ホテルへの潜入 その一
「クジョウ、聞こえるか?」
「うん。バッチリ」
「こっちにも聞こえてる。問題なさそうだな」
片耳に装着した連絡ツールから、ヴェスパの声が聞こえてくる。
コーラルホテルへの潜入を前に、メノウが用意してくれたものだ。小型ながら集音機能も備えているようで、これ一つで双方向の連絡が可能だ。訳あってマイクを装着できない俺のために、イヤホンを即席で作り変えてくれたらしい。
「防水仕様だから、安心していいぜ。システムが復旧したら使えねぇけど」
「……どのくらい持つかな」
「パスティアご自慢の監視システムだからな。死に物狂いで復旧しようとするだろ。ジングージの部屋まで持てばラッキーだな」
イヤホン越しにヴェスパの溜息が聞こえた。
初めてのラボミーティングは、戦時中の他国が支配するホテルへの潜入計画という、少々いかつい内容のものだった。
ヴェスパの研究室で練った作戦通り、実際にホテルへ潜入し、石と写真の奪還を行うのは俺だ。俺が潜入する少し前に、ヴェスパがコーラルホテルの通信サーバーにウイルスを――監視システムの無効化プログラムを送り込む。これで少なくとも、潜入の瞬間をパスティア諜報部に見られることはない。ホテルは通常通り営業するだろうから、あとは利用客に紛れて、ジングージの部屋を目指す計画だ。
ただし、諜報のパスティアが、無効化された監視システムをそのままにしておくわけがない。システムが復旧したら、連絡ツールを使うのは危険だ。十中八九、俺とラボメンバーとの会話は盗聴されてしまうからだ。
ラボと連絡が取れるのは、潜入からシステムの復旧まで。それ以降は、俺一人で立ち回らなければならない。ヴェスパの言う通り、それまでにはジングージの元へ辿り着いておきたいところだ。
「クジョウの準備ができたら教えて。こっちはいつでもいいから」
「うん、分かった」
声の相手がメノウに代わった。ヴェスパは、通信サーバーへのアタックに備えているのだろう。
「――ふう」
俺は海パン一枚の姿で、銭湯の大きな湯船を前に、深呼吸をした。
俺がマイクを装着できない訳――それは、上半身裸だからだ。
コーラルホテルの間取り図を見ながら、潜入方法を検討していたとき、俺は思い付いた。
潜入者は俺だ。それなら、出入口を使わなくても、中に入る方法がある。
――私たち水の眷属は水脈を辿ることができます。地形にない道筋――人間の目には見えない場所を進むことができる。水脈は凡そすべての場所に通じていますから――。
コーラルホテルには、屋内プールがある。水の眷属の俺ならば、水脈を通って潜入できる。
かくして俺は、物騒な事情を抱えるホテルへの潜入に、随分と緊張感のない格好で臨むことになったのだった。
しかし、目的を忘れてはいない。世界の安寧と、ランドル先輩の笑顔を取り戻すための重要任務だ。
連絡ツールに指を触れる。大丈夫だ。俺には仲間がついている。
「――よし。それじゃ、行ってくるよ」
「クジョウ、くれぐれも気を付けて」
「うん」
もう一度深く息を吸う。
飛び込み前のように両手を重ね、息を吐きながら、俺は頭から湯船にダイブした。
ちなみにこの銭湯は、ネスタ社によって本日貸し切りとなっている。よいこが真似しないように――というか、浴槽から人が消えたら、じいさんたちが天寿を全うしかねないため、キリハラさんが手を回してくれた。
「――ク、クジョウ様!」
「キリハラ」
「あぁ、メノウ――クジョウ様はもう出発されたのか」
「うん。今ちょうど」
「せめて出発前にお耳に入れておきたかった……」
「どうしたの」
「……最も不安な人間が先に潜入した」
湯船の底がない。
俺の両手は何にぶつかることもなく、身体は滑らかに水中に飛び出した。
既に水脈の中である。やはりここは、人智を越えた通り道のようだ。防水仕様はバッチリのはずだが、水脈に入ると同時に、連絡ツールからの音が聞こえなくなった。
「メノウ、聞こえる?」
応答はない。こちらの声も届いていないようだ。水脈に入る前、最後にキリハラさんの声が聞こえたが、よく聞き取れなかった。
「なにも問題が起きてなければいいんだけど……」
仄暗く半透明な水の中をただひたすら進み続ける。前方に光が広がっているのが見えた。
ここを抜ければもう、コーラルホテルの中だ。
◇
「……ぷはっ」
可能な限り勢いを殺し、俺はゆっくりと水面から顔を出した。
水中でも息ができるようになったおかげで、酸素を求めて急ぐ必要がないのは助かった。保養施設のプールで全力の息継ぎをしていたら、さすがに目立っていただろう。
不自然に映らないよう、なるべく頭を動かさずに状況を観察する。だだっ広い屋内プールには、十人前後の先客がいた。皆、パスティア人の利用客だろう。思い思いに水と戯れている。プールサイドには、揃いのユニフォームを着た男女が二名。利用客の安全を見守るホテルスタッフのようだ。
突然現れた俺に、気付いた様子の者はいない。
