いきなり大奮闘
暖簾を潜ると異世界であった。
冗談みたいな渡航手段に思わず超有名どころのフレーズを文字ってみたが、目の前に広がる風景はネスタ社のラボとはかけ離れていて、どこか遠くへ来たことをすぐに実感した。後ろを振り返っても、アリシアさんやキリハラさんの姿もないどころか、来るときに潜った暖簾も見当たらない。
見渡す限りの草原だ。
一面に膝丈の草が生い茂り、柔らかい風に揺られて、若い緑の匂いがした。
「さて、どうするか――ん?」
抜けるような青空が眩しく、片手で庇を作ったところで、何かが視界に入った。
「……うそだろ」
最初は、何か小さな粒が宙に浮いているのかと思った。
だが、それが近付いてくるにつれ、そいつが無害な浮遊物ではないこと、そして、俺の世界には存在しない生物であることを認識し、俺の足は反射的に動いた。
「いきなりですか!」
どこまでも緑が広がるこの場所で、身を隠せる場所は疎らな岩陰しかない。幸いなことに、慢性的に運動不足な俺でも何とか走り切れる距離に、腰の高さくらいの岩が転がっていた。岩陰に滑り込み、一気に上がった息を整える。
精霊や幻獣が棲息するとは聞いていたが、まさか、こんなに早く出くわすとは思いもしなかった。しかも、異世界初心者がいきなり相手にするようなやつじゃない。
岩陰から、ちらりとそいつを覗き見る。
爬虫類のように縦に開いた瞳孔、ワニのような強靭な顎。獰猛な牙は、俺の腕くらいの太さがあるだろうか。鏃のような尻尾を振り回し、前脚と同化した翼で飛翔するそいつは、耳を劈く咆哮を上げながら、段々とこちらに近付いてくる。
「……ワイバーン」
間違いなく、異世界レベル1の俺が対処できるような相手ではない。
ここにきて、自らの引きの悪さに愕然とする。そうだ、俺はつい昨日まで社会人の端くれと名乗るのもおこがましい生活をしていた男だ。そんな野郎がネスタ社に招かれ、世間の大多数よりも先にその秘密を知り、専属契約まで結んだ。その上、異世界探索まで安心安全に進むほど、俺に幸運が訪れるはずがない。
「……でもさぁ……」
ファーストコンタクトはもっと、可愛らしい妖精さんがよかった。
――チチチ、チチチ。
子どもの頃、妹の絵本に出てきたっけ。
金色の髪と透き通る羽根を輝かせて、ひらひらと飛び回る愛らしいピクシー。尖った耳とほんのり吊り上がった目尻が、イタズラ好きでお茶目な性質をよく表していた。
その声はきっと、あんな地響きを生む獣の咆哮なんかじゃなくて――。
チチチ、チチチ!
「そうそう、こんな風に可愛らしい声の……え?」
その声は焦ったように段々と高くなり、恐怖が滲んでいるように聞こえた。
幻聴じゃない。絵本の記憶でもない。
目を凝らすと、手のひらサイズの小さなピクシーが、今まさに荒れ狂うワイバーンから必死に逃れようとしているところだった。
「……どうする……」
ワイバーンはピクシーを捕食する生物なのだろうか。異世界に来ていきなり、妖精が食われる様子なんて見たくない。だが、ジャーナリズムの基本は事実を伝えることだ。弱肉強食、あちらの世界でも、野生動物のバトルを止めに入る記録者はいない。
この光景がこの世界の常ならば、俺が助けに入るのは世界の秩序を乱すことに――ジャーナリズムに反することになる。
チチチチチチ!
「……でも」
こんなに怯えた声を上げ、今にも鋭い爪に抉られそうな様子を目のあたりにして、冷静に観察などできるものか。
そもそも俺は今、ジャーナリストではない。ネスタ社の特務社員だ。ここでの仕事は、自由に世界を探索し、その様子を記録すること。「妖精を助けてはいけない」などといった文言は、契約書にもなかった――はずだ。
大体、ワイバーンとピクシーでは、体格差がありすぎる。俺がアリを踏み潰すようなものだ。そんなのは弱肉強食なんかじゃない。ただの弱いものいじめだ。腹も膨れないだろう。
「そういうのは昔から嫌いなんだよ!」
意を決して、俺は岩陰から飛び出した。
ワイバーンに向かって走りながら、目についた手のひら大の石ころを掴む。
武器もない、映画やゲームのように魔法が使えるわけでもない。体格差は大きいし、そもそも相手は空を飛んでいる。この世界に来たばかりの非力な人間が敵う相手ではないことは、十分承知の上だ。
とにかく、あのピクシーさえ逃がせれば。
「ほら、獲物はこっちだ!」
掴んだ石ころをワイバーン目掛けて思い切りぶん投げた。
ボール投げの記録は平均並だったはずだが、コントロールはよかったようだ。投げた石ころは、ワイバーンの顔を直撃した。
ブルルルル。
ワイバーンは唸り声を上げ、大きく体躯を下降させる。だが、石を投げた俺には気付いていないのか、轟音とともに再び飛翔した。
翼竜の羽搏きで足元の草が激しく揺れる。真っすぐに立つことすら覚束なくなる中、俺の存在に気付いたピクシーと目が合った。
「……なんだ?」
ワイバーンの注意は今、ピクシーには向いていない。今なら逃げられる。けれど、なぜかピクシーは逃げ出す素振りを見せず、ワイバーンの正面あたりをぎこちなく浮遊し続けていた。
ピクシーはしきりに、俺とワイバーンの顔を何度も見比べている。
なぜ逃げない?
