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ヴィスタと戦った屋上から学校までは、そこまで遠くない。普段なら、徒歩で15分もあれば十分辿り着く距離だ。そう、普段なら。
足を一歩踏み出す度に撃たれた脇腹に激痛が走り、身体のあちこちからとめどなく血を流し続ける今の俺は、到底普段通りとは言い難かった。
けれど、俺は這いずってでも怜のところに帰らなくてはいけない。「帰ってきてほしい」と、そう言った彼女のために。その思いだけが、死にかけの身体を突き動かしていた。
「――げほっ……ぐっ、ぅ……!」
口に当てた掌に、ごぽり、と大量の血が溢れる。震える膝をなんとか抑え込んで、傍らの壁に寄りかかった。
降りしきる雨に身体は芯まで冷え切って、しかしあちらこちらの傷は熱を持ち突き刺すような痛みが暴れている。目の前が暗いのは重たい雨雲のせいか、それともただ俺だけにそう見えているのか。
もう少し。あと、少しだから。必死にそう言い聞かせて、もう一歩前へ。
しかしそんな俺の意思に反して、身体は段々言うことを聞かなくなっていく。
視界が霞む。平衡感覚がおかしい。目の前の景色が、端から黒に侵されていく。痛みが徐々に遠ざかっていく。
まずい、と思った次の瞬間には、俺は親指を思い切り脇腹の傷に突き刺していた。
「があああぁぁぁぁっ!」
鋭い痛みが全身を駆け巡る。あまりの苦痛に涙が零れた。しかしそれだけの代償で、フェードアウトしかけた意識が一気に現実へ引き戻される。それで、十分だった。
先のことなど知ったものか。どうせ、残された時間はあとわずか。この場で諦めたとしても、再び目が覚める可能性は半々と言ったところだろう。
なら……最期に彼女に謝るために、この命を全て削り切ってしまったって構わない。彼女は、それを望まないだろうけど。
多分、意識を失ってしまった方がずっと楽だろう。そうすれば、このどうしようもない激痛から、罪悪感から、逃れられる。――しかしそれは同時に、もう俺を待っている人の元へはきっと帰れないということを意味する。
だけど。だから。
俺は、諦めるわけにはいかないんだ。
ただそれだけを思って、すぐ目の前すら判然としない視界の中重い身体を引きずるようにして歩く。
――それから。どれくらい、経っただろう。
寒い。疲れた。眠い。
他のことは、なにも考えられない。
俺は、どうして歩いているんだっけ。
どうして、こんなにがんばっているんだっけ。
何かだいじなことが、あったような気がするんだけど。
わからない、何も。
もう、休んでもいいかな。
もう、十分がんばったよ……な?
このまま、楽になってしまおうか。
そう思うと急に瞼が重くなって、その場に膝をついていた。
俺を呼ぶ誰かの声が、聞こえるような気がする。
だれだろう――よく聞こえない。けれど、段々近づいてくる。
「――っ! ――氷雅っ!!」
この、よく通る声は。
「……れ、い?」
そうだ、何で忘れていたんだろう。
俺は……彼女に会うために、ここまで来たのに。
よかった、間に合って。
うっすらと微笑むと、焦ったような声が聞こえてくる。
「ちょっとずぶ濡れじゃん、そんな恰好でいたら風邪引いちゃう――」
彼女が言い終わる前に、世界がぐるりと回った。
「――氷雅? 氷雅? 何、どうしたの? ちょっと……しっかり、して」
けれど、倒れ込んだそこは冷たくない。柔らかくて、温かかった。
ああ……眠い、な。でも、まだ。
「――ぁ、血が……う、そ……? 嘘だよね? ひょう、が……」
まだ俺は、伝えてない。
「怜、」
落ちてくる瞼に抗って。あと少し、せめて、言い終わるまで。
「……俺、帰ってきたよ。無事に――とは、言えないけど」
もう何も見えない。何も、聞こえない。
「酷いこと、言ったの……謝り、たくて」
指先すら動かない。それでも、俺は。
「よかった――戻って、来られて。よかった……ちゃんと、伝えられて」
最後に残った彼女の手の温かさも、段々と遠ざかって。
「ごめん、怜。ありがとう、怜」
最後まで言い切って、静かに瞼を閉じた。
次話、エピローグです。




