ホテルへの潜入 その四
ウンディーネの石とアリシアさんを前にしては、俺のような凡人の居場所はない。
目に入ってはいたものの、視界の端を飛ぶ羽虫のような存在だったのだろう。ジングージはようやく俺を認識したらしい。
「――そうだ、採用試験だ。あれ以来見てねぇってことは、お前落ちたんだろ」
「だったらどうした」
「はっ。どんな精鋭の集まりかと思えば、ネスタ社ってのは落ちこぼれどものシェルターでも目指してんのかよ」
「なに――?」
たしかに奴の言う通り、俺は出版社の採用試験に落ち、どうしようもない生活をしていた。ネスタ社に拾ってもらったのも、俺の実力などではない。本当にたまたま、奇跡的にケアレスミスが昇華しただけだ。
だから、俺はいい。俺のことはどれだけ馬鹿にしてもいい。
でも、ネスタ社は――俺の同僚たちはダメだ。俺を見つけてくれたアリシアさん、キリハラさん。異世界渡航を助けてくれたランドル先輩、ヴェスパ、メノウ。それぞれに事情を抱えながらも、皆優秀で立派な社員だ。
少なくともジングージに、彼らを馬鹿にしていい理由は一つもない。
「あのガキも馬鹿だよな。母親の写真一つで」
「……宝物なんだ」
空のペンダントを握って、眠りにつくほど。
小さなランドル先輩の心の拠りどころ。
大人が奪っていいものじゃない。
「ベソかきながら持ってきてくれたもんなぁ」
「――っ」
アリシアさんの声にならない声が漏れた。
握りしめられた拳には色がない。爪が食い込むほど強く、怒りと悔しさが込み上げているのだろう。
俺も同じだ。
「……その石のためか」
「ああ、そうだ」
ジングージは一歩後ろに下がり、絨毯の端を蹴り上げた。
捻じれた紐が露わになる。紐は俺たちを隔てるテーブルの下、ちょうど守り石の真下まで伸びていた。
アリシアさんが目を見開いて、紐の行方を見ている。
「こいつは誰にもやらねぇ。誰かの手に渡るくらいなら――俺の手で壊してやるまでよ」
「……やっぱりそうか」
天板の裏に仕掛けられた筐体。捻じれた紐はそいつに繋がっている。
守り石を壊す装置――爆弾だ。
「どうして、ここまで――」
ジングージが石を盗んだ証拠はない。
ネスタ社は捜査機関を動かすことができなかったからこそ、俺とアリシアさんを送り込んだのだ。取られたものを盗み返す――もはや非合法的な手段を取らざるを得なかった。
ジングージにしてみれば、俺たちに石を取り返されたとしても、自身の経歴に傷は付かないはずだ。窃盗は立証できず、捜査機関は動いていないのだから。
だが、爆弾となれば話は違う。ホテルの一室で爆弾騒ぎを起こせば、確実に罪に問われる。
ましてや、このホテルを支配しているのは、パスティアだ。下手をすると国際問題にもなりかねない。ここに滞在しているジングージなら、そんなことは分かっているはずなのに。
導火線の距離を考えれば、点火後に部屋を脱出するのは、ほぼ不可能だろう。ジングージだって、無傷では済まない。
これではまるで、石と心中するかのようだ。
俺が思っていた以上に、奴は守り石に執着している。
だが、この状況はジングージらしくない。今までのジングージならば、困ったときは、自身の恵まれた出生を大いに利用してきたはずだ。現に今、こんなに広い部屋を与えられているのも、その恩恵によるものだろう。
だとしたら、なぜ、この状況で祖父に縋らないんだ。
爆弾で石を壊す――これは、完全に追い詰められた人間の思考だ。助けを期待できない人間が自棄になって考え付いたもの――明らかによくない部類に入る。
今まで通り、ジングージ家が介入していれば、こんな手段に打って出ることはない。
ということは、つまり。
「もう終わりなんだよ!」
ジングージは大きく顔を歪めた。
「誰かがジジイにチクりやがった――俺がこいつを盗んだってな! おまけに、ウチの所有団体に出資を取りやめるって話も出てる。それも一つや二つじゃねぇ。ジジイはカンカンだよ。ジングージ家は俺と縁を切るんだとよ」
アリシアさんと目が合う。
ゴードン・ライトの仕業だ。
