ブラックな常識人
キリハラさんが淹れてくれたホットチョコレートは、甘すぎず苦すぎず、すっきりとした甘さとまろやかな口当たりが絶品だった。
ホットチョコレートなんて洒落たもの、実家で出された覚えはないし、恋人もおらず、定職にも就いていないような男が、日頃から嗜んでいるわけがない。だが、両手でカップを包み込む幸せそうな女性を前にして、「生まれて初めて口にしました」などとは口が裂けても言えなかった。
別に嘘を吐いたわけではない。口にしたことはなくとも、その名のとおり、ホッと落ち着く飲み物なのだろうと思っていたし、そもそも、口にしたこともないものを嫌いというのはおこがましい。飲食物に対して失礼にあたる。つまり、飲んだことがない時点で、俺はホットチョコレートさんを嫌いではないのだから、好きと答えるのが当然ではないか。
と、何ともこじつけがましい正当化を完了したところで、提示された契約書類から目を離し、俺は頷いた。
「問題ありません。この内容でサインします」
「ありがとうございます。それでは、こちらにお願いいたします」
社長の傍らに立つキリハラさんから、極彩色の長い羽根飾りのついた高そうなペンを受け取り、俺は言われた箇所にサインした。同じペンで今度は社長がサインを完了する。
ちなみに、ネスタ社との専属契約について、簡単にまとめると次のとおりだ。
契約期間はひとまず一年間、以降、双方の合意に基づき、更新または満了とする。
契約期間中、俺はネスタ社特務社員として、ネスタ社の指示に従い、記録を行う。ネスタ社関連以外の仕事は、原則引き受けない。なお、給与は俺の希望により、安定の月給制にしてもらった。正直なところ、前例のない仕事のため、どこまで成果を上げられるか、いまいち自信がない。今後は小銭稼ぎも出来なくなるのだから、これで出来高制にしようものなら、これまで以上に食い詰める可能性もある。
そして、契約の一番の肝は、守秘義務の徹底だ。
ネスタ社及び異世界において――つまり、職務上知り得たすべてのことについて、ネスタ社の許可なく、いかなる情報も持ち出さないこと。今後、俺の書き物が日の目を見ることはほとんどないだろう。異世界の存在は、世間では公になっていないのだから。この点において、ネスタ社での俺の仕事は、ジャーナリストとはいえない。だからこそ、肩書は専属ジャーナリストではなく、特務社員となった。
「これで、クジョウ様は正式に、ネスタ社の一員となりました。何かご質問や仰っておきたいことなどはございますか」
「あの……ぼくは契約させていただいた立場なので……様を外していただければと」
ジャーナリストもどきを様付けする人間なんていない。これも人生初の経験だった。
もちろん悪い気はしないのだが、クジョウ様と呼ばれるたび、何だか背中がムズムズする。俺の身の丈に合っていないのだ。まぁ、そもそもネスタ社に招かれたことからして、身の丈を遥かに上回っているのだから、言い出せばキリはないのだが。
とにかく、クジョウ様ではなく、もっと一般的にクジョウさんとか――。
「えぇ、もちろん――」
「いたしかねます」
快諾しかけた女性社長の隣から、無情な一言が発せられた。社長は目をまん丸にして、キリハラさんを見つめている。
「クジョウ様のお願いなのに……そのくらい問題ないでしょう」
「ありありです」
「な、なんで……」
「いいですか。アリシアもあなたも、本日初めてお会いしたクジョウ様に対して、一体どれほどの問題行動があったと思っているんですか。ホットチョコレートでチョロまかされたからって、いい気にならないでください。あなたはクジョウ様に挨拶もしていないのですよ。あぁ、クジョウ様、大変遅くなり申し訳ありません。こちらのチョロチョロは、我が社の社長を務めています、ゼスタリアと申します」
「え、あ――クジョウです。よろしくお願いします」
「あ、はい、ゼスタリアです。これからぜひともよろしくお願いします」
「まったく――初対面でこの状態では、これから先、クジョウ様に対して、より一層不遜な振る舞いが引き起こされることは想像に難くありません。クジョウ様!」
「は、はい!」
「そんな中、クジョウ様をクジョウさんと呼ぶ――その行いだけで、我が社の魑魅魍魎どもは免罪符を得た気になり、調子に乗るに決まっています! 他ならぬクジョウ様のお願いですから、ぜひとも叶えて差し上げたいところなのですが――引き換えに、クジョウ様の身の安全が脅かされる危険性がございます」
クジョウさんって呼ばれるだけで!?
涙を拭う仕草を見せながら、キリハラさんは熱弁を終えた。正直、主張の内容はよく分からなかったが、ネスタ社イチの常識人であろうキリハラさんの意見を尊重することにし、クジョウ様は継続されることとなった。
ちなみに、キリハラさんの主張で一つだけ理解できたことは、やはり、ゼスタリアさん=チョロいが俺たちの共通認識だったということだ。
しかし、強烈な個性に隠れているだけで、社長をチョロチョロ呼ばわりするキリハラさんも相当変わっているのでは――ていうか、チョロまかすってそういう意味だったっけ。
「ご理解いただき光栄です。クジョウ様の寛大なお心に感謝申し上げます」
「ははは……」
打って変わって爽やかな笑顔である。
常識人がブラック企業に勤めていると、こんな感じになるのだろうか。キリハラさんがネスタ社でやっていける秘訣を垣間見たような気がした。
「それで、ぼくはいつから――というか、手始めに何をしたらよいのでしょうか」
異世界の様子を記録すること。
それが特務社員として俺に任された仕事内容だ。そのためには現地に赴く必要があるのだろうが、そもそも異世界への行き方を知らない。
「クジョウ様にはあちらの世界を自由に散策いただき、見聞きした情報を記録していただきたいと思います。僅かですが、研究調査部が先行した記録もありますので――」
「ほとんど参考にならないと思いますが……」
「しっ、キリハラ。ごほん。参考になさってください。あちらの世界へのゲートは研究調査部の中にあります。クジョウ様のお好きなタイミングで構いませんが――本日これより出発されますか?」
日々の生活もカツカツの男が立派なスーツや革靴など持っているわけもなく、ネスタ社に招かれたというのに、俺はほとんど普段着に近い装いをしていた。だが、幻獣や精霊が闊歩する異世界へ行くのに、スーツや革靴はむしろそぐわないだろう。
ゼスタリアさんは俺の格好から、このまま出発しても問題ないと判断したようだ。
一度家に帰ったところで、アリシアさんの唇の余韻に浸る以外、特にやることもない。ネスタ社で見聞きした内容を記事にできるのなら話は別だが、専属契約を結んだ以上、ネスタ社の許可なく情報を持ち出すことはできないのだ。
参考にはならないらしいが、一応先行者もいるわけだし、そこまで身構える必要もないだろう。ゼスタリアさんに頷きを返し、俺はこのまま異世界へ出発することに決めた。
「そうですね……いきなり職務を遂行できるかは分かりませんが――とりあえず、異世界がどのようなところなのか、一度見ておきたいと思います」
「承知いたしました。ラボまではキリハラに案内させます」
「どうぞこちらへ。あぁ、クジョウ様の書類は、私が責任をもってお預かりいたします。帰還後、ご帰宅の際にお渡しします」
キリハラさんのバインダーに俺の契約書類が収められる。それを合図に俺は腰を上げ、キリハラさんの後に続いた。
扉の前で立ち止まり、ゼスタリアさんに一度頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ」
才気と自信に満ちた女性社長は、素晴らしい笑顔で送り出してくれた。




