アリシアとランドル
「お邪魔してもいいですか?」
「クジョウさま……」
ラボを出たアリシアさんは、ヴェスパの予想どおり、応接間にいた。
ノックをしても反応がなかったため、小さく開けた扉から声を掛けると、アリシアさんは静かに頷いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
差し出された座布団の上に腰を下ろす。件のちゃぶ台である。ネスタ社に呼ばれ、専属契約を結んだあの日、俺はこのちゃぶ台を前にして、ネスタ社の秘密を聞いたのだった。
ただし、今日はちゃぶ台を挟んではいない。アリシアさんは自身の隣に座布団を敷いた。この空気の中、わざわざ対面に敷き直すわけにもいかず、俺はアリシアさんの隣に着席した。
「ランドル先輩にはヴェスパがついています」
「そうですか……わたくしは駄目な大人ですね」
ふう、と小さく溜息を漏らす。
「そんなことありませんよ。それを言うなら、ぼくの方がよっぽどダメダメです」
ネスタ社に来るまで、プライドのないその日暮らしをしていた。あまり誇れない仕事も――生活のために、下世話な雑誌に投稿していたこともある。
それに比べれば、愛情とリスペクトをもって部署を背負うアリシアさんは、責任感のある立派な大人だ。
「……ランドルには両親がおりません」
「アリシアさんが保護者代わりと聞きました」
「はい――」
アリシアさんが目を伏せる。
「ランドルのお母さまはわたくしの先輩で、姉のような存在でした」
過去に思いを馳せるアリシアさんは、どこか寂しげで優しい笑みを浮かべていた。
◇
「コーネリア――ランドルのお母さまは、アカデミーでも飛びぬけて優秀な学生でした。強く賢く、愛嬌もあって――彼女からは多くのことを学びました。キリハラの困らせ方もコーネリアから教わったのです」
アリシアさんがくすりと笑う。
キリハラさんの苦労人人生は、ネスタ社就職前から既に始まっていたようだ。
「ところがアカデミー修了後、彼女は誰にも告げず行方をくらまして……音沙汰がなくなって一年ほどが経過した頃、突然ふらりと帰ってきたのです。まだ首の座っていないランドルを抱いて」
「……父親は」
アリシアさんは首を横に振った。
「分かりません。誰の子なのか、コーネリアは最後まで口にしませんでした。ランドルを抱いて帰ってきたあの日から、父親を頼る気は一切なかったように思います。元々優秀な方でしたが、その頃は少し心配になるほど研究に打ち込んで――ランドルに不自由な思いはさせまいとしていたのでしょうね」
「……一人で育てようとしていたんですね」
「ええ。ですが、わたくしやキリハラがランドルの遊び相手になることもありました。コーネリアは、ランドルの世界が母子で完結することを心配していたようで、よくランドルを連れて、アカデミーのラボに顔を出していましたから――そしてその頃、ネスタ社立ち上げの話が出たのです」
「え、じゃあ、コーネリアさんも?」
ランドル先輩のお母様も、ネスタ社の社員だったのだろうか。
しかし、アリシアさんは再び首を横に振った。
「元々は彼女が研究調査部の部長を任されるはずでした。ところが、ネスタ社創業前に病気が見つかり、そのまま……」
アリシアさんが目を伏せる。
コーネリアさんは亡くなった。まだ小さな子どもを残して逝くのは、さぞ心残りだったろう。
「わたくしはコーネリアから、研究調査部とランドルを託されました。保護者の役割を十分に果たせているとは思いませんが、ラボにいれば、わたくしの至らないところも、ヴェスパやメノウ、そしてキリハラが補ってくれます。ランドルにとっても良い環境だと信じていたのですが……そうではなかったようですね。生前、コーネリアとランドルを撮った写真はほとんどないのです。あの写真は、彼女がランドルを抱いて写っている唯一のものでした。わたくしがランドルをラボに引き入れなければ、ジングージにお母さまの写真を取られることもなかったのに――」
蜂蜜色の双眸から涙が溢れる。
強く握られた細い指は膝の上で白くなっていた。
俺は思わず、アリシアさんの華奢な両手に自分の手を重ねた。
「それは違います」
懸命にランドル先輩の保護者代わりを務めてきたアリシアさんが、この件で自分を責めることなど何もない。
