ホテルへの潜入 その三
「ジングージさま、失礼いたします。ジングージさま」
背後でドアが閉まったことを確認し、アリシアさんが客室の奥に向かって声を掛ける。
返事はない。物音も聞こえてこない。
「……不在のようですね」
ヴェスパとメノウの調べでは、ジングージはここに、ひと月以上滞在している。
予想通り、奴の部屋は一人で使うには広すぎる――俺には生涯縁のなさそうな豪華な部屋だが、客室の中だけでは、さすがに暇を持て余しているはずだ。コーラルホテルには、屋内プールのほかにも、複数の娯楽施設がある。どこかで時間を潰しているのだろう。
「いない方が都合がいい。今のうちに回収しましょう」
パスティアの監視は、当然客室の中まで行き届いている。だから、俺とアリシアさんの不審な行動はすべて見られているわけだが、監視を行っているのはホテルスタッフではない。パスティアの諜報部だ。諜報部が見張っているのは、パスティア人による祖国の裏切り――ホテル客室への侵入や窃盗事件ではない。
それに、俺たちが侵入しているのは、パスティア人ではなく、この国の人間――ジングージの部屋だ。
パスティア本国がこの映像を見たとしても、横槍を入れてくる可能性は低い。
この国の捜査機関に連絡する可能性はあるが、それでも彼らを動かす証拠となる映像や音声は提出できない。そんなことをすれば、ホテルの監視システムが明らかになってしまうからだ。「窃盗の疑いがある」だけの通報では、捜査機関の動きは遅いだろう。
つまり、捜査機関が踏み込む前に、守り石とランドル先輩の写真を持って、このホテルを脱出できる可能性は大いにある。ジングージのいない今がチャンスだ。
アリシアさんが頷いた。
とはいえ、大企業創業者兼会長のご令孫――そのステータスを見せつけるような客室だ。部屋の中にも複数の部屋がある。この中を隈なく探すとなれば、時間が足りるか微妙なところだ。
だが、その懸念は一瞬で吹き飛んだ。
「クジョウさま、あれは――」
出入口からまっすぐ進んだ先の開放感溢れる部屋。
艶々と輝く天板を冠したテーブルの上に、それはあった。
「……ウンディーネの石だ」
息を呑む圧倒的な美しさ、見る者を魅了する輝きを惜しみなく放つサファイアブルー。
だが、水の大精霊を知る俺にとっては、美しいばかりのものとも思えない。精霊の加護を秘めた石は、ウンディーネの強さと正しさをも内包しているように見えた。
強く美しい蒼は、静かな怒りを湛えている。正しさを拒絶する行い――守り石がこのようなところに置き去りにされていること、満足に祀られていないことへの怒りだ。
「こんなに無防備に……」
籠城を決め込むほど魅了されているわりには、石の扱いが不用意すぎやしないか。
パスティア人以外の入館は難しいとはいえ、奴もまた、何らかの伝手でホテルへの滞在を認められている口だ。同じように、この国の人間が――ネスタ社に縁のある人間が、ホテルに入り込む可能性はゼロではない。それなのに、金庫に入れるでも、隠しておくでもない、警戒心のない振る舞いだ。
ホテルの中で手を出されるとは考えてもいない――否、あるいは、投げやりにでもなっているかのような――。
「わたくしは写真を探します」
この場所にランドル先輩の宝物は見当たらない。
アリシアさんは手近なドアノブを捻り、中に消えた。バスルームか寝室だろう。
石の扱いに疑問は残るが、この場でずっと考えていても仕方がない。時間も限られている。石を確保したら、俺も写真探しに合流しなければ。
主の守り石に近付き、傷一つ付けられていないことを確認する。
ひとまずホッと息を吐き、石を持ち上げようとしたそのとき、妙なものが視界に入り、俺は手を止めた。
天板の下から、ケーブルのようなものが伸びている。電化製品の電源ケーブルではない。
捻じれた紐のような――。
「これって、まさか……」
天板の裏を覗き込み、俺は絶句した。
