ホテルへの潜入 その五
「だから、その石を返してほしい。それから、ランドル先輩の写真も」
「……嫌だと言ったら?」
「何度でもお願いするしかない」
アリシアさんを盾にされている以上、俺は身動きがとれない。自暴自棄になっている今のジングージは、脅しではなく、本当にアリシアさんを傷付ける可能性がある。
力ずくで取り返すことはできない。しかし、守り石と写真は、絶対に取り返さなければならない。
そのためには、何度だって頭を下げてやる。
――頼んだぜ、クジョウ。
こんな俺を信じてくれた仲間のためなら、いけ好かない野郎に跪くことだって、なんてことはない。
「――ふっ。くくくっ。つくづくおめでたい野郎だなァ」
「……なにが」
「格好つけてるとこ悪ぃが、お前にそんな暇はねぇよ」
ナイフを持つのとは反対の手で、ジングージがズボンのポケットに手を伸ばした。小さなガラス瓶を取り出す。透明な液体が入っているようだ。
ジングージはコルクの蓋を歯で開けると、足元の捻じれた紐――導火線の先端に向かって、中身をぶっかけた。
鼻につく匂い。アルコールだ。
アリシアさんの顔色が変わる。
あぁ、とわざとらしく大仰な仕草で、ジングージは思い出したように言った。
「連中のシステムをぶっ壊したのはお前らだろ? 四六時中目がある気味の悪ぃ場所だったが、おかげで見張りがいなくなった。アレが持ち込めたのもお前らのおかげだよ」
テーブルに向かって顎をしゃくる。その目は守り石の下を見ていた。
奴の言う通り、普段ならX線装置まで搭載されているこのホテルに、爆弾が持ち込めるわけがない――そう、普段なら。俺の潜入に合わせて、ホテルの監視システムは一時的に無効化されていた。ジングージはその隙を突いて爆弾を持ち込んだのだ。
監視システムが動いていない間も、ホテルは通常営業だった。事情を知らない人間には、いつもの日常が流れていたに違いないが、監視に気付いていたジングージにとっては違う。
警備員の動き、視線の揺らぎ――ほんの少しの変化から、システムに問題が起きていることを悟ったのだろう。ヒトの観察力――それは、あの家で生まれ育ったジングージが磨いてきた力だった。
「まさか自分たちで寿命を縮めるとはなぁ。死んだら労災は出んのか、あぁ?」
「……せめて、アリシアさんだけでも解放してくれないか。俺はここに残るから」
「クジョウさま……」
最悪、守り石はもう一度もらえるかもしれない。ウンディーネは怒るかもしれないが、二つの世界のためだ。何より、弱いものを見捨てるのはウンディーネの性質に反する。俺の代わりがあちらの世界に行って、誠心誠意頭を下げれば、きっと分かってくれるはずだ。
問題は、ランドル先輩だ。写真も奪われたまま、そして、アリシアさんまで失えば、ランドル先輩の心は崩壊してしまうだろう。けれど、アリシアさんが生きていてくれさえすれば。
母との写真は無くなってしまっても、きっと生きていける。
どうしようもなく寂しさが襲ってくるときには、ヴェスパやメノウ、キリハラさんが――ランドル先輩には、たくさんの保護者がいるから。
「俺だけで勘弁してくれないか」
「クジョウさま、ダメです。クジョウさまがいなくなるなんて、そんなこと――」
「安心しろよ。一人じゃねぇ。お前ら二人、仲良く一緒にドカンだ」
「頼む! 頼むよ。アリシアさんは必要な人なんだ。アリシアさんだけでも――」
「しつけぇな! 言っただろ? 俺の女になれば、見逃してやってもよかったってよ。この女が拒んだんだ! 解放なんかしねぇよ。恨むなら、のこのこやってきたてめぇらと会社を恨むんだな」
ジングージの手が再びポケットに伸びる。その手に握られていたのは、いかにも高価そうな金細工――着火装置だ。
導火線は、ジングージとアリシアさんの足下から床を這って、テーブルの下へと続いている。距離にして五メートルもない。火が点けば、ほとんど一瞬でドカンだ。何とかして点火を止めなければ。
だが、俺とジングージの間には天板がある。これでは、イチかバチか、ジングージに飛びかかることもできない。
まずい。これは本当に、絶体絶命だ。
「残念だったな。クジョウ、アリシア。お前らも道連れだ」
「待っ――!」
ジングージの手から、火のついた着火装置が投げ落とされる。
俺の願いは虚しく、着火装置は完璧な角度でアルコールにダイブし、そして、導火線に火を点けた。
「おい!」
「っ!」
アリシアさんが火を消そうと導火線を踏む。それに気付いたジングージが、アリシアさんの髪を乱暴に引っ張った。
「クジョウさま、少しでも遠くへ!」
悪魔のような形相のジングージに捕まりながら、アリシアさんが声を張り上げる。
俺だけでも逃げろと言っているのだ。だが、火の勢いは速い。今から出口を目指しても、もう間に合わないだろう。それに、アリシアさんを置いて逃げられるわけがない。
とにかく、アリシアさんの盾にならなければ。爆発をまともに受けなければ、命は助かるかもしれない。
こうなっては、もう形振り構っていられない。俺の足腰では些か不安だが、火事場の馬鹿力を信じ、俺はアリシアさんと自分を隔てる天板を乗り越えることにした。
そして、思い出した。
――翼を持つ者は羽搏き軽く、大地を駆ける者は足取り軽くじゃ。
俺は、シルフィードの祝福を受けている。
足取り軽く――ならば、この天板くらい乗り越えられるはずだ。
ビタン。
「……え」
次の瞬間、俺はフカフカの絨毯と接吻を交わしていた。
跳躍を見据え、勢いよく踏み込んだつもりが、見事に絨毯に足を取られたようだ。祝福の効果は既に無くなっていたらしい。
向かい側にアリシアさんとジングージの足が見える。
導火線の火は床から離れ、天板の裏に向かって伸びようとしていた。
万事休す――もう、ダメだ。
ああ、前世が蚤だったらなぁ。
人生最後には、予想だにしなかった願望を思い描くものだ。
「――ん?」
気のせいか、こんな場面、前にもあったような。
――ああ、俺にも競輪選手並みの太腿があればなぁ。
そうだ。あれは、最初に異世界渡航を果たした日、ワイバーンの火球から逃れようとして、岩の手前でつんのめって――。
そして、ウンディーネに出会った。
――契約成立じゃ。
「…………あぁ」
思い出した。
俺は水の大精霊――ウンディーネの眷属だ。
――それで、俺は何ができるようになったんだ?
その加護が与えられた守り石。
――指を出せ。
その危機を救うのは、眷属の果たすべき務めだ。
――水が出る。
その力をもって。
「――ウンディーネ様――!」
俺は天板の裏に向けて、人差し指を思い切り突き出した。
ちょろちょろ。
その動作に見合う勢いで、必殺技のごとく大量の水が出る――ことはなかった。
相変わらず、最もお尻に優しい程度の水圧である。しかし。
シュゥゥウウウ。
導火線の火が静かに消えていく。
その様子を見届け、俺はゆっくりと立ち上がった。
「……な、なんで――お、お前――お前、なにをした!」
突然すぎる形勢逆転で、ジングージは面白いほど狼狽していた。アリシアさんに突きつけていたナイフが床を向いている。
今なら、取り押さえられる。
「残念だったね――」
俺は慎重に一歩を踏み出し、
「突入だ!」
「手を上げろ!」
「抵抗するな!」
「――わぁああ!?」
両手を上げて絶叫した。




