できるシャイモード
「――ふう」
安心したら、どっと疲れた。
ランドル先輩には会えなかったけれど、ヴェスパとメノウがいてよかった。キリハラさんが推奨していた「クジョウ様呼び」は呆気なく崩れてしまったが。
二人に会えなければ、俺は「いせかい暖簾」の前でマダム・タッソーが現れるのを待ち続けていたことだろう。そして、それが杞憂だと知った暁には、さらなる疲労感に襲われていたに違いない。
今日はさっさと帰って休もう。報告書はまた明日だ。
◇
「あれ? ゼス――社長」
ジジ臭く腰を叩きながらラボのスライドドアを出ると、こちらに向かって歩いてくる社長――ゼスタリアさんに出くわした。俯きがちで足取りは重そうだ。
「……あ、く、クジョウ様。こんにちは」
「お疲れ様です。なんだかお久しぶりですね」
ゼスタリアさんに会うのは、実は二度目――入社初日以来だ。社内での俺の行動範囲はラボへの動線くらいだから、社長と会う機会はほとんどない。人見知りが復活している可能性もあったが、挨拶を返してくれたところを見ると大丈夫そうだ。初日のホットチョコレート効果は絶大だった。
「そうですね。あんまりこっちには来ないから……報告書には目を通しています。妖精とも関係を築いておられて――ご活躍ですね」
「いやいや、まだまだ右も左もです」
「それに比べてボクは……」
はぁ、とゼスタリアさんはため息を吐いた。
なんだか様子がおかしい。言葉遣いも変だ。できる社長とスーパーシャイモードが混在している。社内で再びシャイモードが発動したということは、この後誰か、初対面の人物と約束でもあるのだろうか。
「社長はどうしてこちらに?」
ラボの先にはエレベーターと階段室しかない。ラボに用事がある様子ではないから、警備部に向かっているか、エレベーターに乗るのだろうか。
「……ボクは」
チン。
ゼスタリアさんが小さく口を開いたとき、エレベーターから小気味良い到着音が鳴った。
「見つけましたよ!」
「ひぃっ」
廊下の向こうから、鬼の形相のキリハラさんが大股で近付いてくる。なんだか今日は修羅によく出くわす日だ。ゼスタリアさんは小動物のように縮こまり、手に持っていたファイルを床に落とした。
「――ん?」
石化しているゼスタリアさんの代わりに落ちたファイルを拾う。ファイルの下に小さな銀貨が落ちていた。随分古い物のように見える。見掛けないデザインだが、ゼスタリアさんの出身圏のものだろうか。
半世紀ほど前に複数の小国が統一されて誕生したこの国では、亡国の硬貨を御守りにしている人も多い。ゼスタリアさんもそうなのかもしれない。
「まったく――珍しくアリシアが時間通りに出席したと思ったら今度はあなたですか! いちいち探し出す私の身にもなってください」
「ち、ちょっと遠回りしてただけじゃない……」
「それがどれだけ大変なことか分かっていますか。この広い社内を探し回るのは一苦労なんです」
「……だったら防犯カメラでも――」
「えぇ。まさにそれを見るためにここに来たんです。ヴェスパに映像を出してもらいに――警備部に頼めば大事になりますからね。そうしたらあなたを見つけたんです」
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「――クジョウ様!?」
お説教の隙を突いて落とし物をゼスタリアさんに手渡すと、目を剥いたキリハラさんがこちらを見た。
どうやら今まで俺は視界に入っていなかったらしい。キリハラさんには珍しく、よっぽど頭に血がのぼっていたようだ。
「こんにちは、キリハラさん」
「お――お帰りになっていたのですね。お疲れ様でした。今回の渡航もご無事で何よりです。ところで、なぜ社長と――」
「ドアを出たらちょうど社長がいて――」
キリハラさんの顔が青褪める。
「……渡航後でお疲れのクジョウ様にご迷惑をおかけするなんて……」
「あ、いや、声を掛けたのは、ぼくの方で――」
「まったく、あなたという人は――!」
「ふぎゃあっ」
むんず。
キリハラさんは小動物の首根っこを掴むと、見事な角度で俺に向かって頭を下げた。
アリシアさんといいゼスタリアさんといい、キリハラさんが秘書業務を任される上司は、首根っこを押さえられるのが日常のようだ。その証拠に、小動物はジタバタしているが、キリハラさんはビクともしない。日々の秘書業務で身につくはずのない筋力が備わってしまっていた。
「クジョウ様。お疲れのところ、誠に申し訳ありませんでした」
「いやいや、頭を上げてください。謝ってもらうことはなにもありませんから」
「恐れ入ります」
キリハラさんが姿勢を正した。ただし、小動物は捕まったままだ。
「これから部長陣を集めた会議なのですが――ご存じの通り社長は人見知りのため、こうして逃げ回っていたのです」
「ち、ちゃんと行くつもりだったよ。ちょっと遠回りしてただけだってば……だって一番前に座るから、みんなボクのこと見てるし……」
「社長が下座に着くわけにはいかないでしょう」
「う……わ、分かってるよ。だから心の準備をしていただけで……」
はぁ。
しどろもどろのゼスタリアさんを一瞥し、キリハラさんは溜息を吐いた。首根っこを掴んでいた手を離し、小動物を解放する。
「次からは中庭を散歩してください。それなら探す手間が省けます」
「え――う、うん。そうする……」
社内の人間相手といえども、スーパーシャイなゼスタリアさんにとって、人前に立つのは勇気がいることだろう。キリハラさんもそれは分かっているから、心の準備をすることを咎めてはいない。ただ闇雲に探し回るのは骨が折れるから、せめて居場所を教えておいてほしいのだろう。
キリハラさんの気持ちは伝わったようで、ゼスタリアさんは憑き物が落ちたように落ち着きを取り戻し、背筋を伸ばした。できる社長モードである。
「キリハラ、お迎えありがとう。行こうか」
「……はい」
苦労人はやれやれと肩を竦めた。
「クジョウ様、お顔を見れてよかったです。たまにはお話を聞かせてくださいね。社長室にはホットチョコレートを常備していますから」
「はい。ぜひ」
作るのは多分キリハラさんなのだろうが、この銀フレームのシャープな笑顔を前にしては、ツッコミの出る幕はない。相変わらず目を擦りたくなるほどの別人振りだ。
「それでは、私どもはそろそろ――クジョウ様、ここでお会いしたことは、アリシアにはどうかご内密にお願いいたします」
「え。は、はい」
「どうして?」
「遅れてきた上にクジョウ様にお会いしたと知れれば、ずるいと騒ぎ立てるに違いありません」
「あぁ――そうね」
「また『はっちん』を仕向けられるのはごめんです」
キリハラさんの鼻がピクリと動いた。執拗に刺された毛穴の痛みを思い出したのだろう。
それにしても、遅れたのはゼスタリアさんの心の準備のためなのに、アリシアさんの矛先はキリハラさんに向かうようだ。そしてもはや、キリハラさんもそのことに疑問を抱いていない。普段の関係性がよく理解できてしまう。やはり、ネスタ社イチの苦労人である。
「それでは失礼いたします。クジョウ様、お気を付けてお帰りください」
「はい。ありがとうございます」
伏し目がちの小動物と、鬼はどこへやら。胸を張った社長とその一歩後ろを行く紳士の秘書は、颯爽とした足取りでエレベーターに乗り込んでいった。
「……帰ろう」
そして俺は二人の背中を見送り、今度こそ真っ直ぐに帰路に着いたのだった。