サファイアブルーが鎮座するその下、天板の裏に貼り付けられた筐体。
「アリシアさ――ん……!」
「お前もネスタ社の関係者か?」
「……ジングージ」
急ぎアリシアさんを呼ぶべく、振り向いた俺の目に映ったのは、ホテルスタッフの制服を着た麗しのアリシアさん――そして、その細く白い首にナイフを突きつけている男、ジングージの姿だった。
「ひょろい男と女。なんだ、ネスタ社ってのは人手不足かよ。俺を雇ってくれてもいいんだぜ」
「……アリシアさんを解放してくれ」
「お前、アリシアっていうのか。いい女だよなぁ。俺のもんになるか?」
安っぽい口調、三日月形に歪められた目。
大企業創業者兼会長のご令孫、俺の同期になっていたかもしれない男、そして、俺の同僚を苦しめた許されざる者だ。
しかし、自分勝手な愚か者とはいえ、奴はこんなにも酷薄そうな顔付きをしていただろうか。
出版社の面接を待っていた部屋で、他の受験者から一目置かれていたジングージには、お坊ちゃま然としたところはあれど、世を拗ねた感じはなかった。今の奴は、まるで世の中のすべてを憎んでいるような、どす黒く淀んだ空気を纏っているように見える。
ナイフを持つ手とは反対の指で、ジングージがアリシアさんの髪に触れた。
「なぁ、俺の女になれよ」
尖った鼻をアリシアさんの髪に埋め、わざとらしく息を吸う。アリシアさんの香りで肺が満たされたのか、ジングージは恍惚とした表情を浮かべた。
今すぐに鼻面を殴ってやりたい。
ランドル先輩を苦しめた仇のような男に触れられるのは、身の毛もよだつ思いだろう。すぐにでも奴からアリシアさんを引き離したいが、奴は刃物を手にしている。考えなしに俺が突っ込めば、アリシアさんの身を危険に晒しかねない。
俺は何もできないのか。
手をこまねいているだけの状況がもどかしい。
しかし、握りしめた手に食い込む爪の痛みを思い出させたのは、アリシアさんの凛とした一言だった。
「お断りします」
「あ?」
アリシアさんは毅然とした態度で言った。
「クジョウさま以外、お断りです」
蜂蜜色の瞳が真っすぐに俺を見つめている。心配ない、大丈夫だと告げる力強い眼差し。
首筋に刃物を当てられ、怖くないわけがないのに。
俺は頷いた。
危険な潜入であることは百も承知だ。アリシアさんも分かった上で、ここに来ている。いきなり刃物を持ち出されたのは想定外だったが、ランドル先輩を脅して石を手に入れたジングージが、穏やかな人物であるはずがない。
怯むな。これは世界の安寧と、仲間の笑顔を取り戻すための最重要ミッションなのだ。
「ちっ」
ジングージの舌打ちが響く。
「俺のもんになるんなら、見逃してやってもよかったのによ」
細い首に回した腕を乱暴に引き寄せる。ジングージはアリシアさんの身体を無理やり引き摺りながら、テーブルの奥に回った。守り石を挟んで、俺と向き合う形をとる。
「忌々しいよなぁ。そんなもんに魅入られてよォ、人生狂っちまった――だが、それでも手放す気にはなれねぇ。お前らにやるなんてまっぴらだ」
「……元々はネスタ社のものだ」
「はん。知るかよ、そんなこと」
ジングージが鼻で嗤う。
「俺が手に入れた――俺の石だ。見ろよ。こんなに澄ました別嬪ヅラしてよ――お前だって欲しくなるだろ? ヒトを狂わせる悪魔みてぇな石さ」
「……違う」
「あ?」
「ウンディーネの石が――その石が、悪魔なわけがない」
強きものには正しさを、弱きものには優しさを。底知れぬ叡智を湛えた蒼い眼差しで、すべての生命を見守る大精霊――美しくも強い俺の主。その加護を宿した守り石は、二つの世界に生きるすべてのものたちを想い、救うために齎されたものだ。
手にした人間を苦しめることなど、ウンディーネは望んでいない。
「お前――クジョウっつったか。その顔、見覚えがあるぜ」
ジングージが胡乱な目つきで俺を見据えた。




