ホテルへの潜入 その二
ラボの読み通り、脱衣所にはタオルと館内着が用意されていた。
積まれた山から、それぞれ一セットずつ受け取り、手早く着替えを済ませる。髪を乾かしている時間はない。俺は海パンの水気を絞り、館内着のポケットに放り込んだ。
あちらの世界では、濡れ鼠はすぐに乾かしてもらっていた。タオルドライの髪が鬱陶しい。サラマンダー、フレイア、そしてウンディーネ。恐れ多くも、クジョウのドライヤーになってくれた精霊たちが少し恋しい。彼らのためにも、一刻も早く守り石を奪還し、世界の釣り合いを戻さなければならない。
「よし、行こう」
俺は最後にもう一度ガシガシと頭を拭いて、使用済ボックスにタオルを放り込んだ。
脱衣所のドアを開ける。
こちらに向かってくる男女。これからプールに行く利用客だろう。俺と同じ館内着を着ている。これなら上手く紛れることができそうだ。
メノウの指示通り、廊下を右に進むと、エレベーターホールに出た。ネスタ社のシンプルな装いとは違い、いかにもリゾートホテルといった趣だ。
プールは二階、ジングージの部屋は三階だ。上昇ボタンを押してしばらく。止まったエレベーターに乗り込む。ボタンの一つ一つまで光り輝いている。螺鈿細工のようだった。
「エレベーターを降りたら――」
「大丈夫。アイツの部屋は覚えてる」
エレベーターの到着音を聞いたメノウから、次の指示が入る。だが、この後のナビゲーションは必要ない。
作戦会議で目にしたホテルの間取り図。ヴェスパの怒りを示すように、赤く囲まれた三階最北の部屋。
脇目もふらず、俺は廊下を進んだ。
「ここだ」
ランドル先輩の宝物を奪い、ウンディーネの石を盗んだ愚か者。奪還作戦の本丸、ジングージの部屋だ。
「着いた?」
メノウから通信が入る。
「よかった、間に合って――ヴェスパから伝言だ。あと数十秒で監視システムが復旧する。この通信もそれ以降は切断される」
死に物狂いのエンジニアによるリカバリーは上手くいったらしい。
だが、我が社のラボメンバーも負けてはいない。システムダウンから復旧にいたるまで、時間の読みは完璧だった。本丸に辿り着くまで、俺は一人ではなかった。
何より、パスティア本国にあらぬ疑いを持たれないよう、ヴェスパは無効化プログラムを送り込んだ後、一切手を動かしていない。パスティア側の動きを見ていただけだ。つまり、ヴェスパとメノウはプログラムの完成と同時に、稼げる時間まで正確に計算していたというわけだ。
さすがは我が社が誇る天才二人――俺の同僚である。そして、俺はそんな天才たちから、期待と信頼を寄せてもらっている。こんなに心強いことはない。
「クジョウ様、どうか、くれぐれもお気を付けて」
「クジョウ、無理はしないで。危なくなったら、即撤退でいいから。まずは自分の身を守って」
「頼んだぜ、クジョウ」
矢継ぎ早に仲間の声が聞こえてくる。返事をしようとして、俺は開きかけた口を閉じた。
連絡ツールから、ジジジ、と音が鳴っている。どうやら監視システムが復旧したらしい。プツ、と切断を知らせる音を最後に、連絡ツールはただの耳栓と化した。
ここから先の行動は、すべて見られていると考えた方がいい。
ジングージの部屋には辿り着いた。問題は、どうやって中に入るかだ。
ノックをしてみたところで、ホテルスタッフでもない館内着の男をアイツが招き入れるとは思えない。それに、もしかすると、俺の顔を覚えている可能性もある。否、むしろ、覚えられていた方が都合はいいのか――顔見知り相手なら、ドアを開けるかもしれない。
監視カメラが動いている今、長いこと客室の前に陣取っているのは危険だ。挙動不審と判断されかねない。ここはイチかバチか、可能性に賭けてみるべきか。
「お客さま、いかがされましたか」
「――っ!」
意を決して握った拳に思わず力が入る。
まさか、もうパスティア諜報部に疑いを持たれてしまったのだろうか。あるいは、プールサイドで声を掛けられたときから、目を付けられていたのかもしれない。