襲われていたわけではなく、イタズラ好きの妖精らしく、ワイバーンに遊びを仕掛けていただけなのだろうか。
チチチ、チチチ。
否。
俺を見る瞳は真剣で、たしかに助けを求めているように見える。
つまり、あの仕草には何か意味があるのだ。
「――――そういうことか」
振り返るピクシーの視線を何度も追い、ようやく俺の目にもそれが見えた。
ピクシーを象徴する緑色のとんがり帽子。その先端のほつれた糸がワイバーンの下顎から生えた牙に引っかかっている。
あの糸をどうにかしない限り、ピクシーは逃げたくても逃げられないのだ。
「だったら、もう一回だ」
再度手近な石を掴み、ワイバーンの真下まで駆ける。
相手は空を飛んでいる。俺が思い切り跳んだところで、あの距離までは届かない。だが、さきほど石が命中した直後、ワイバーンは大きく下降した。あの高さなら可能性はある。
「そらっ」
二度目の投擲は、翼竜の強い羽搏きをまともに受け、顔を直撃とはいかなかったが、かろうじて後ろ脚にヒットした。唸り声とともに、再びワイバーンの巨大な体躯が下りてくる。
吹き飛ばされそうな暴風の中、なんとか足を踏ん張り、俺はタイミングを待った。
――今だ。
大地を蹴り、近くの岩を数歩駆け上がる。ホップ、ステップだ。
「垂直跳びは平均以下なもんでね!」
勢いそのまま、ワイバーンが最も地面に接近したところで、俺は思い切り跳び上がった。
強靭な顎が目前に迫ってくる。翼竜の荒い息を全身に受けながら、俺は左手でピクシーを掴み、右手で二体を繋ぐ細い糸を掴んだ。
重力によって下降していく俺の体重が、糸を通じてワイバーンの牙にかかる。
グルルル。
不快そうな声を上げ、ワイバーンが口を開いた。身の毛もよだつ歯列が露わになる。
あの牙の餌食になれば、人間などひとたまりもないだろう。恐怖で身が竦みそうだ。だが。
「おとこ、クジョウ!」
躊躇うな。
自分を鼓舞し、下降モーションの中、俺は右手を大きく上へ振り上げた。
張りつめた糸が撓み、右手の感覚が軽くなる。
「――抜けた! ……へぶっ」
ワイバーンは再び飛翔を開始し、俺の身体は勢いよく地面へと投げ出された。周囲の草を根こそぎ薙ぎ倒す無様極まる着地だったが、幸いにも、直前に両手で包んだピクシーは無事だった。
「だ、大丈夫? ケガは……」
そっと手のひらを開き、俺を見つめるキュートな妖精さんに問いかけてみる。だが、妖精さんは俺の問いかけには反応せず、不安げな様子で頭上のワイバーンを見遣り、再び焦ったような声を上げた。
チチチチチ! チチチチチ!
「え……なに?」
ピクシーの視線を追う。ワイバーンは頭上で旋回を始めていた。
俺たちには興味がないのか、追いかけてくる様子はない。
だが。
「……なんか、様子がおかしい……?」
グル、グルル。時折上げる声は苦しげで、呻いているようにも聞こえる。
思い返してみれば、石を投げたときも、鼻息を身体全体に受けたときですら、ビビりの俺が恐怖に支配されることはなかった。それはなぜか。
あの全身を硬直させる威圧的な瞳孔を一度も向けられていないからだ。
つまり、俺やピクシーは奴の眼中にはない。
けれども、ここに現れたときから、ワイバーンは酷く荒れ狂っている様子だった。
「なにか別の原因で苦しんでいる――?」
チチチ!
頭上を見上げ首を傾げていると、羽根を休め終えたらしいピクシーが、俺の目線の高さを飛んでいた。チチチ、チチチと鳴きながら、後方の岩を示している。
「そこに逃げろってこと?」
俺には分からない危険をピクシーは感じ取っているのだろう。郷に入っては郷に従え。異世界初心者は、住人のアドバイスに黙って従うのが無難だ。
「ん?」
衣服に付着した草を払い、ワイバーンに背を向けたところで、俺の耳は妙な音を捉えた。
グル、グルル、とワイバーンが呻く合間に、ゴロゴロと聞こえる咳のような――なにか異物を外に押し出そうとしているような音が聞こえる。
思わずワイバーンを振り返り、俺は絶句した。
獰猛な牙が並んだその奥に、赤い影が揺らいでいる。
グル――グルルルル!
