第三話 泥味のパンと小さな約束
1
荒い息が、朝の冷気の中で白く弾ける。
アキ・パパニカは、ポン・ペロペの手を引っ張りながら、校舎の裏手に広がる鬱蒼とした雑木林の中を走り抜けていた。
「ハぁっ、ハぁっ……! ここまで来れば、一旦は大丈夫か……!?」
追手の足音が遠ざかったのを確認し、アキは大きな樹の根元に崩れ落ちた。
隣では、ポン・ペロペがボロ布を揺らしながら「ギィ……ギィ……」と荒い吐息を漏らしている。
校舎の窓から飛び降りた際、ポン・ペロペはアキの下敷きになるようにして彼を庇った。そのせいで、ポンの細い腕や肩には、鋭いガラス片による切り傷と、黒い泥のような血液が滲み出ていた。
「おい、お前……怪我……っ!」
アキが傷口に手を伸ばそうとすると、ポン・ペロペはビクッと体を震わせ、泥だらけの腕で自分の体を隠すように縮こまった。
濁った黄色い瞳が、怯えと申し訳なさで揺れている。
「……ギ……ギィ……(ごめん……)」
「謝るなよ……! 俺を助けてくれたんだろ!?」
アキは制服の袖を破り、ポン・ペロペの傷口に優しく巻き付けた。
ポンの体は、見た目の異形さに反して驚くほど冷たく、そして小さかった。まるで、重い荷物を背負わされすぎて擦り減ってしまった子供のように。
「……なぁ、ペロペ」
アキは木漏れ日の中で、静かにポンの顔を見つめた。
「お前、本当に『ナキリムシ』なのか? サラサラ・クックは、12歳で捨てられたゴミだって言ってた……。でも、お前は俺の名前を知ってた。俺の代わりに、あの頭が狂いそうなノイズを……『死にたい』って感情を食べてくれたんだろ?」
ポン・ペロペは無言のまま、ゆっくりと首を横に振った。
言葉が出ないのだ。喉の奥が潰され、意味のある言語を話す機能を奪われている。
その代わり、ポンはボロ布のポケットをごそごさと漁り始めた。
取り出したのは――先ほどサラサラ・クックから奪い取り、丸呑みに噛み砕いた「ペンライト型の記憶消去端末」の残骸だった。
ボリ……ボリ……ッ。
「えっ、まだ食うのか!?」
ポン・ペロペは端末の金属片を美味そうに咀嚼し、ゴクンと呑み込んだ。
すると、ポンの胸の奥が淡く青い光を放ち、アキの脳内に直接、ノイズ混じりの「声」が直接響いてきた。
『――アキ……パパニカ……』
「っ!? 頭の中に……声が……!?」
『――僕のこと……思い出さなくて……いいから……。ただ……死なないで……』
声はノイズにかき消され、すぐに途切れた。
アキの胸が、締め付けられるように痛む。
(機械やガラクタを食べることで、残された記憶のエネルギーを抽出しているのか……!?)
2
二人が身を寄せたのは、街の境界線に位置する旧開発地区――半ば崩落した廃屋の地下室だった。
「ほら、食えよ」
アキはカバンの底に残っていたつぶれた「あんパン」を取り出し、半分にちぎってポン・ペロペに差し出した。
ポンはあんパンとアキの顔を交互に見つめ、不思議そうに首を傾げる。
「ガラクタじゃなくて申し訳ないけどさ。本物のパンだ。昨日の包み紙……お前、これ好きだったんだろ?」
ポン・ペロペは泥に汚れた手で恐る恐るあんパンを受け取ると、小さな口を大きく開けて、はむりと一口かじりついた。
「ギ……ッ! ギギ……!」
ポンの目が丸くなる。
そして、まるで生まれて初めて美味しいものを食べた子供のように、涙をボロボロとこぼしながら、大事そうにあんパンを頬張り始めた。
泥と涙が混ざり、あんパンは酷い味になっているはずだった。
だが、アキも自分の分のあんパンを口に放り込む。
「……泥の味がするな」
「ギィ……(うん……)」
「でも……笑えるくらい美味いよ」
薄暗い廃屋の地下室で、少年と怪物は並んで座り、泥味のあんパンを分け合った。
アキの頭の中にあった「死にたい」という重いノイズは、嘘のように消えていた。
代わりに満ちていたのは、胸の奥がじんわりと温かくなるような、泥臭くて、けれど何よりも愛おしい「生きている」という感覚だった。
「約束するよ、ポン・ペロペ」
アキは空になったパンの袋を握りしめ、ポンのまっすぐな瞳を見つめた。
「俺はもう、『死にたい』なんて言わない。お前が俺の絶望を食べてくれた分……俺はお前と一緒に、この狂った世界で1億%楽しんでやる。だから……ずっと俺の側にいろ」
ポン・ペロペは泥だらけの顔で、くしゃりと笑った。
言葉にはならなかったけれど、その笑顔は世界で一番可愛らしく、そして儚かった。
だが、その穏やかな時間を切り裂くように――地下室の天井から、不気味な赤色の警戒アラートが照射された。
ウゥゥゥーーーーーーン……!!
『――対象指定コード:縺ョ・ライネック。およびエラー感染者アキ・パパニカ。これより地下廃棄層の強制清掃を開始する――』
歪んだシステム音声と共に、地下室の扉が豪快に蹴り破られる。
「おいおい……こんな汚ねぇ穴ぐらに潜んでやがったのか?」
光を背にして立っていたのは、不敵な笑みを浮かべ、手に巨大なナイフを握りしめた一人の少年――カムジ・チャモロだった。
(第三話・完)




