を愛されたことはない。もちろん、初めての男性ではないが、こんな愛撫は経験がない。体の中心が自然に締め上がっていく……。我慢できない……。
「だ……め……」
「ん……」
それでも室岡はひとつになろうとしない。ここまで溢れているのに……。
「課長……」
美音の全身が室岡を求める。そこまで待って、やっと室岡は応えた。そして今度は、室岡の全身が快感に包まれていく……。
「美音……」
あとはただ2人の息が交錯する。室岡は美音の顔を見下ろしながら、何度も何度も彼女の悦びを身に纏う。この声と、顔と、全てを、僕は決して離さない……。やっと、君の心に触れることができた……。これからは、本当の君だけを見ていくことができる。
美音はこの記憶が一生残っていくことが、女性としてどれほど幸せなことか、露とも知らなかった。こんなに愛された思い出があれば、悲しみが過ぎ去った後、この思い出だけで生きていけることを、後になって知る……。
「愛してるって、言ってくれないのか」
室岡は何度も愛していると言っているのに、美音が答えてくれないことに不安が押し寄せる。室岡の体にしがみつく様に伸ばした腕に、美音は精一杯の力を込めた。
「愛してます」
「よかった……」
美音と室岡は、一緒に最後を迎えた。
1ヶ月後、正式に室岡は大阪に再度の異動が決まった。送別会が開かれ、そこには部長も参加した。2次会の終わるころには、部長もかなり酔っていて、室岡と2人になった時に訳知り顔で話し掛けて来た。
「杉浦君は、残念だったな。まぁ、気にするな」
「……何のことですか?」
「しかし、最初は驚いたぞ。いきなり庶務に引っ張ってきた時は」
「はぁ……」
「次はアシスタントだろ。あぁ、その手で行くのかと思ったんだが、それでも無理だったわけだ」
まだ分からない顔をする室岡に、部長は更に声を落とす。
「心配することはない。あの頃、僕も声を掛けられた。常務からね」
「何……です?」
部長は、「まだ白を切るか」と顔で語りながら続けた。
「杉浦さんを妻にしろという、お達しだろ」
「……」
「独身で、役職についてて、この会社を裏切ることがないと見込まれた男は、密かに打診されていた」
「まさか……」
「そうやって、彼女をずっと管理したかったんだろうな。会社は」
「管理?」
「そうさ。結婚相手の会社を訴えるようなことは、さすがにできんだろ」
「……」
「結局、誰も手を上げなかったがね」
「彼女はそのこと……」
「どこから漏れたのか、知ってたよ」
「えっ……!」
「一応、口説きに掛かった奴も何人かいてね。そこで逆に脅されたらしい」
「何て……」
「一生、爆弾を抱えて生きていくつもりですか? って」
「……」
「まぁそうだよなぁ。万が一、彼女があの時のことをSNSででも呟いてみろ。こちらも一緒に自爆だ」
「そんなこと……」
「それに、もしそんな繋がりが常務と出来てしまったら、こちらの自由もなくなる。一生常務の下で踊らされるだけだ。まぁ、それを敢えてする奴もいるだろうがな。あの島崎部長みたいに」
「……」
あの夜以降、美音は室岡の前から姿を消した。
LINEやSNSのアカウントは全て削除され、携帯は契約が切られた。何とか住所を調べて家まで行ったが、既に引っ越した後だった。もちろん煌愛欄にも足を運んだが、もうとっくに辞めていた。2ヶ月近く前の事だという。陸と直接話もした。
「美音がどこに行ったか、知らないか?」
「知らないな。知ってても、教えない」
「どうしてだ。僕が何をした」
「室岡さんが何をしたかじゃ、ないよ。もう、彼女を自由にしてやりたいだけだ」
「僕がそれを阻んでると?」
「室岡さんがあの会社にいる以上、そういうことになるんだろうな」
「……」
「世の中、女は彼女だけじゃないよ。早く忘れた方がいい」
「それができるなら、わざわざここに来たりしない」
「……本当に知らないよ。でもきっと、どこかでそっと生きてると信じてるよ」
次には、恭介にも会いに行った。
「来られると思っておりました」
「美音の居所を、知ってるのか?」
「いいえ」
静かに水割りを目の前に置いた。
「嘘だ。美音は君を、一番信頼していた。何か、知らせていったに違いない」
「室岡さん……」
必死な室岡の姿に、恭介は同情の顔を見せる。
「ご両親が亡くなったのは知っています。だから、きっと、会社を辞めるだろうと思ってました」
「一体、10年前何があったんだ……。それだけでも、教えてくれないか」
