若輩者の先輩
「このセキュリティを解除できるのは、研究調査部スタッフと社長のゼスタリアだけです。ですから今のところ、あちらを訪れたのは、二名のラボメンバーだけなのです。もっとも、これからはクジョウさまが一番よくご使用されるでしょうから、後ほど認証登録をお願いいたしますね」
「アリシアさんもあちらへ行かれたことがあるのですか?」
「いいえ、残念ながらわたくしはないのです。真っ先に手を挙げたのですが、なぜだか社長とキリハラに止められてしまい……かくいうキリハラも、何やら色々と忙しいとかで、あちらには行っていないようです」
俺は頷いた。出会って一日も経過していないが、二人がアリシアさんを止めたのも、キリハラさんにそんな暇がないのも、どちらもよく分かる気がした。
今のところ、異世界へ行ったのは残りのラボメンバー四人のうち、二人だけだという。先行者の記録が参考にならないとキリハラさんが言ったのは、データが不足していることも関係していたのかもしれない。
なんにせよ、二人は無事に帰還していると知り、俺は内心ほっと胸を撫で下ろした。未知の世界への旅路――国境を跨ぐだけでも、緊張しないと言えばウソになるのに、これから世界を跨ごうとしているのだ。常識は通用しなくて当たり前だし、命の危険だってあるかもしれない。もちろん、それらをすべて了承した上で契約書にサインしたわけだが、高等部修了から二年も経過していないひよっこの、ろくに社会経験も筋力もない男が、「命がけ上等」と中指を立てられるはずがない。
命を保証されたわけではないが、先行者の無事は、安心材料にはなった。
少し行くと、奥にもう一枚扉が現れた。こちらは認証の必要はないらしい。
再び音もなく扉が開き、足を踏み入れようとして――俺は慌てて右足を引っ込めた。
子どもが一人、俺の足元に転がっている。
「ランドル! こんなところでどうしたのですか」
「……ひんやり……ぐうぐう」
「ほらほら、勤務中ですよ。クジョウさまが通れませんから、移動しましょうね」
「……アリシア?」
唖然とする俺を後目に、アリシアさんは手慣れた様子で子どもを抱き上げると、近くのイスに座らせ、子どものおでこに向かって、「めっ」と人差し指を立てた。
かわいい――いや、そうじゃなくて。
今、勤務中ですよと言わなかったか。ということは、この子もネスタ社の社員――?
「床が冷たくて気持ちがいいからといって、こんなところで寝てはいけません」
「……はぁい」
「気を付けないと踏まれてしまいますよ。クジョウさまだから、咄嗟に回避できたのです」
ほら、しゃんと目を開けて、クジョウさまにご挨拶しましょうと、アリシアさんは子どもをイスごと回転させた。小さな首に掛けられたシルバーのロケットペンダントが揺れる。眠気まなこを擦る子どもと目が合った。
明らかに俺よりも十以上は年下に見えるが、この子がネスタ社の社員であるならば、俺にとっては先輩ということになる。ここは先輩を立て、後輩からご挨拶するのが自然だろう。
子どもが社員と言われても、俺はもう驚かない。
頭の中で、昔やりこんだRPGゲームの効果音が流れる。
『クジョウは経験値を獲得した』
この会社では、常識は敷地外に放り捨てておくに限る。
「……初めまして、クジョウです。本日からネスタ社の特務社員として勤務しています」
「ランドル」
ご挨拶は一言だった。
先輩はどうやら寡黙な男のようだ。
「ええと……」
「こちらのランドルは研究調査部に所属している、ラボメンバーの一人です。見ての通り若輩ですが、とても優秀な研究者なんですよ。実はクジョウさまにお渡ししておきたいものも、ランドルが製作したのです」
俺の視線を受け、アリシアさんがにこやかに応じた。
そういえば、あちらに行く前に渡しておきたいものがあると言われていたような。
それにしても、やはりランドル先輩はラボメンバーの一人――ネスタ社の社員だった。つまり、キリハラさんが言うところの曲者の一人ということだが、これについては何の異論もなかった。
だって若輩すぎるし。
しかもなぜか、ミツバチみたいな恰好しているし。どう見てみても仕事着じゃないし。
「ランドル、クジョウさまにあれを渡してください」
「……クジョウ」
ん、と、ランドル先輩は前ポケットからカエルのおもちゃのようなものを取り出し、俺に向かって差し出した。ミツバチのおなかにはポケットがついているらしい。
「これは……?」
おもちゃは銀製らしく、裏面には突起のようなものが付いている。
「こちら側のゲートを潜るとあちらの世界へ行くことができますが、あちらからこちらへ帰還するためのゲートは存在しないのです。あちらでの滞在が一定時間を経過すると、自動的にこちらへ転送される――つまり、いつでも行くことはできますが、帰る時間は選べないということですね。ですが、あちらでは何が起こるか分かりません。万が一、すぐにでも帰還しなければならない事態が発生した場合は、その『今すぐカエルくん』をご使用ください」
「……今すぐカエルくん」
「頭を押すと鳴きます」
けろけろ。
脳内に畦道の情景が広がった。鳴き声のクオリティが無駄に高い。
「後ろの突起をご使用いただければ、ブローチになります」
「……なるほど」
見た目とネーミングはともかく、異世界からの帰還時間を選べないとなれば、このアイテムは非常にありがたい。覚悟はしていたつもりだが、何が起こるか分からないと聞かされれば、なおのこと不安は増す。
命の危機を感じたら、ありがたく使わせてもらおう。
俺は「今すぐカエルくん」をしっかりと左胸にセットした。
それにしても、そんな装置を製作してしまうなんて、ランドル先輩、天才じゃないか。
「ありがとうございます。心強いです」
「がんばって」
ミツバチ姿の先輩に礼を言うと、ぽってりとした小さなサムズアップが返ってきた。




