ラボ
「……別人と思われたでしょう」
「最初は目も合わないんじゃないかと思いました」
社長室の扉が完全に閉まったことを見届け、キリハラさんが口を開いた。
思わず苦笑する俺に、キリハラさんは「ええ、ええ」と疲れた顔で何度も頷きながら、近くのエレベーターに乗り込んだ。俺がいることを確認し、下の階のボタンを押す。
「クジョウ様には気が重い話かと思いますが――なにせ我が社は、あのような輩の巣窟なのです。とはいえ、既にクジョウ様は洗礼を受けてしまわれましたね……私がついていながら、力不足で申し訳ありません」
「いやいや、ほんと、全然気にしてないんで」
気にしているのは、鼻腔を擽るアリシアさんの甘い香りと柔らかな感触くらいだ。
チン。エレベーターの到着を知らせる音を合図に、俺は雑念を振り払った。
「むしろ個性が強くて輝いて見えますよ」
この二年近く、ジャーナリストの真似事でしか生活してこなかった俺にとっては、あれだけシャイで人見知りのくせに、大勢の取材陣を前に堂々とした受け答えを見せたゼスタリアさんも、そんな超話題企業で研究調査部の部長を務めているのに、宇宙人すら知らないアリシアさんも、疲弊した秘書然としつつ、部長の首根っこを掴み、社長に意見する、実は一番の権力者なのではと感じさせるキリハラさんも、皆眩しいくらいに個性的で、羨ましく感じるほどだ。
「……クジョウ様、あなたという方は――」
再び広い廊下を先導していたキリハラさんが足を止めた。
瞳が潤んでいる。まるで菩薩の顕現を目の当たりにした信者のごとく、キリハラさんが俺に両手を合わせたところで、
「クジョウさま――!」
「あ、痛っ!」
「え、アリシアさん?」
音もなく真横のスライドドアが開き、中からアリシアさんが飛び出してきた。
「クジョウさま、お待ちしておりました。わたくしたちのラボへようこそ」
さぁ、中へお入りください、と自然な仕草で左腕をとられる。アメジストの髪が揺れ、甘い香りがふわりと漂う。俺はまたしても赤面しそうになった。
そういえばさっき、キリハラさんの叫び声が聞こえたような。
絶世の美女に文字通り心も身体も引っ張られながら後ろを振り返ると、キリハラさんが顔を歪め、なにやら執拗に鼻先を払っていた。気のせいか、かすかにブーンと虫の羽音のようなものが聞こえる。
「あ、あの、アリシアさん。キリハラさんの様子が……」
「気になさらないでください。それよりもクジョウさま、これからあちらへ出発されるのですね。お召し替えは必要なさそうですが、ゲートを通られる前に、渡しておきたいものがございます」
「でも、なんか痛そうですけど……」
「なんでもありません。さぁ、ラボを案内させてください」
痛がるキリハラさんを完全に無視して、アリシアさんは先へ進んでいく。俺の左腕には、アリシアさんの細腕が絡んだままだ。
「こちらはラボメンバーで打ち合わせをするためのお部屋です。猫足が可愛らしいテーブルでしょう? なんだか格式張っていたものをDIYで改造したのです」
誰が、とは聞かない。そんな作業を命じられる苦労人は多分一人しかいない。
「一度も使ったことはないのですけれど」
にこりと可憐な笑顔を向けられた。
何も言えねぇ。
ラボの中は、スライドドアからまっすぐ進んだ位置に、今しがたアリシアさんに紹介いただいた重厚感漂う見事な円卓が鎮座していた。ただし、趣あるそいつを支えているのは、プリンセスのバスタブを思わせる甘々な猫足だ。全体のバランスには非常に違和感があるが、猫足そのものの完成度は高い。さすがはネスタ社イチの苦労人の仕事である。しかし、現在に至るまで、使用されたことはないらしい。
俺は思わず後方に目を遣った。苦労人はドアを入ったところで何やら呻いている。そして同僚から華麗に無視を決め込まれている。
あれ、なんだか、目からしょっぱいものが。
「ラボメンバーにはそれぞれお部屋が与えられていまして、全員が顔を揃える機会はほとんどありません。皆さん研究熱心で、普段は自分のお部屋から出てこないのです」
ぐい、と腕を引かれ、視線を正面に戻す。
あの、アリシアさん、そんなに密着すると柔らかいものが当たって――。
俺の動揺をよそに、アリシアさんは涼やかな顔で円卓の左右を指し示した。
俺たちのいる場所から見て、円卓の左右にはドアノブの付いた扉が計六つ配置されていた。それぞれがラボメンバーに与えられた部屋なのだろう。
手近な扉をアリシアさんがノックする。中から応答はなかった。
「――このとおり、皆さんドアノックを存じ上げないのです。ですから、ご挨拶は追々ということで」
ドアノックを存じ上げない社会人がいるのかとの疑問は、ひとまず呑み込むことにした。なにせ部長は宇宙人を知らない。
ラボメンバーが本当にノックを知らないのか、あるいは反応しないだけなのかは分からないが、部屋から出てこないという彼らは、キリハラさん曰く、曲者の集まり、魑魅魍魎である。アリシアさんは研究熱心と評価しているようだが、ここはキリハラさんの言を信じ、むやみに刺激しない方がよさそうだ。同僚とはいえ、何も無理やり顔を合わせる必要はない。
我ながら、急速に社内での処世術が身に付きつつあるような気がして、少し笑えた。
「ちなみに、左手奥がわたくしの研究室です」
御用の際は遠慮なくお声掛けください、いいえ、クジョウさまなら御用がなくともいつでもお顔を見せにいらしてください。それから、特に覚える必要はございませんが、右手奥がキリハラの部屋です、とアリシアさんは続けた。
早くネスタ社に馴染めるようにとのアリシアさんの厚意はありがたいが、用もないのに女性の部屋を訪れるのは、俺にはハードルが高い。というか、招かれない限り近寄れない。
そういう意味でも、キリハラさんの部屋を知れたのは幸いだった。何かあったらまずキリハラさんに相談しよう、一番の常識人だろうし。絶対必要な情報でしたよと、心の中でキリハラさんに親指を立てた。
「クジョウさま、こちらへどうぞ」
再びアリシアさんに引っ張られる形で、円卓の向こう側に移動する。
円卓の向こう側――アリシアさんとキリハラさんの部屋の間には、各研究室の扉とは大きさも造りも異なる半透明の扉が設置されていた。セキュリティ認証の操作パネル付きだ。
「あちらの世界へのゲートはこの先にございます」
アリシアさんが右手の操作パネルにカードを置く。電子音が鳴り、続けて指紋・虹彩認証、パスコード入力を経て、セキュリティは解除されたようだった。
「このカードは社員証です。本日お帰りの際に、クジョウさまにもお渡しいたします。社員証があれば、正門から自由に出入り可能になりますから、明日以降はお待たせすることなく、お会いできますね」
「あぁ、それは助かります」
そういえば、ネスタ社の敷地に入る際、それから建物に入る際と、要塞かと言いたくなるような物々しいゲートで、わりと長い時間、身体チェックを受けさせられた。
いくら秘密主義の企業とはいえ、少しやりすぎではと思ったが、異世界への出入口を保有しているとなれば、あのくらいのガードは当然必要だろう。とはいえ、出勤するたび、毎度毎度あれを受けるのはちょっとしんどい。明日からは社員証一枚でパスできるようだから、忘れずに受け取って帰ろう。
音もなく扉が開く。
アリシアさんに腕を組まれたまま中に入ると、扉は自動で閉まった。
あ、キリハラさん置き去りだ。