万事休すか。
「……え」
ぎこちなく振り返った俺の目に飛び込んできたのは、艶めくアメジストの長い髪だった。
「ア、アリ――」
「お客さま。客室のカギを忘れてしまわれたのですね」
蜂蜜色の双眸で俺を射抜いたホテルスタッフ――コーラルホテル従業員の制服を着たアリシアさんは、ポケットから取り出した鍵束を掲げ、にこりと笑った。
「ど、どうしてここに――」
「関係者の伝手で就職することができました。本日より勤務しております」
鍵束の中から目当てのカギを探しながら、アリシアさんが言う。
盗聴を警戒し、直接的な言い方は避けているが、要するにゴードン・ライトの伝手で潜り込んだということだろう。ゴードン・ライトは、世界中の有志たちの集まりだ。中には、パスティアに縁を持つ者も――否、パスティア人もいるのだろう。しかし。
それができるのなら、俺も海パン一枚で潜入する必要はなかったのでは。
「お客さま、何か至らぬところがございましたか? ホテルスタッフは、この国全土から集められ、訓練を積んだ者たちです。必ずお客さまのご要望に沿うサービスを提供いたします。遠慮なくお申し付けください」
「……いえ、特になにも。お気遣いありがとうございます」
ホテルスタッフは、この国全土から集められた者たち――つまり、パスティア人ではないのか。
コーラルホテルの実態は、パスティアによる反乱分子の囲い罠――実権はパスティアが握っている。しかし、現場の運営はこの国の人間に任せているようだ。
利用客は本国から監視されていることなど知る由もない。彼らはただ、隣国にある保養施設に癒されに来ているだけだ。監視対象者に警戒心を抱かせないためにも、表向きのスタッフは、この国の人間でまとめた方が都合がよいのだろう。だから、アリシアさんもスタッフとして潜り込むことができた。
「お待たせいたしました。こちらのカギで、ただいまお開けします」
廊下に背を向け、客室ドアの前でアリシアさんと横並びになる。
隣に立つアリシアさんの甘い香りが鼻腔を擽り、俺の鼓動は速くなった。これは今から、やむを得ず無断侵入に手を染めることへの緊張によるものと言い張りたい。
「……とはいえ、わたくしを捻じ込むのが精一杯だったようです」
俺の雑念など知りもしないアリシアさんが、鍵束の揺れる音を被せながら、小さな声で言った。
諜報で有名なパスティアのことだ。現地スタッフを雇うにしろ、身辺調査はしっかり行っているはずだ。いくらゴードン・ライトと雖も、パスティアが納得する経歴を拵えるのは骨が折れただろう。
話題のネスタ社との関わりや、研究職に就いていることなど、アリシアさんの本当の経歴には、パスティアを警戒させる要素がてんこ盛りだ。それらを伏せ、探られても痛くない程度に限りなく白い人物像を作り上げる。昨日の今日で、そんなものが一人分用意できただけでも感嘆ものだ。俺の分まで手が回らなくて当然である。
加えてアリシアさんは、見目がいい。書類審査さえ通れば――否、書類さえ送ってしまえば、こっちのものだ。しかし俺は、書類審査、面接ともに落とされる可能性が大だ。
つまり、ゴードン・ライトが用意した一枠はアリシアさんにこそ相応しく、クジョウは海パンがお似合いということである。
そういえば、異世界渡航も禁止されているのに、キリハラさんがよくアリシアさんの潜入を許可したものだ。何だかんだ言いながら、ラボのみんなはアリシアさんの実力を信じているのだろう。不安など抱いていないに違いない。
――最も不安な人間が先に……。
――ポンコツがいないことを願ってるよ。
そういえば、キリハラさんとメノウのあれは何だったのだろう。
「開けますね」
鍵穴にカギを差し込んだアリシアさんが俺を見る。
いよいよだ。このドアの向こうに奴がいる。
「お願いします」
アリシアさんと頷き合う。
添えられた細い指とともに、カギが回った。