ジングージは、ゴードン・ライトが一人の人間だと思っている。ネスタ社のバックにゴードン・ライトがいることは知っていても、まさか、一人の人間がそこまでの影響力を持つとは考えられない。だから、この件にゴードン・ライトが関わっているとは思っていないのだ。
しかし、実際は一人の人間ではない――世界中の有志たちの集まりだ。その中には、ジングージの祖父に圧力をかけられる者も、複数の出資団体に顔が利く者もいる。
ジングージに石が盗まれたことは、俺が就職する前から、既にゴードン・ライトには報告されていた。だが、この時点ではまだ、石の正体が明らかになっていなかった。ジングージは要観察対象だったのだ。
それが精霊の守り石であり、四つまとめて保管しなければ、あちらの世界から妖精が来てしまうと分かったのは、昨日の話だ。ゼスタリアさんから報告を受け、ゴードン・ライトが動いたのだろう。
そして、ジングージは祖父に見限られた。大きな後ろ盾を失い、追い詰められたジングージが捻り出したのが、この浅はかで自暴自棄な爆弾騒ぎだったのだ。
「もうどうでもいいんだよ! 俺の人生は終わったんだ! だったらせめて、気に入らねぇ奴らに一矢報いて死んでやるのさ――ここで爆発が起きれば、パスティア人が巻き込まれる。そうなりゃ大変だろうなぁ。下手すりゃ戦争だぜ。俺と縁を切ったって、ジングージの人間がここにいたことは変えようがねぇ。ジジイも真っ青だ。そんで、あのガキもお前らも、必死になって取り戻しに来たもんは、手に入らねぇ。俺が墓場まで持って行ってやる。ジジイもネスタ社も、せいぜい戦争にならねぇよう頑張るんだな!」
ははは、とジングージの哄笑が響く。
幼いランドル先輩に罪を負わせ、欲求を満たした卑劣な男は、その報いすら、一人で受ける気はないらしい。何の関係もないパスティア人を巻き込み、戦争の危機に発展することを望んでいる。
なにが、一矢報いる――だ。
理不尽に追い詰められたのは、お前じゃない。ランドル先輩だ。ヴェスパだ。
お前が陥っているこの状況は、自分が仕出かしたことの結果だろう。そのツケを払いもせず、
「――逃げるのか」
「あ?」
「尻拭いしてくれる人間がいなきゃ、自分で何の責任も取れないのかよ」
「なんだと?」
「お前が巻き込んだ人たちは、みんな必死で戦ってきたんだ!」
心の支えを失ったランドル先輩の寂しさ、罪を犯してしまった後悔、大切な人に本当のことを言えない苦しみ。
手を貸したヴェスパも同じだ。あの涙を流すまで、どれほど歯を噛み締めて耐えてきたことだろう。
事情を聞いていたメノウも、幼い二人を守るため、一人で大人の役を担ってきた。きっと、得意な分野ではないだろうに。
何の罪もなかった彼らは、理不尽にもジングージに巻き込まれ、翻弄された。けれど、ランドル先輩もヴェスパもメノウも、誰一人逃げなかった。奪われたものを取り返すため、自分たちにできることを積み上げていた。それなのに。
それなのに、この男は、自分で回した矛先と向き合うつもりもないのだ。
「お前に――お前ごときに俺の何が分かる!」
「……たしかに、俺ごときに、立派な家に生まれた人間の気持ちは分からない。恵まれてるように見えたって、いいことばっかじゃないだろうし――俺みたいな凡人には分からない苦労もあるんだろう」
面接会場の待合室で、ジングージが他の受験者からも一目置かれていたのは、何も名前だけが一人歩きしていたからではない。こいつがその名に相応しい振る舞いをしていたからだ。
面接前の課題にチームで取り組んだときには、率先してまとめ役をやっていたし、貢献度が控え目なメンバーには、返しやすいトスを上げていたらしい。俺は別のチームだったけれど、こいつの評判は聞いていた。
それに、二年前――たった一度、待合室で話しただけの俺を覚えていた。ジングージ家の者として、出会う人間の顔と名前を記憶するよう、訓練してきた結果なのだろう。
たしかに、ジングージ家の恩恵はある。けれども、同じくらい努力もしてきたはずなのだ。
俺にその辛さは分からない。理解できるとは言えない。しかし、俺にも分かることはある。
「その石に魅入られる気持ちは、すごくよく分かる」
それを授けてくれた精霊の偉大さや美しさは、よく知っているから。