憔悴しきった室岡に、恭介は話し出した。
「彼女のお父さんですが、最初に倒れたのは脳梗塞でした。それで、体に少し麻痺が残った」
「そう、だったのか……」
「リハビリで随分よくなったんです。まだご両親は福島で、何とか生活してらっしゃいましたから」
しかし、生活が安定し始めた矢先、あの震災が起こった。美音の言っていた通り、内陸だったから津波に襲われることは避けられたが、家は地震で半壊状態だったらしい。そのまま住むことはできなくて、避難所で過ごした。
そこまでは、まだよかったという。周りに人が多くいて、声を掛け合って励まし合うこともできた。しかし美音としては、そのままにしておくことは到底できず、取り敢えず東京に引き取ったのだという。
だが、彼女の部屋はワンルームで、麻痺の残る父を含む3人で暮らすには、あまりにも狭すぎた。それで、福島の仮設住宅が完成した時に、運良く早い段階で抽選が当たり、両親だけ移ったらしい。しかし、それからが問題だった。美音は東京で、仕送りもしなくてはならないから、会社を辞めるわけにもいかず、福島にそう何度も足も運べない。ご両親は、どんどん孤立していった。
小さな空間で、ほとんど動かない生活になって、それまで何とか動いていた父親の足と手も、徐々にまた動かなくなっていく。リハビリも、ままならない。そんな時、2度目の脳梗塞に襲われたらしい。
「そんな……」
聞いていた室岡は、顔を歪めた。室岡の父も脳梗塞で亡くなっているから、それがどういう現実をもたらすのか、容易に想像ができた。
「三隅さんの事件後、彼女は随分会社に抵抗してたんです。辞めさせてもらえない以上、表面上は全くの無抵抗を装っていましたが、「謝罪」を求めて裏では交渉をしていた。お金が必要だったんだと、思います。福島の家だって解体しなけりゃならなかったし、半壊だから国の援助だって、少なかった」
――お金が必要だったんです。それだけです……。
美音が言っていた言葉は、半分は本当。しかし……。
「それに、お母さんの様子が変わり出したのも、その頃だった……。随分、危ない橋だったと思います。でも、彼女には「切り札」がありましたから」
「音声か?」
「そうです。どういったものなのかは、俺も直接聞いた訳じゃないが、十分交渉できる内容だったらしい」
「それで会社が、両親を施設に入れる手筈を整えたんだな」
「……それは、分かってらっしゃいましたか」
「予想はしていた……」
「だから、ご両親が亡くなった今、彼女はやっと解放される訳です。きっと音声も、もう相手に渡したのでしょう。だから、辞められた」
「……」
恭介は、改めて室岡を見た。
「彼女が室岡さんにこの話をしなかったのは、きっと、室岡さんを守りたかったんだと思いますよ」
「僕を守る……?」
「課長は会社にとって、なくてはならない人だから……って、1度室岡さんのことを、そんな風に話してましたから」
――一生、爆弾を抱えて生きていくつもりですか?
室岡は胸が苦しくなった。美音は美音なりに、必死に僕を愛してくれていた……。
「もう、いいでしょう。後は俺が引き受けます。ずっと、待ってたんだ。彼女が自由になる日を」
「……」
「今はどこにいるか分からない。でも、きっと彼女は連絡をくれるはずですから。その時は、俺が必ず幸せにしますから」
そんな言葉を受け入れられるほど、室岡の気持ちは簡単ではなかった。
しかし、大阪に異動してしまえば、現実問題として美音を捜す時間はほとんどなかった。たまに東京に仕事の打ち合わせで戻った時などに、美音の元居た部署を何箇所か回ったが、友達という人に出会う事すらできなかった。本当に美音は、会社では1人きりだったのだと、思い知らされた。
斉木に「この半年楽しかったと言っていた」と聞かされた時は、胸が張り裂けそうになった。どんな思いであの雛人形の笑みを覚えたのか、その時やっと分かった気がした。
仕事をして、仕事をして、考えないようにした。ただ、夜1人になれば、あの時の美音の顔が、美しい肢体が思い浮かび、体は美音を求め続けた。それが余計に室岡を苦しめた。
恭介のところには、もう連絡が来たのだろうか……。彼は、美音に会いに行ったのだろうか……。2度、3度と確認のためバーには行ったが、4度目からは行くことができなくなった。もし、彼がいなくなっていたら……。美音を迎えに行くために、辞めていたら……。それが怖くて、足を向けることができなくなった……。
美音、君に、会いたい……!