一際大きく呻いた後、奴は大きく口を開けた。
「まずいまずいまずい!」
ゴオオオオオオオ。
特大の咆哮とともに灼熱の炎が吐き出される。
「ぬおおおおお」
俺は全力で足を動かした。
ピクシーが示した岩までは残り数メートル。
岩陰まで全速力で駆け抜ける――つもりで、見事に手前の石ころに足を取られた。
ああ、俺にも競輪選手並みの太腿があればなぁ。
人生最後には、予想だにしなかった願望を思い描くものだ。
つんのめった反動でくるりと一回転した俺は、目標の岩に背を預ける形で尻もちをつき、正面からまともに翼竜の炎を受けることとなった。
先に避難したピクシーは岩陰に身を潜めている。そうだ、元々は妖精さんを助けようとしたのだから、君だけでも助かってよかった――と、思うことにしよう。命は惜しいが。
灼熱の炎が迫ってくる。
思えば俺の人生、でかい口を叩くだけで何も成し遂げられなかったが、最後は怒涛の一日だった。話題のネスタ社の門戸が俺なんぞに開かれたことだけでも奇跡なのに、これまで出会ったことのない個性的な面々と同僚になり、なんと麗しのアリシアさんから頬にキスをされるなどといった夢のような――ん?
なんだ、今なにか思い出したような。
アメジストのふわりとした艶髪、鼻腔を擽る甘い香り、柔らかな唇の感触――いやいや、そうじゃなくて。今、俺が思い出さないといけないのは――。
個性的な面々。麗しのアリシアさん、苦労人のキリハラさん、シャイすぎるゼスタリアさん、そして、天才幼児発明家――ランドル先輩。
「――今すぐカエルくん!」
――万が一、すぐにでも帰還しなければならない事態が発生した場合は、その「今すぐカエルくん」をご使用ください。
そうだ。俺には「今すぐカエルくん」がついているじゃないか。左胸で鈍い輝きを放つ救世主を見据え、俺は頷いた。今が使い時だ。
力強く頭を押す。
「けろけろ」
業火に畦道の風景が出現した。
――頭を押すと鳴きます。
「……使い方聞いてない」
俺は静かに目を閉じた。
短いが、まぁ、俺らしい人生だった。
轟音と熱風が一瞬のうちに迫ってくるのを肌で感じる。翼竜の火焔はあまりにも凄まじく、焼き尽くされた周囲の臭いすら感じないほどだった。
チチチ。
そう、まさか最後を妖精さんの隣で、異世界で迎えることになるなんて、昨日まで想像もしていなかった。帰還時間がきたら、俺の身体は元の世界に戻るのだろうか。あるいは、この世界で命を落とした時点で、身体はこちらに残されるのかもしれない。いずれにせよ、戻ったとしても丸焦げ確定なわけで、ネスタ社の面々をショッキングな場面に立ち会わせてしまうことが少し申し訳ない。「今すぐカエルくん」も多分壊れてしまうだろうし。
チチチ。
家族にはネスタ社からきちんと連絡がいくだろう。その点は、キリハラさんがいるから心配する必要はない。俺がいなくなったら、次はあの御曹司に声が掛かるのだろうか。別に今更どうでもいいが、しかし、アリシアさんの唇があいつに触れるのだけは許しがたい。そこだけは、ぜひともキリハラさんに止めていただくことを強く要望する。
チチチ!
「…………ん?」
一分ほど経過しただろうか。とうに燃え尽くされているはずの思考がまだ続いている。
両手を握りしめると、たしかに拳の感覚があった。一拍遅れて、焦げくさい臭いが鼻をつく。
恐る恐る目を開けると、目の前をピクシーが浮遊していた。目が合うと、心配そうに寄せられていた目元がパッと開き、安堵したように息を吐いた。
どうやら俺はまだ生きているようだ。
ピクシーが上空を指さす。
ボッ。
ワイバーンは残り火のようなものを小さく吐き出すと、心なしかスッキリした様子で身軽に旋回し、あっという間に姿が見えなくなった。
「なんだったんだ……」
視線を地上へと戻し、俺は再び絶句した。
炎が舐めた軌跡には緑の面影もなく、一面黒く染まっている。そして、その光景は俺の爪先まで続いていた。靴の先端が焦げている。どうやら本当に間一髪だったらしい。
「……あ、脚が短くてよかった」
そんな間抜けなセリフを呟いた瞬間、旋回する水柱に俺の身体は呑み込まれていった。




