先行者の記録
「クジョウ様、そのランドルの記録です――あぁ、間に合ってよかった。何を示しているのかはよく分かりませんが……あちらへ行かれる前に少しでもご参考になれば……」
「キリハラさん。だ、大丈夫ですか?」
「えぇ……」
「一体なにが……」
背後から一枚のメモ紙を持って、疲れた様子のキリハラさんが現れた。
相変わらず顔を歪め、鼻先を執拗に追い払う仕草をしている。
「キリハラ、キリハラ。はっちんの感想おしえて」
「……やはりこれはランドルが作ったのですね――アリシアの指示で」
目を輝かせ、ランドル先輩は嬉しそうにキリハラさんに両腕を伸ばす。キリハラさんは溜息を吐き、アリシアさんに恨みのこもった視線を送った。
「足が痺れたのです」
「元はと言えば、お前の行いのせいだろう」
「ですが、キリハラはクジョウさまを連れて行きました。社長室ではどのような時間を過ごしたのですか。自分ばかりずるいです」
「お前な……」
「キリハラ、はっちん、痛い?」
「……痛いですよ。ランドル、これを止めてください」
前ポケットから小さな装置を取り出し、ランドル先輩はポチっとボタンを押した。かすかに聞こえていたブーンという羽音が止む。
鼻先を払っていたキリハラさんの手も止まった。
どうやら、アリシアさんは俺に対する破廉恥な振る舞いにより命じられた反省で足が痺れ、その仕返しに、ランドル先輩お手製の「はっちん」をキリハラさんに仕掛けたようだ。
なおも言い合いを続ける二人をよそに、ランドル先輩がちょいちょいと俺を手招きする。
「はっちん」
ランドル先輩の小さな手のひらに、目を凝らさなければ見つけられないほど極小な虫のようなものが乗っている。どうやらこれが「はっちん」らしい。
「はっちんは――自動運転で対象を追いかけて、マイクロニードルで鼻を刺し続ける、嫌がらせに特化した装置だ。この攻撃は停止ボタンを押すまで止まらない。刺し加減には特にこだわった。痛痒いけど、即座に耐えられなくなるほどじゃない。そのくらいが一番苦痛に感じるから。見た目通り、モチーフはミツバチ」
「どちら様ですか!?」
ランドル先輩の語彙力が突如跳ね上がった。
俺は、福々しい幼児の顔にゴッドファーザー並の陰影を見た。もはや別人である。
ていうか、幼児が刺し加減にこだわるってどんな状況だよ。
「あ……もしかして、それでミツバチの恰好を……?」
「うん」
先輩は得意気に胸を張った。
「お似合いです」
「うん」
天才は満足そうだ。
「――クジョウ様、お見苦しいところをお見せしました。こちらをどうぞ」
「これって……?」
「ランドルがあちらへ行った際の記録です」
「……え?」
「それからランドル。はっちんですが、痛痒さは絶妙です。攻撃に粘着性がありますから、肉体的ダメージに留まらず、ターゲットに精神的なダメージも与えることができるでしょう。ただし、アタックポイントに波がありますね。たとえば私の鼻ですが、同じ毛穴を集中的に狙えば、もう少し心を抉ることができたかと。精密性が今後の課題です」
「了解した」
いぶし銀幼児が大きく頷く。
なぜ、キリハラさんも冷静に分析しているんだ。ターゲットって誰だよ。
いや、もはやそんな状況にすら驚かない。こんなことは、ネスタ社では日常茶飯事なのだろう。というか、俺が気になったのはそこじゃなくて。
「あの、キリハラさん、この記録って――」
「えぇ……そもそもクジョウ様にコンタクトを取らせていただいた理由は、研究調査部の記録に難があるからでして……ほとんどご参考にはならないかと……私も未だあちらへ赴いたことがなく、ランドルのこの記録が意味しているところを理解できておらず――この通り、ランドルの語彙力は研究分野を外れると格段に落ちてしまいますので――お役に立てず、誠に不甲斐ない限りです」
「いや、あの……」
キリハラさんが目を離すと社員が暴走するだろうことは容易に想像がつくから、異世界探索の経験がなくとも、俺にキリハラさんを責める気はまったくないし、ランドル先輩にゴッドファーザーの二面性があることも、ネスタ社式処世術で既に受け入れ済だ。
だから、俺が気になっているのは、そこじゃなくて。
「――ランドル先輩、異世界に行かれた経験が!?」
にやり。
幼児は口角と親指を上げた。
「おとこ、ランドル、一人旅」
「かっけぇ!」
なんと、天才幼児発明家は、異世界探索の先行者でもあった。
このミツバチ、マジで俺の先輩じゃないか。
「……なぜランドルはよくて、わたくしはダメなのですか」
小さな先輩に敬意を表し、ははぁ、と頭を垂れていると、拗ねた少女のような声が思ったよりも低い位置から聞こえてきた。
部屋の隅っこに、ぷくっと頬を膨らませたアリシアさんが正座していた。どうやら、言い合いはキリハラさんの勝利に終わったらしい。
「ランドルは勤務中に反省を言い渡されることはないからな」
「キリハラは偉そうです」
「けんか、だめ」
たしかに、幼児の一人旅より危険と判断されるなんて、よっぽどである。さすがはアリシアさん――魑魅魍魎揃いのラボを率いる部長だ。
再び大人二人のバトルが始まりそうな気配を感じ、俺はキリハラさんから受け取ったメモに目を通すことにし、
「…………なるほど」
数秒後、そっとメモを折り畳んだ。
『グリグリ。ファサー。
バサバサ。ゴー。
わー、ポテッ。クルクル、ひょい、モグモグ。
ありがとう。』
ほとんど参考にならないどころか、まったく分からない。
「ランドル先輩……あ」
「すやすや」
少しでもヒントを得ようとしたが、先輩は既に夢の中だった。
これはもう、腹を決めて行くしかない。俺には「今すぐカエルくん」もついているし、先行者のランドル先輩から、「がんばって」と、ありがたいお言葉もいただいている。
いくら天才とはいえ、幼児が一人で異世界へ赴いたのだ。俺にだってできる。おとこ、クジョウ、一人旅だ。
俺は深呼吸をして、いよいよ異世界探索へと踏み出す覚悟を決めた。
「それで――異世界へのゲートはどこに?」
どうやら取っ組み合いをしていたらしいキリハラさんとアリシアさんが、ぴたりと動きを止め、一斉にこちらを向いた。
「――失礼いたしました。クジョウ様、いよいよご出発ですね」
「クジョウさま、行ってらっしゃいませ。本音を申しますと、わたくしもご一緒したいところなのですが――クジョウさまの足を引っ張ってはいけませんので……ラボメンバー全員でクジョウさまのご無事をお祈りいたしております」
「……ありがとうございます」
二人とも、いたって真剣な顔つきをしているが、いまいち説得力がない。
キリハラさんの顔には、左目を囲むように丸が、右頬には大きくバツ印が描かれていた。
アリシアさんの右手には黒マジックが握られている。
「それで、ゲートはどこに――」
「そちらです」
俺はゆっくりと二人が指さす方向を見た。
「…………うそん」
カポーン。
銭湯のオノマトペが脳内再生される。
視線の先では、「いせかい」と書かれた暖簾が揺れていた。




