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「氷雅」


 昼休み、机に突っ伏して寝ていた俺に声を掛けてきたのは、


「怜……どうした?」


「ちょっと顔貸して。屋上」


 教室でしたらまずい話だろうか。少しだけ不機嫌そうな彼女の様子も気になるが、心当たりは全くなかった。


「……昼飯は?」


「すぐ終わるから持って来なくていい」


 戸惑いながらも怜の後について屋上までの階段を上がる。その間も、彼女は一言も話さない。


 屋上には、誰もいなかった。古くなってしまったベンチが、どこか寂しげな雰囲気を醸し出している。


「あのね、氷雅」


 振り向いた彼女は、やはり機嫌が悪いようだった。俺のせいだとしたら……多分、その理由がわからないことが余計に怜を怒らせているんだろう。


 が、さすがに怜の次の行動は全くの想定外で、


「痛っ――!!」


 思わず声が出てから、しまったと思った。


 怜の左手が、俺の肩を壁に押し付けている。

「……やっぱり。怪我してるでしょ」

 呆れたように言って、そっと手をどけた。


「何すんだよ……わかってんならわざわざそんなことしなくても、」


「こうでもしないと誤魔化されちゃうと思って」


 確かにそうかもしれない、と黙り込む。


 ……だったら、怜は俺が怪我のことを言わないでいたから怒っているんだろうか。


「〝これ〟もそうなんだけど」


 そんな俺の思考を読んだかのように、彼女は顔をずいと寄せて続ける。壁際に追い詰められて、一歩も下がれない。


「何をそんなに凹んでるの? 氷雅すごくわかりやすいの。悩みがあったら相談しなさいって言いたいところだけど、氷雅は絶対にそんなことしないでしょ? だったらせめて……シャキッとしてよ!」


 言葉が出なかった。


 凹んでる。そう見えるほど、俺の様子は普段と違ったんだろうか。確かに、過去については朝からずっと思い悩んでいた。――顔に出ているつもりは、なかったんだが。


「…………」


 怜が言っていることは、何も間違っていない。俯いて、唇を噛む。それなのに……この、モヤモヤする感じは何なんだろう。


 気がついたら、口が勝手に動いていた。


「怜には……俺のことなんて、何も――っ!」


 ――わからないだろ!!


 肩の傷に走る鋭い痛みで、はっと我に返った。行き場を失った言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。


 この気持ちは何だろう。俺は何でそんなことを言おうとした? 怜は、ただ俺のことを心配してくれているだけなのに。


 動悸がする。思考がまとまらない。嫌な汗が一筋、暑いわけでもないのに流れた。


「――あ。……ごめん。ごめん、違うんだ」


 そう言うことしかできなかった。


 怜の顔を真っ直ぐに見られない。今顔を上げたら、彼女はどんな表情をしているんだろう。それを知るのが怖かった。


「ごめん……ほんとに、ごめん」


 彼女の前にこれ以上いたくなくて、逃げるようにその場を離れる。痛む肩を無視して、全速力で階段を駆け下りた。途中で誰かとぶつかりそうになったかもしれないが、そんなことも気にならないくらいに頭の中がぐちゃぐちゃだった。


 教室に戻った俺は、また元のように机に突っ伏した。昼食はまだだったが、食べる気にはならない。


「はぁぁぁぁぁぁ……」


 深々とため息を吐く。あんな気持ちになったのは初めてだった。


 もっと、きちんと謝れば良かったのに。どうして、逃げてきてしまったんだろう。俺は、怜が教室に帰ってきたらどうする気なんだろう。


「――氷雅? 何か、あった?」


 声を掛けてきたのは多分、恭介。机に伏せたまま黙っていると、苦笑するような気配がした。


「見たよ、怜と2人でどっか行くの。まあ、内容はなんとなくわかるけど……その感じだと、何か余計なことでも言ったんだろ?」


 今度の沈黙は、どちらかというと先ほどの黙秘と違って肯定の意味合いに近い。恭介はそんな俺の髪をくしゃくしゃといじって、


「全く……初めて会ったときからそうだよな、氷雅は。でも、前はこうやって後悔することすらなかっただろ?」


 同年代にしては少し高く、柔らかい声で言う。見た目は幼い癖に、中身は俺よりもずっと成熟しているのが少しだけ憎たらしい。


「何か……悩んでるのはわかるし、俺もできれば聞かせてほしいけど。無理にだなんて誰も思ってないから、焦らなくていいんだよ。怜のことはちょっと俺がフォロー入れとくから、お前もそんなに落ち込むなよ。そういうのは誰にだってあることだ」


「……ごめん。ありがとう」


「いいんだよ。友達だろ?」


 いい友人を持ったものだ。しかし素直に褒めるのが照れくさくて、つい茶化してしまう。


「それで、身長があと15センチあったらすげえモテるんだろうな」


「あのね……」


 実際のところ恭介は、いくら身長が低くても、小学生にしか見えなくても、モテる方だとは思う。成績もズバ抜けて良く、誰にだってこんな風に優しくできるし少しも嫌味じゃない。そこまで行ってしまったらもう外見なんて関係ない。それでも何故か〝モテない枠〟になってしまうのは、


「ん、どーしたんだよ2人して、内緒話か?」


 多分にこいつのせいだ。


「いや、恭介がモテない話」


「え!? いや違うよね? 全然違う話してたよね?」


「へぇ~、恭介サンはモテたいんだ?」


 に、と笑った〝モテる枠〟悠一は、洗ってきたばかりであるらしい両手で俺たちに向かって水滴を飛ばしてきた。


「あっ、眼鏡が……」


 レンズを水滴だらけにされた恭介が、慌ててシャツの袖で拭っている。


「まあ、俺だってモテるわけじゃねーけどな」


「そうかぁ? 悠一ってしょっちゅう告白されてるような気がするんだけど……」


 その割には毎回断っているな、と俺は首を傾げた。あれだけいれば選び放題だろうに、何か信念でもあるんだろうか。


「氷雅さあ……もっと自覚持てよ。体育のとき女子の視線が集まってんのはほとんど俺じゃなくてお前だぜ?」


「え?」


 その割には、俺は女子生徒に告白されたことなんてない。頭の上に疑問符を浮かべていると、恭介がくすくすと笑いながら言った。


「氷雅は普段の表情が硬すぎるからね。良く言えばキリっとしてるんだけど、声は掛けづらいんだと思うよ。密かに憧れるくらいがちょうどいいのさ」


「んん……?」


 なんとなく納得がいかない。頻繁に告白される悠一に、『お前の方がモテる』と言われても信憑性に欠ける。が、恭介まで同意するようなことを言うのだから……そうなのかもしれない。正直、どうでもいいのだが。


「あ、もう時間じゃねーか」


 悠一の言葉に教室の掛け時計を見ると、そろそろ予鈴が鳴る時間だった。


「次の教科何だっけ?」


「化学……って移動じゃん、実験だよ今日。急がなきゃ」


「マジ!? 間に合わねぇよ!」


 気がつけば、怜とのあれこれで沈んでいた心も軽くなっている。


「気合いだろ! ほら急げー!!」


「あっちょっと押すなよ! 階段落ちたらどうするんだよ!!」


 というか、こいつらと騒いでいればそういうことを考える暇もない。


 後で、怜にちゃんと謝ろう。そう思いながら、階段を駆け下りた。

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