メノウ
「…………なんのよう?」
一瞬の静寂の後、極めてゆっくりと扉が開いた。
金髪跳ね返り娘の取り立てを食らった不運な研究者は、実に不本意そうに不機嫌な顔を覗かせた。
年の頃は俺の少し下くらいだろうか。伸ばしっぱなしのように見える紫の髪は、ヴェスパよりも長い。アリシアさんのアメジストよりもずっと暗めの色合いが、低血圧な印象を与えている。
そして、ヴェスパの取り立てキックがよほど気に入らなかったのか、あるいは絶望的なほど俺を生理的に受け付けないのか、俺はものすごくメンチを切られていた。どう見ても積極的なコミュニケーションは望まれていない様子だ。だが、ヴェスパには関係ないようだった。
「クジョウだ。初めましてだろ」
「ク、クジョウです。よろしくお願いします」
「……メノウ。敬語はいらない。よろしく」
「あ、うん。よろしく……」
表情のわりに落ち着いた声色の彼――メノウは、眉間に猛烈な皺を刻んだまま、小さく会釈した。顔と言動がまるで合っていない。どうやら、よろしくしてくれるらしいが、顔だけ見れば完全に拒絶されている。
俺の戸惑いが伝わったのか、ヴェスパが苦笑いして言った。
「コイツ、目が悪いんだよ」
「え?」
「ごめん、睨んでるわけじゃないから。俺は眼鏡がないと、本当に何も見えないんだ」
「そうなんだ……」
どうやら修羅の如き形相は、俺の顔をよく見ようと努力してくれた結果らしい。しかし、疑問はある。
「ちなみに眼鏡は?」
「……今はない」
「ちょっと前に壊しちまって、新しいのが届くのを待ってんだ。コイツのは特注だから、時間がかかるんだとよ」
溜息を吐いたメノウの背中をヴェスパが励ますように下から叩いた。
「なるほど」
それで眼鏡を掛けていないのだ。この様子を見るに、眼鏡のない生活はかなり大変だろう。俺も修羅と向き合い続けるのは辛い。早く新しいものが届くことを願うばかりだ。
「クジョウは帰還装置のことでランドルに用があったらしいんだ」
「……あぁ、ねんねか」
ヴェスパが話題を変えると、メノウはデジタル時計にちらりと目を遣り、納得したように呟いた。
ねんねが共通ワードの職場もそうあるまい。
「だから代わりに教えてやろうと思ってな。メノウも手伝え」
「いいけど……何を知りたいの?」
「今すぐカエルくん」がマダム・タッソーの手に渡ったことについて、ヴェスパは問題ないと言った。マダム・タッソーがこちらの世界に来ることはない――それは、「今すぐカエルくん」を無効化できるという意味だろうか。
「あっちで帰還装置を妖精に渡したんだと」
事情を知らないメノウにヴェスパが言う。
そうなの、と言いたげにメノウがこちらを見た。ただし顔は怖い。
「実はそうなんだ。それで妖精がこっちに来てしまったら大変だから、ランドル先輩に確認しようと思って――」
「でもその心配はねぇってとこまでは伝えた」
「あぁ。たしかにそれは問題ないね」
ヴェスパの言葉にメノウは頷いた。
「今すぐカエルくん」は三人の合作だという。製作者三名のうち、二名が問題ないと答えているのだ。ひとまず、マダム襲来については安心してよさそうだ。
「よかった……!」
そもそも大精霊に言われるまで懸念すらせず、マダムにカエルくんを手渡したおバカには心配する資格もないのだが、後から不安になるのが粗忽な小心者の――つまりクジョウの特徴だ。俺は今さらながら噴き出した額の冷や汗を拭った。
それから少し冷静になり、二人が問題ないと言い切る理由――「今すぐカエルくん」の機構について尋ねてみることにした。
「『今すぐカエルくん』は三人で作ったんでしょ?」
「うん。中身にわりと手がかかるから、協力することにしたんだ」
「あれはオモチャみたいに見えるけど、異世界転送を可能にしたやべぇ代物だからな」
「仕組みはかなり複雑そうだよね……」
「まぁな。メノウが解読した世界の理をオレがアルゴリズム化して、ランドルが装置に実装したんだ」
「……へぇ」
クジョウはネイティブ言語で言葉の壁に直面した。
「ランドルは機械いじりが得意なんだ。オレはまぁ、プログラムやら情報やら……メノウは天才だぜ――中二病の妄想を具現化してる」
輝く瞳でヴェスパが言う。
メノウは何とも言えない表情で、俺がいるであろう方向に顔を向けた。だが、そっちは壁だ。
「信じられる? これ褒めてるつもりなんだよ」
「うん……」
どっちもどっちだと思う。
「クジョウが知りたいのは、装置を手渡した妖精がこっちに来ない根拠でしょ」
「あ、うん」
「有効なのは二つかな」
メノウの言葉にヴェスパが頷き、人差し指を立てた。
「まずトリガーな。あれは人間の生体反応で起動するんだ。あっちでオーガみたいなのに拾われでもしたらやべぇからな」
「じゃあ妖精には反応しないんだ……」
「うん。そういうこと。それともう一つ――そもそもあれは帰還装置だから」
「え?」
「往復チケットなんだよ。元々向こうにいた奴は片道切符だから使えねぇんだ。そんで、あれが記憶してるスタート地点はここだ」
メノウの言葉に首を傾げる俺に向かって、ヴェスパが補足してくれた。ここ、と足下を指差す。
「つまり、ネスタ社を出発した人間でないと仕掛けは発動しねぇ」
「そっか……」
ヴェスパの言う通り、あちらでオーガのような妖精が「今すぐカエルくん」を手に入れ、うっかり腹を撫でてしまった暁には、やべぇことに――手に余る妖精をこちらの世界に召喚してしまうことになる。混乱と被害はマダム・タッソーどころではないだろう。
だから、万が一妖精の手に渡っても、「今すぐカエルくん」は起動しない仕組みになっていたのだ。ネスタ社が誇る研究者たちは、リスク対策も抜かりない。
「――はぁ。すごいね。あっちの世界では何が起こるか分からないって、しっかり想像できてるんだ」
ランドル先輩と俺は、あちらで命の危機を経験したことがある。
しかし、渡航経験のないヴェスパとメノウは想像するしか――ん?
あちらへの渡航経験者は、俺を除いて二人だったはずだ。
一人はランドル先輩で、もう一人は――。




