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チョロい人見知り

卒倒するかと思った。


あの後、何がどうなったのかほとんど記憶がない。気付けば俺はキリハラさんに連れられ、社長室のソファで人を待っていた。


高等部時代に大した女性経験もなく、この二年間は社会を這いずり回るような生活をしていたこの俺が、頬とはいえ、現実離れした美女にキスされ、「いやぁ、こちらこそよろしく」なんてスマートな対応ができるわけがない。


唯一覚えているのは、応接間に正座姿で取り残されたアリシアさんの姿だけだ。どうやら我に返ったキリハラさんに、反省を言い渡されたようである。


そうして麗しのアリシアさんを後にし、これまた広い廊下を右に左に曲がれして辿り着いたのが、この社長室だ。さすがにこの部屋には、ちゃぶ台と座布団のセットは用意されていなかった。

  

ソファに着座を勧められる――当たり前のことなのだが、あのような体験をした後では、その当たり前のことが何だか落ち着かない。さきほどまでのことが、狐につままれていたのではないかと――さきほど――そう、例えばアリシアさんの唇が――いやいや、それは思い出したら駄目だ。元々僅かしかない脳のキャパシティが完全にオーバーする。


そわそわと身体が揺れるのは、座り心地の良すぎるソファのせいか、はたまた俺の残念な思考のせいか。一人にされると余計なことを考えてしまう。どうでもいいから、キリハラさん早く帰ってきて――と、数分前にキリハラさんが消えた奥の扉を見つめた。


キリハラさんは社長を呼んでくると言って、扉の向こうへと姿を消したのだった。



「――だから、クジョウ様がお待ちなんですよ」


「……で、でも、ボク……ま、まだ心の準備が……」


「しっかりしてください。あなたはネスタ社の社長――顔なんですよ」


「う、うぅ……そんなのキリハラがやればよかったんだ……ボクは人前が苦手なんだもの」


「それではあなたが、アリシアをはじめとしたあの魑魅魍魎たちの相手をしてくださいますか」


「えっ……そ、それはできないかも――あれ、そういえばアリシアは?」


「破廉恥な振る舞いにより、別室反省中です」


「なにしたの!?」



扉の奥からは、冷静なキリハラさんと自信なげな女性の声が聞こえている。どうやら女性はネスタ社の社長らしいが、随分と恥ずかしがり屋のようだ。


――あれ? ネスタ社の社長ってたしか記者会見の――。


こんな印象の人だったっけ、と違和感を覚えたところで、


「ほら、いい加減にしてください。クジョウ様をお待たせしすぎです」


「へあっ」


キリハラさんに無理やり押される形で、細身のパンツスーツに身を包んだ女性が姿を現した。


黄金色の髪を後頭部でまとめ、すっきりとした輪郭に銀フレームが絶妙にマッチしている姿は、連日ワイドショーで目にしたその人だった。しかし、落ち着かない様子で彷徨っている視線や、きゅう、と窄められた華奢な肩が、記憶の中のキリっとした印象とはどうにも一致しない。怯えたように縮こまっている姿は、まるで追い詰められた小動物のようだ。ちなみに俺は何もしていない。


だが、このままソファで彼女を待ち続けていても、きっと永遠に目さえ合わないだろうことは容易に想像がついた。


俺は立ち上がり、なるべく女性を刺激しないように――さながら野生動物を前にした心境で、ゆっくりと女性の前に立った。


「あ、あの――初めまして。ジャーナリストのクジョウと申します」


「う!?」


ものすごい勢いで顔を伏せられた。


女性にこんな反応をされるのは、高等部時代に制服のチャック全開を披露したとき以来だ。思わず社会の窓に手を伸ばしかけると、キリハラさんの盛大な溜息が聞こえた。


「クジョウ様、重ね重ね……大変申し訳ありません」


見事な直角お辞儀である。


本日だけでキリハラさんの謝罪を何度目にしたろうか。ちなみにキリハラさんは何もしていない。常に同僚・上司のために頭を下げている――ネスタ社がとんでもないブラック企業に思えてきて、俺は慌てて頭を振った。