ひとまず、潜入は成功したようだ。
俺は、トントンと連絡ツールを叩いた。潜入成功の合図だ。
ジジジ、と通信再開を知らせる音の後、ラボの声が届いた。
「――潜入成功だ」
「あぁ、よかった。さすがクジョウ様だ」
「メノウ、こっちの状況も伝えてやってくれ」
「うん。クジョウ、聞こえる?」
トントンと、再度連絡ツールを叩く。了解の合図だ。
監視システムはダウンしているとはいえ、生身の人間の目がある。一人で会話をしていたら、いかにも怪しい。人目がある場所では、俺は口を開かない予定だ。
「こっちも監視システムの無効化に成功した。でも予想通り、もうパスティアのエンジニアたちが動いてる。復旧までは時間の問題だ。通信できるうちに急いだ方がいい。とりあえず、脱衣所に向かって。館内着が用意されてるはず」
トントン。了解の合図を送り、俺はプールを出た。
プールサイドから中に通じるドアは三つ。一つは引き戸、二つは開き戸だ。
開き戸のうち一つは、木の質感を生かした造り――中から出てきた利用客が、シャワーを浴びに行くのが見えた。おそらく、サウナ施設だろう。もう一つの開き戸は、金属製のようだ。利用客の出入りはない。プールの機械室だろうか。
となれば、脱衣所に通じるドアは残りの一つ。プールは久方ぶりだが、銭湯なら親しみがある。俺の常識では、銭湯の脱衣所から浴室に至る扉は引き戸だ。
目指すドアは、プールを挟んで反対方向にある。先に進行方向を見極めてから、プールを出るべきだったか。プールサイドをぐるりと回ることになってしまった。
だが、ここで顔に出してはいけない。
何食わぬ顔で手足をブラブラ、あたかも水を落とす距離を稼いでいるかのように装いつつ、通りすがりに、ちらりとホテルスタッフを見た。
これが間違いだった。バッチリ目が合ってしまった。
「お客様」
「はい?」
ホテルスタッフの女性が近付いてくる。
目が合うだけなら、別に珍しいことではないはずだ。呼んでもいないのに、わざわざ近付いてくるとは、俺の振る舞いが不自然に映ったのだろうか。
心臓が早鐘を打つ。
もし怪しまれて、警備員室にでも連れて行かれたら、監視システムをダウンさせたことと結び付けられてしまうかもしれない。そうなれば、俺はパスティア軍に拘束され、パスティア本国送りになる。
だが、ここならまだ引き返せる。俺は静かな水面に目を遣った。連行されそうになったら、プールに飛び込んで再び水脈に入るしかない。
プールとホテルスタッフ。注意深く交互に視線を向けつつ、俺は近付いてくる彼女を待った。
「な、なんでしょうか」
両手で腕を擦る。
ちょっと寒くなってきたんで、早く戻りたいんですけどアピールだ。
連行か、飛び込みか。
胃に穴が開きそうな俺に向かって、ホテルスタッフは言った。
「素敵なおへそですね」
「……はい?」
なんだって――?
聞き間違いでなければ、今、生まれてこの方一度も脚光を浴びたことのない、俺のへそが褒められたのだろうか。なぜだ。
俺は思わず、自分のへそに目を遣った。特に何の変哲もない、ただのおへそだ。パスティアでは、へそへの賛辞が一般的なのか。
「あ、ありがとうございます……?」
何が正解なのかは分からないが、とりあえず礼を言っておく。
ホテルスタッフは一拍置いて、にこりと綺麗な営業スマイルを浮かべた。
「――ごゆっくり、お楽しみください」
一礼とともに、スムーズに元の立ち位置に帰っていく。
どこかに連絡した様子も、何かの合図を送った様子もない。少なくとも、このやりとりで俺が連行される心配はなさそうだ。
「なんだったんだ……」
だが、今ので一つ分かったことがある。やはり、このホテルに仕掛けられた監視システムにホテルスタッフは関わっていないようだ。仮にスタッフも監視を了解しているとすれば、当然、システムがダウンしたことも伝わっているはず。
その状況で、もし、さきほどのスタッフが俺に不審な点を見つけたのだとしたら、システムが使えない今、もっと疑ってかかるはずだ。へそ問答一つで見切りをつけたりはしないだろう。
俺が目の届かないところへ行けば、今の彼らに俺を監視する術はない。ともすれば、システムをダウンさせた犯人かもしれない男を野放しにはしないはずだ。
「クジョウ、問題ない?」
連行は回避したものの、今のやりとりでちょっと疲れた。本丸に攻め入る前に、これ以上余計な心労はご免だ。
心なしか大きくなった歩幅で、そそくさと脱衣場に入った俺は、誰もいないことを確認して言った。
「大丈夫。ちょっとパスティアの洗礼を受けただけ……でも、思ったとおり、ホテルスタッフはそこまで警戒しなくてよさそうだ」
「……うん。ポンコツがいないことを願ってるよ」
「ん?」
どういう意味だ。
尋ねる前に、メノウは空気を変えるように咳払いをした。
「着替えたら、そこを右に出て。しばらく行くとエレベーターホールに出るから、それで三階に行って」
「分かった」
三階最北の客室。本丸はそこだ。