「ジングージが盗みを働いたこと――卑怯な手でランドル先輩に協力させたことは、アリシアさんのせいではありません」
すべて、奴の未熟さ――心の弱さが招いたことだ。ネスタ社にいる誰のせいでもない。
「初めてランドル先輩に会ったときは、ぼくも驚きましたが――でも、『はっちん』について語り、異世界渡航に親指を立てた姿は、とても生き生きしていました。ヴェスパとメノウがランドル先輩を見守っているのも知っています。子どもは安心できないと、昼寝なんてしないでしょう。ラボはランドル先輩にとって大切な居場所のはずです」
「クジョウさま……でも、わたくしは保護者失格です。ランドルが困っているときに、頼れる存在でなければならないのに……」
ジングージに写真を取られた際、ランドル先輩が相談したのはヴェスパだった。
部長の職務で研究室を外すことも多いアリシアさんは、おそらくその場にいなかったのだろうが、保護者として、自分に相談してほしかったのだろう。
「ランドル先輩はきっと、アリシアさんを心配させたくなかったんだと思います」
アリシアさんと目が合う。
その顔は不安げで、そして納得のいかない表情をしていた。
保護者なのだから、心配するのは当たり前だと思っているのだろう。
「ぼくは子どもの頃、ちょっとしたトラブルに巻き込まれて、軽率な真似をしてしまったことがあるんです」
今思えば、最初から両親に相談すればよかった。けれど、その頃はなぜか、どこにもSOSを出してはいけないような気がして――周りの大人に頼ることが、とてもハードルの高いことのように思えたのだ。
そして、一人で抱え込んだ挙句、道を踏み外しそうになってしまった。運よくそこで留まることはできたものの、トラブルに巻き込まれたことは、親に伝えなければならない。
俺が話をしたのは、父親だった。
「父は怒るだろうと思ったんです。怒って、なにやってるんだ馬鹿野郎と殴られるかもしれない。それは怖かったけど、ぼくは父に言うことにしました」
「……なぜですか」
「母は心配するからです。母はきっと怒らない。ぼくのことを心配して、そして自分を責めるでしょう。ぼくがSOSを出せなかったことを」
アリシアさんはハッと目を見開いた。
「母を心配させたくない。傷付けたくなかったんです。どのみち母にも伝わるのだから、結果は変わらないんですけど――子どもの考えることってそんなものです。ランドル先輩も同じだったんじゃないでしょうか。アリシアさんに心配をかけたくなかった」
「……お父さまはお怒りでしたか」
「いいえ」
鉄拳を覚悟して話をした日、父親は一言、「そうか」と言っただけだった。そして妹には内緒だと言って、二段アイスクリームを買ってくれた。切れた唇にしみたアイスの味は覚えていない。
だが、無性にホッとして、ボロボロ泣いたのを覚えている。
「軒先に近所のじいちゃんたちも出てきてくれて――ぼくはこれだけの大人に見守られていたんだなって思いました」
「……ランドルは聡明な子です。ですが、まだ幼い」
「はい」
「……心配なんて、いくらでもかけてくれればよいのです」
「そうですね」
「でも……」
涙を拭ったアリシアさんが、にこりと笑った。
「わたくしだけが保護者ではありません。それでよいのですね」
「はい」
ヴェスパやメノウ、キリハラさん、そして俺も、ランドル先輩の成長を見守っている一人だ。
アリシアさんがランドル先輩をラボに引き入れたことで、ランドル先輩にはたくさんの保護者ができた。その環境はきっと間違っていない。
間違っているのは――。
「……ジングージだけは許せません」
幼いランドル先輩の宝物を奪い、心優しいヴェスパを巻き込み、アリシアさんを泣かせた。
この感情はもはや、大企業創業者兼会長のご令孫に対する嫉妬ではない。俺の大切な仲間を傷付けた怒りだ。
そして、水の大精霊の眷属としても、守り石が正しく祀られていない現状を黙って見ているわけにはいかない。
「ウンディーネの守り石は必ず取り返しましょう」
俺は力を込めて言った。アリシアさんの目にも強い光が灯る。
「はい。それから――」
取り返すのは石だけではない。
「ランドル先輩の宝物も、きっと」