いかん、いかん。俺は今からこの会社と専属契約を結ぶのだ。始まる前から、先行きが不安になるようなことを考えてどうする。二年前の両親の顔を思い出せ。このチャンスに懸けるしかないんだ。


「いえいえ、お気になさらず……あ」


片手を振ったところで、はたと思い付いたことがあった。


「もしかして、御社が取材をお断りされているのって……」


「……そのとおりです。あの記者会見だけはあの手この手――ニンジンぶら下げ、催眠、マニピュレーション、猫質で何とかさせましたが、会社の顔である社長がこのように人見知りなものですから……かといって、他の者に務まるとも思えませんし――なにせ研究調査部のトップがあれですからね」


キリハラさんは再び溜息を吐き、遠くを見つめた。


ニンジンをぶら下げたところまではいいとして、その後に不穏な単語が聞こえた気がする。そして社長は猫を飼っているらしい。人質ならぬ猫質とは初めて聞いた。


たしかに、キリハラさんの言う通り、研究調査部長のアリシアさんも女性社長に負けず劣らず、十分ネスタ社の顔は務まるだろうが、いささか言動に不安なところがある。最も安心できるのはキリハラさんだが、本日のやりとりだけで、秘書業務の傍ら、キリハラさんに取材対応をさせるのが過重労働であることは、俺にも理解できた。


それにしても、ネスタ社が件の記者会見以来、一切取材お断りの鉄壁ガードを貫いている理由が、こんなところにあったなんて。ワイドショーの出演者がコメントしていたような経営戦略の一環でもなければ、ゴードン・ライトがバックにいる影響でもない。


あの凛とした銀フレームの女性社長が、実はスーパーシャイの人見知りだったからなのだ。


ネスタ社の秘密主義について、巷ではワイドショー以上に様々な憶測を呼んでいる。しかしまさか、ジャーナリスト連中ですら、これが正解とは夢にも思うまい。


「とはいえ、一度は取材を受けましたし、理由はそれだけではないのですが……」


ハの字眉のキリハラさんがソファを示す。


「クジョウ様はどうぞ、お席にお戻りください。何かお飲み物をお持ちいたします。ごゆっくり、契約書類に目を通していただければ――コーヒーはお好きですか?」


「あ、はい。ありがとうございます」


「……………………チョコレート」


「え?」


どこから発せられたのか、か細い声でカカオ系最強の名が唱えられ、俺は思わずキリハラさんと顔を見合わせた。どうやら、俯いたままの野生動物――もとい、女性社長から聞こえてきたようだ。


「……チョコレートは……」


社長は小さな声で、もう一度その名を唱えた。


好きか嫌いかを訊いているのだろうか。試しに声を掛けてみる。


「えっと、チョコレートおいしいですよね。僕は好きですよ」


ピク、と社長の肩が上がる。


「……ホ、ホットチョコレートは」


「あぁ、ホットチョコレートいいですね。温かくて落ち着きます」


ガバッと、伏せられたとき以上の勢いで社長が顔を上げた。


「お好きですか!」


「は、はい」


女性社長の口元に、にんまりと笑みが広がってゆく。彼女は満足気に大きく頷いた。あ、目が合った。


「キリハラ。ホットチョコレートを二つ。一つはクジョウ様にお出しして」


クジョウ様、さぁ、どうぞお座りくださいと、社長が丁寧にソファを示してくれる。


そのきびきびとした動作は、怯えた小動物とは似ても似つかず、連日の報道で目にした堂々とした姿そのものだった。キリハラさんは呆れたような、諦めたような顔で社長を眺めると、小さく息を吐き、隅の給湯スペースでホットチョコレートの用意を始めた。


間違いなくネスタ社イチの苦労人であろうキリハラさんと俺が、このときの女性社長に抱いた感想は、おそらく同じものだったに違いない。


この人見知り、チョロいぞ。


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