第二話 サラサラ・クックの微笑み
1
夕陽が沈み、静まり返った桜坂。
アキ・パパニカは、泥だらけのボロ布を纏った異形――ポン・ペロペの前に立ち尽くしていた。
「……お前……っ」
あいつが食べたのは、あの錆びついた南京錠の鍵だ。
食べた瞬間、アキの脳を割らんばかりに苛んでいた「死にたい」という重いノイズが、まるで初めから存在しなかったかのように綺麗に消え去っていた。
ポン・ペロペは胸を押さえ、泥に塗れた顔を歪めながら、喉の奥から「ギ……ギギ……っ」と掠れた声を漏らしている。その目からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
そして差し出された、半分にちぎれた「あんパンの包み紙」。
「ア……キ……パ……パ……」
「……あ……」
アキの胸の奥で、忘れていたはずの記憶の欠片が鋭く刺さった。
かつて、この坂道で自分とあんパンを分け合った「あいつ」。
名前も、顔も、声すらも思い出せない。けれど、この包み紙を見た瞬間、魂が「あいつだ」と叫んでいた。
「お前……消えた『あいつ』なのか……!? なんでそんな姿に……!」
アキが手を伸ばそうとした、その時だった。
キーーーーーーン……!!
頭の奥底で、弾けるような電子ノイズが響いた。
視界の端で、空間そのものがバグを起こしたように歪む。
『――警告。未承認の記憶参照を検知。ョ記憶修復シシステムを起動――』
「ぐっ……アァッ……!?」
激痛。脳を直接冷たい針で突かれたような痛みに、アキは頭を抱えてその場に倒れ込んだ。
視界が明滅し、倒れ込むアキの目に映ったのは、ポン・ペロペが焦ったように泥の手を伸ばしてくる姿だった。
「ギィ……ッ! ア……キ……ッ!」
「(逃げろ……っ、ポン・ペロペ……!)」
声を出すこともできず、アキの意識はそのまま深い闇の中へと落ちていった。
2
目を覚ますと、そこは保健室のベッドの上だった。
白い天井。消毒液の匂い。窓の外は、すでにすっかり夜が明けて朝の光が差し込んでいる。
「あ、気がつきましたか? アキ・パパニカ君」
耳元で、不気味なほど爽やかな声がした。
カーテンが開き、現れたのは担任教師のサラサラ・クックだった。完璧なまでに整えられた髪と、一切の隙がない笑顔。
「……先生……? 俺、なんで……」
「昨日の夕方、桜坂で倒れているところを巡回警備に見つけられたんですよ。まったく、急に貧血を起こすなんて困った生徒ですねぇ」
サラサラ・クックはクスクスと笑いながら、アキの枕元に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。
アキはハッとして自分のポケットを探る。
(……ない。南京錠の鍵も……あのあんパンの包み紙も……!)
「何かお探しですか?」
「……いえ……」
「それは良かった。パパニカ君、あなたに少しお話があるんです」
サラサラ・クックは身を乗り出し、アキの目を覗き込んだ。その瞳には光が一切なく、まるで塗りつぶされた黒いガラス玉のようだった。
「昨日、あなたは教室で『存在しない生徒』の名前を口にしようとしましたね? そして昨日の夕方、桜坂で『不法投棄された害獣』と接触した形跡があります」
「害獣……? ポン・ペロペのことか……!?」
「ペロペ?」
サラサラ・クックの眉が、ピクと小さく動いた。
「面白い名前をつけるのですね。ですがパパニカ君、あの異形はただの『ゴミ』ですよ。12歳の春を迎えた際、社会に適応できず discarded(破棄)された廃棄物……通称です」
「ナキリムシ……? 破棄されたって……どういうことだよ!? あいつは……あいつは俺の友達だったんだぞ!!」
アキがベッドから身を乗り出して叫んだ。
しかし、サラサラ・クックの表情は一つも崩れない。それどころか、心底不思議そうに首をかしげた。
「友達? おかしいですね。あなたの記憶データは、一昨年の春に正しく『減価償却』処理が完了しています。あなたの脳内に、そんな余分な感情(記憶)が残っているはずがないのですが……」
サラサラ・クックは懐から、ペンライトのような細い端末を取り出した。
先端が青く光り、アキの眉間に向けられる。
「少しバグが起きているようですね。大丈夫ですよ、すぐに綺麗にして差し上げますからね」
「やめろ……っ! 離せ!!」
「大人しくしなさい。これは『全人類の幸福』のためのシステムなのですから。月面記憶銀行の意向に反してはいけません」
端末の先端から、キーーーンというあの嫌な電子ノイズが放たれる。
アキの脳裏に、再び激痛が走る。
『――脳内ノイズの強制消去を開始。対象:縺ョ・ライネックに関する記憶――』
(嫌だ……! 忘れてたまるか……! あいつが俺の代わりに……俺の『死にたい』を食べちまってくれたんだぞ……!!)
アキは歯が砕けんばかりに噛み締め、必死に抵抗した。
その時――。
バリーン!!
保健室の窓ガラスが豪快に割れ、室内へと巨大な「泥の塊」が飛び込んできた!
「ギィィィーーーーーッ!!」
「なっ……!? ナキリムシ……!?」
サラサラ・クックの笑顔が初めて瓦解し、驚愕の声を上げる。
割れた窓から飛び込んできたのは、ボロ布を撒き散らしたポン・ペロペだった。
ポン・ペロペはサラサラ・クックの手から端末を奪い取ると、そのままガブリと丸呑みに噛み砕いた!
バリバリバリッ!!
「何をするのですか、この害獣が……!」
「ギィッ! アキ!!」
ポン・ペロペはアキの腕を掴むと、そのまま割れた窓の外へとアキを引っ張り出した。
「うわあぁっ!? ポン・ペロペ!?」
二人は朝日が差し込む校庭へと飛び降り、泥まみれになりながら走り出した。
背後で、サラサラ・クックの無機質で静かな声が響き渡る。
「警備班へ連絡。B級指定廃棄体、およびエラー感染者アキ・パパニカの捕獲を開始してください」
追手が動き出す。
世界を揺るがす逃亡劇が、ここから幕を開けたのだった。
(第二話・完)




