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俺の身長より頭一つほど高い鉄柵を、軽く助走をつけて乗り越える。毎日とは言わずとも、足しげく通った場所だ。すっかり慣れたものだった。
あの幽霊騒ぎの後、あんなに意気込んでいたのが嘘のようにしおらしくなってしまった恭介の一言で俺たちは解散することになった。翌日となった今日も、示し合わせたかのように誰もその話をしようとはしない。
唯一さしたるダメージを受けなかったらしい俺は俺で、彼の容姿と声にどこか覚えがあるような気がしてぼーっと考え込んでしまうことが多かった。
俺がどこか浮かない顔をしていると思ったらしい悠一が気を利かせて、怪我をしてから何かと理由を付けて休んでいたパルクールのサークル活動に行こうと誘ってくれたのだが、1人になりたいからと断ってしまった。
右肩を軽く回すと、普段とほぼ変わらない感触。あまり無理をしなければ、と啓さんにもお墨付きをもらったので、ならば身体が鈍ってしまわないうちに……とやってきたここは、あの日――茜と出会った日の、あの建物だ。
目の前の廃ビルは10階建て。もちろんエレベーターは動いていないし、それ以前に正面玄関も非常階段も鍵がかかっている。が、この非常階段。外に面しているタイプなので、入ろうと思えばいくらでも方法はあるのだ。
いつもより長めの助走を取って、少し慎重に。
地面を蹴り跳躍。垂直な壁に靴底を思い切り押し付けて、身体を押し上げる。
伸ばした手は――大丈夫、届く。
踊り場の手すりを掴み、懸垂の要領で身体を引き上げて、侵入を果たした非常階段の中で一息。久々に運動することに対しての胸が高鳴るような心地よさと、ちゃんと動けてよかったという安堵を感じる。
しばらく手すりに寄りかかってそんな気分に身を預けた後、俺は「よし」と頬を叩いた。気持ちを入れ替えて、屋上へ続く階段を1段飛ばしで駆け上がる。
先週茜と出会い、1年前の事件の日俺が倒れていたというこの屋上。ここに来ようと思ったのは、ただ自然に足が向かったというのもあるが、ここに来れば何かわかるかもしれないという漠然とした予感があったからでもある。
何故そう思ったのかはわからない。それでも、その予感に突き動かされるようにして、気がつけばもう屋上へ続く扉の前に立っている。
錆びたドアノブに手を伸ばして、一瞬躊躇した。
馬鹿馬鹿しい。今日に限って、何か違うかもしれないだなんて。
自分の弱気を否定するように、わざと乱暴に扉を開ける。ほら、やっぱり何も――。
「――あ」
それは、顔を上げてこちらを見た彼の声だったか、それとも俺の声だったか。もしかしたら、両方だったのかもしれない
ぽかんとした顔で固まっているのは、昨日の金髪の青年だった。今日はフードに隠れていないその顔に、昨日の不気味さは欠片も残っていない。しかし、確かに彼だ。俺はそう直感していた。
こんな状況で俺の前に姿を現して、いっそ間抜けと言ってもいいような顔を晒しているからには、彼はきっと幽霊などではないのだろう。アホ面する幽霊がいてたまるか。
しかしこの青年が探し人をしていたというのはおそらく事実で、「君だ」という言葉から察するに彼の目当ては昨日の4人のうち誰か。最も可能性が高いのは言うまでもなく俺で、となれば明らかに日本人でない青年が『ゼレイド』と無関係なわけがない。
一瞬でここまで考えた俺は、引き返すべきかどうか迷った。その内心を反映してか、無意識に足が一歩後ろへ下がる。
「……待って」
次の瞬間響いたのは、間違いなく目の前の青年の声。
一言発するだけでわかるその流暢な日本語に驚いている間に、彼は慌てたようにその琥珀色の目をそらしながら言い訳ともつかないことをぽつりぽつりと呟いた。
「いや、悪い。違うんだ……あの、」
その姿にすっかり毒気を抜かれた俺は、ふっと息を吐きだすと戻しかけた足を一歩前へと出した。
今の俺がいくら警戒したところで起こることは起こる。それにジュリー曰く、暗殺の危険性がある以上姿は見えなくても茜や凪がどこかで俺を見ているらしい。気分がいいものではないが、もしこれから何か起こるようなら彼女らがどうにかしてくれるだろう。
目を丸くする彼の隣に腰を下ろす。そのままくつろぐ姿勢を見せると、青年は複雑な色の笑みを見せた。
「逃げられてしまうかと思った」
「昨日のこと、友人が気にしてたから」
さっき思った通り、綺麗な日本語だ。英語しか話せないというわけではないらしい。別に英語でも構わないのに、と肩をすくめると、青年は曖昧に笑った。
得体の知れない、下手したら次の瞬間にでも銃を向けてくるかもしれない相手なのに、俺は何故か落ち着いていた。
そのまま黙って、彼の言葉を待つ。彼のことを知らない――覚えていない俺は何も話せないが、彼が俺を探していたのなら何かあるのだろう。
「……これ」
しばらくの間の後で差し出されたのは、まだ開いていないコーラのペットボトル。
彼も飲む気なのだろうか、反対側の手には同じものがもう1本握られていた。
その顔を窺うように見上げれば、彼は悲しそうに――苦しそうに、かもしれない――笑った。
見ていられなくて目をそらす。ひったくるように、ペットボトルを受け取った。買ったばかりなのか、思ったより冷たいその感触に取り落としかける。同時に、ズボンのポケットにあるスマホが振動した。
そんな設定にはしていない。きっと、ジュリーだろう。
彼に見られても大丈夫だろうか。そう思いながら、一言「悪い」と断ってからスマホを取り出した。
〝WE ARE WATCHING YOU(私たちはお前を見ているぞ)〟
ホーム画面に、赤文字ででかでかと。
これは、彼への牽制なんだろうか。さりげなく、隣の青年にも見えるようにスマホを傾ける。
視線だけでこちらを見た彼は、何も言わずに再び前を向いた。
見て見ぬ振り。つまり、
「……立場抜きで話がしたい?」
「相変わらず察しが良くて助かるよ」
何と答えればいいのかわからず、俺は黙ったままコーラのペットボトルを開けた。
プシュ、と小気味良い音がする。未開栓なら、飲んでも特に問題はないだろう。
一気に呷れば、独特の甘さと炭酸の刺激が舌を痺れさせる。最後に飲んだのはそう昔ではないはずなのに、何故か懐かしい味がした。




