浮かない顔
彼方から此方へ。
見慣れた「いせかい暖簾」のある部屋に帰還した俺は、急ぎキリハラさんのドアをノックすべく、ラボの共有スペースに向かった。
「クジョウ様」
「まぁ。おかえりなさいませ、クジョウさま」
「あ――キリハラさん、アリシアさん」
手のひらの銀貨の感触を確かめながら半透明の扉を抜けると、ちょうど、廊下に通じるスライドドアから、キリハラさんとアリシアさんが歩いてくるところだった。
お疲れ様でしたとキリハラさんが頭を下げる。
その横を歩いていたはずの美女は一瞬で俺の隣に移動し、「お怪我などありませんか」と艶めく声色で俺の腕をとった。
「だ、だだ、大丈夫です。ピピピピンピンしています」
「お会いできてとても嬉しいです。わたくしのいないところで、キリハラばかりクジョウさまと話をしたと聞いて、わたくし落ち込んでいたのですよ」
「うそつけ」
数秒前まで丁寧なお辞儀を披露していたとは思えない態度で、キリハラさんがアリシアさんを俺から強引に引っ剥がした。
「嘘ではありません! キリハラばかりずるいです」
「落ち込んだ人間は攻撃性を剥き出しにはしないんだ。おまえのはブチギレだ」
キリハラさんが顰め面で鼻の頭を擦った。
どうやら先日、部長陣との会議前にゼスタリアさんとキリハラさんに出くわしたことが、アリシアさんにバレてしまったようだ。そしておそらく、キリハラさんはまた、「はっちん」をけしかけられたのだろう。
「……キリハラ」
「なんだ」
「少し鼻が痛むからといって、クジョウさまの前で恥をかかせるなんて酷いです」
「なにをいまさら……おまえの過激な性格などクジョウ様は既にご存知――」
「わたくしの無知を晒して――」
「え?」
「ぶちぎれとはどのような字を書くのですか」
「そこ!?」
アリシアさんは恥ずかしそうに顔を伏せている。
俺の前で恥をかいたと思っているようだが、その心配は無用だ。宇宙人を知らない部長、ノックを知らない同僚――クジョウは耐性がついている。
気を取り直して。
「お二人に会えてちょうどよかった。実は報告したいことがあって――」
手のひらに乗せた銀貨を差し出す。
瞬時に二人とも真顔になった。
「クジョウ様、その銀貨は――」
「ゴブリンの銀貨です。これと同じものをゼスタリアさんもお持ちでしたよね」
「まさか……それでは……」
キリハラさんの顔が強張る。アリシアさんも険しい表情になった。
「……あの日、社長が所持していた銀貨は、ゴードン・ライトの一人から我が社に届けられたもので、どこで発行されたか判然としないということでした。そこで、ちょうどあの後の会議で、各部署に調査依頼が出されたのです。しかし、どこも有力な情報は掴めておらず――もしやとは思いつつ、クジョウ様にもお知らせしておくべきかと……」
「本日まさに、そのようなお話をしていたところでした」
ネスタ社の各部署が総力を挙げて探しても、同じものは見つからなかった。これが個人の趣味で作られた代物ではないとすると、あちらの世界のものかもしれない。向こうで調査できるのは、今のところ俺だけだ。だから、俺にも知らせておくつもりだったのだろう。
その予想は的中した。銀貨はこちらの世界のものではなかったのだ。
「……念のため――あくまでも念のため伺いますが、クジョウ様がお持ち帰りになった銀貨は、そちらの一枚だけですね」
「はい。社長が持っていたものは、僕が持ち帰ったものではありません」
「……ということは」
「『いせかい暖簾』以外にも、あちらの世界に通じる歪みが生じているようです。社長が持っていた銀貨は、そこからこちらの世界に渡ったのだと思います」
二つの世界に働く引力が、向こうでノームを閉じ込めた崩落を引き起こした。そして、こちらの世界では、あちらに通じる歪みを生じさせてしまった。
「ウンディーネの話では、僕があちらを行き来したことで、遠ざかっていた世界のバランスが変わってきたのだろうと……ただ、それは防ぐことができるようなんです」
「え……」
「そうなのですか?」
「ははははい」
クジョウは盛大にどもった。
蜂蜜色の目を丸くしたアリシアさんが、至近距離で俺の顔を覗き込んでいる。
不意打ち、だめ、ぜったい。
「そもそもそれを見越して、精霊たちは守り石を授けてくれていたようで――」
「守り石を……」
流れるような動作でアリシアさんの首根っこを掴みながら、キリハラさんが呟く。
「はい。守り石には世界のバランスを保つ力があるそうなんです。こちらの世界に石を集めておくことで、崩れたバランスを元に戻す――つまり、歪みを消すことができると」
「集めておく――ですか」
なぜかアリシアさんは表情を曇らせた。
精霊の加護により、予測不能な歪みの出現を阻止することができる。ネスタ社にとっては良い話のはずなのに、なぜだろう。
猫のように引き戻されたことが不満なのだろうか――いまさら、秘書によるぞんざいな扱いを気にするとは思えないけれど。
「クジョウさまが持ち帰られた石はおふたつでしたね」
風の精霊シルフィードと、焔の精霊サラマンダーの守り石。どちらもキリハラさんの見事な仕事により、警備部の奥で丁重に保管されている。
俺はアリシアさんに頷きを返した。
「はい。そしてこれが、土の精霊ノームの守り石です」
ポケットから檸檬色に輝く石を取り出す。
まさしく精霊の作り給うたもの――その美しさにアリシアさんとキリハラさんは息を呑んだが、二人の顔色は優れない。
「ウンディーネはランドル先輩に石を預けたと聞きました。これで四大精霊すべての石が揃ったので、一安心ですね」
ゴブリンの銀貨だけならまだしも、妖精がこちらに出現した暁には、世界は大パニックに陥るだろう。異世界の存在は、限られた人間のみが把握している超機密情報だ。もちろん、いつかは公にする日が来るのだろうが、今はまだ、関わり方を模索している――否、模索するための材料を集めている段階だ。
情報の独占は褒められたものではないが、だからといって、安易にすべてを開示するのも危険だ。質、量ともに足りない情報はかえって混乱を生んでしまう。人々に異世界の存在を明らかにするには、集めた材料を適切に下ごしらえする必要がある。
そして、守り石の加護があれば、その時間を確保することができる。
二つ世界に働く引力を防ぐためには、四大精霊すべての守り石が必要だった。四つ揃い終える前に衝撃は起きてしまったが、これで歪みを封じ込められる。
「この石と一緒に、ウンディーネの守り石も保管してもらえますか? 四つの石が揃うことで、加護が発動するそうなんです」
保管室には既に二つの石が入っている。さらに二つ追加されると、少し窮屈かもしれないが、加護の発動条件をクリアするためには仕方ない。
精霊四体が同じ場所にいれば確実に揉めるだろうが、石はケンカしないだろう。
これで一件落着だ。
「……ど、どうかしましたか?」
アリシアさんとキリハラさんが、見たこともないほど厳しい顔をしている。
焔の守り石を持ち帰ったときは、キリハラさんが快く保管を引き受けてくれたのに。一体どうしたのだろうか。
「キリハラ。今すぐ社長に連絡を」
「……承知した」
「クジョウさま」
「は、はい」
「お話の続きは場所を変えていたしましょう」
俺の手を取るアリシアさんの笑顔には、緊張が滲んでいるように見えた。




