第一話 桜坂、怪物のペロペ
1
視界が、桜色に染まっていた。
風が吹くたび、満開の枝からひらひらと舞い落ちる花びらが、昼の光を浴びて淡く輝いている。
その坂道の真ん中で、制服の裾を揺らしながら振り返った少女がいた。
「アキ! 来年も、またここで一緒にあんパン食べようね!」
屈託のない、太陽のような笑顔。
少女――ソラの声に、アキ・パパニカは照れくさそうにカバンを担ぎ直した。
「……ああ。約束だ」
――次の瞬間、世界が激しく歪んだ。
耳を刺す高音の電子ノイズが走り、少女の顔が泥のようにドロドロと溶け崩れていく。
『――私達のきおくは、つねに縺ョゅに奪われている――』
視界の底に、読めない文字の羅列が焦げ付くように浮かび上がり、そのまま真っ暗な闇へと呑み込まれていった。
*
キーーーーーーーン……。
「っ……ハぁっ、ハぁっ、ハぁ……!」
アキは弾かれたように顔を上げた。
冷たい汗が全身から噴き出し、制服のシャツが肌にへばりついている。
教室の窓からは、いつも通りの穏やかな朝の光が差し込んでいた。周りのクラスメイトたちは楽しそうに談笑している。しかし、その誰もが目の奥にガラス玉のような無機質さを宿していた。
頭の奥底から、重く低いノイズが響いてくる。
『……しにたい……きえたい……しにたい……きえたい……』
(まただ……っ。なんだよこの音は、頭が割れそうだ……!)
アキは頭を強く抱え、歯を食いしばった。12歳を迎えたあの日から、この「死にたい」という正体不明の思考ノイズは、休むことなくアキの脳を削り続けている。
「はーい、皆さん着席してー。今日も元気に『感謝の朝』を迎えましょうねー」
教壇に立ったのは、担任教師のサラサラ・クックだった。
狂気を感じるほど不気味で爽やかな笑顔を浮かべ、パンパンと手を叩く。
アキは苦しみに耐えながら、ふと自分の隣の席へ目をやった。
そこは、誰も座っていない空席だった。
教科書もノートもない。だが、木製の机の端には、鋭利な刃物で彫られた小さな傷跡が残っていた。
『アキ & ・・』
後半の文字だけが、まるで誰かに意図的に削り取られたかのように潰れ、読めなくなっている。
「……先生」
アキは掠れた声で立ち上がった。
「どうしましたか、アキ・パパニカ君?」
「……ここ、誰の席でしたっけ。俺、すごく大切な奴がここにいた気がするんです。……『ポ』って名前の……」
言いかけた瞬間、アキの喉奥でザザッと激しい不協和音が弾けた。名前の後半がノイズにかき消される。
「何を言っているんですか?」
サラサラ・クックは、笑顔を一切崩さずに首を傾げた。
「そこは最初から空き席ですよ。この街に『縺ョ子供』なんて生徒は、最初から存在しません」
「っ……! でも、机に傷が! 俺とあいつの名前が彫ってあるんだ!」
「パパニカ君。余計な『影』に囚われてはいけませんよ?」
サラサラ・クックの目が、底冷えするような冷酷さで光った。
「脳のノイズが増えて、ョ減価償却が早まってしまいますからね」
サラサラ・クックの口から漏れ出た奇怪な単語。その部分だけが耳の中で文字化けを起こしたように歪み、アキの脳を麻痺させる。
アキはそれ以上言葉を紡ぐことができず、唇を噛みしめて立ち尽くすしかなかった。
2
夕陽で真っ赤に染まる桜並木の坂道。
アキは重い足取りで坂を登っていた。
『……しにたい……消えたい……しにたい……』
(また大きくなってきた……っ。なんだよこれ……俺はなんでこんなに死にたいんだ……!?)
頭の中のノイズが爆音となり、アキはたまらず坂道の途中で膝をついた。
ポケットから取り出したのは、掌に収まるほどの小さな「南京錠の鍵」だった。錆びついていて、どこの鍵かも分からないガラクタだ。
だが、その鍵の裏側には、かすかな刻印が打たれていた。
『・・ / 面記憶銀行』
「(この刻印……なんて書いてあるんだ? 『面記憶銀行』……? 前の文字が潰れて読めない……)」
アキがその鍵を握りしめた、その時だった。
ガサガサガサガサッ!!
「うわっ!?」
坂道の脇にある伸び切った草むらが激しく揺れ、中から「それ」が飛び出してきた。
ボロ布を全身に巻きつけた、小柄で醜い異形。
全身が泥と黒い煤で汚れ、手足は不自然に曲がりくねっている。肌はカサカサに乾き、お世辞にも人間とは呼べない不気味な姿だった。
「ギ……ギギギ……ッ!!」
「な、なんだお前!? 化け物……!?」
アキは腰を抜かし、じりじりと後退りした。
しかし、その異形――泥鬼は、濁った黄色い瞳でアキの手元をじっと凝視していた。
アキが握りしめていた、錆びた鍵だ。
「ギィッ!!」
「うわあぁっ!?」
異形は恐ろしい敏捷さで飛びかかり、アキの手から強引に鍵をひったくった。
「返せっ! 返せよ! それは……それだけはダメなんだ!!」
アキが叫ぶのと同時に、異形は鍵を手に取ると、あろうことかバクリと自分の口の中に放り込んだ。
バリバリッ! ボリッ! ゴクン……!
金属が噛み砕かれる凄まじい音が響き、異形はそれを喉の奥へと飲み込んでしまった。
「な、何してんだお前ーーーッ!? ガラクタを喰ったのか!?」
アキは頭を抱えて絶叫した。大切な遺品を奪われた絶望に崩れ落ちそうになる。
――しかし。
スッ……。
次の瞬間、アキの脳内を狂わんばかりに苛んでいた「死にたいノイズ」が、嘘のように消え去った。
「……え?」
頭の中が、静かだった。
まるで猛吹雪が去った後のように、圧倒的な静寂がアキの意識を満たしていく。
「……ノイズが……消えた……?」
呆然とするアキの前で、異形は腹を押さえ、泥だらけの身体を丸めて身をよじらせていた。
異形の目から、ぼろぼろと大粒の透明な涙が溢れ出し、泥の頬を黒く濡らしていく。
「……ギ……ギ……ッ……」
異形は震える手で、ボロ布の隙間から「何か」を取り出した。
それは、油で汚れた、半分にちぎれた「あんパンの包み紙」だった。
異形はそれを泥だらけの手でアキへ差し出し、しゃがれ切った掠れ声で、途切れ途切れに吐き出した。
「……ア……キ……パ……パ……」
アキの目が見開かれる。
「……え……?」
「……・・・……」
異形が口にした後半の言葉は、またしてもザザッという強いノイズにかき消された。
だが、その声の震え、息遣い、そして差し出された包み紙――。
(……ソラ……? なんで……なんでお前が……?)
アキの記憶の底から、あの桜並木の坂道で半分こにしたあんパンの味が、激しい痛みを伴って蘇ってくる。
夕陽が沈みかける桜坂の真ん中で、少年と、名前を奪われた怪物は、言葉にならない涙を流しながら見つめ合っていた。
(第一話 完)




