ヴェスパ
興奮冷めやらぬ様子で出てきた小柄な少女は、目をまん丸にして俺を見ている。
ランドル先輩よりは年上――初等部くらいだろうか。
肩口でざっくりと切られた金髪がよく似合うボーイッシュな印象の彼女は、一人納得した様子で頷いた。
「おまえ新しい奴だな。わりぃ。てっきりキリハラだと思って、飯作らせちまった」
「いや、気に入ってもらえたみたいで――」
「すげぇうまかった! キリハラのは、いつもちょっと微妙なんだ。まぁ、文句は言わねぇけど」
作ってもらう手前なと、少女は八重歯を覗かせて笑った。キリハラさんは一体いくつの仕事を掛け持ちしているのだろうか。
「オレはヴェスパ。おまえは?」
「俺はクジョウ――です」
「クジョウか。敬語はなしだぜ。よろしくな」
「分かった。よろしく、ヴェスパ」
差し出された華奢な拳に俺のを合わせると、ヴェスパは気前よく笑った。
「そういや、クジョウはキリハラに用があんのか? その辺でゴソゴソやってただろ。それでキリハラが帰ってきたのかと思ったんだ」
「いや、探しているのはキリハラさんじゃなくて――ランドル先輩なんだ」
「ランドル? ランドルの部屋はそっちだぜ」
そっち、とヴェスパは中央の扉を挟んで左側を指差した。
「アリシアの隣だ」
「あぁ――ありがとう。実は研究室の場所が分からなくて困っていたんだ。ちょっと急ぎの用があって――ランドル先輩はいるかな」
「いるにはいるが、今は無理だぜ」
「え……」
ヴェスパはちらりと壁掛けのデジタル時計に目を遣り、首を振った。
「ねんねの時間だ」
「……そうだった――!」
そんな馬鹿な。
キリハラさんがそう言い残して活動を停止したあの時間だ。
ランドル先輩の勤務時間には一日一回、やむを得ない理由による職務専念義務免除――ねんねが含まれている。
「……起きるまで待つよ」
ねんねを邪魔することは、ランドル先輩の健やかな成長の妨げ――権利侵害である。この聖域を侵すことは何人たりとも許されない。たとえ触手の人魚の襲来が迫っていようとも。
とはいえ、なにも一日寝続けるわけではない。せいぜい二、三時間くらい気長に待とうではないか。
そういえば、帰還してからまだ腰を下ろしてもいない。せっかく給湯器を見つけたのだ。コーヒーでも淹れて、猫足くんに落ち着くとするか。
「……ランドルに何の用だ?」
トントン。立ちっぱなしの腰を労ったところで、下からヴェスパが言った。少し声色が硬くなったように聞こえたが、気のせいだろうか。
「『今すぐカエルくん』について教えてもらいたいことがあるんだ」
「カエル? 帰還装置のことか? あれがどうした」
「……実は」
どうせ報告書には書かなければならないことだ。黙っているわけにもいかない。俺は一瞬躊躇ったが、ヴェスパに事情を話すことにした。
「『今すぐカエルくん』をマダム・タッソーに――あちらの世界で妖精に渡してしまって……」
ヴェスパの表情を伺う。
大変なことを仕出かしやがってと呆れるか、慌てるか――しかし、予想に反してヴェスパはあっさりと言ったのだった。
「問題ねぇよ。心配すんな」
「……え?」
「そのマダムなんとかがこっちに来ることはない」
「ヴェスパはカエルくんの仕組み知ってるの!?」
「知ってるも何も――」
きょとんとした顔で言う。
「あれはオレたち三人の合作だぜ」
「え……三人?」
「オレとランドルとメノウだ。あぁ、メノウはその部屋な」
ヴェスパは親指で自身の右隣の部屋を指した。それから思い付いたように、今度は反時計回りにラボを見渡した。
「こっちがキリハラで、真ん中挟んでアリシア、ランドル、サザモフのおっさんだ。ま、おっさんはフィールドワークってのに行ったきり、ずっと帰ってきてねぇけどな」
「そうなんだ……」
「専門は動物学って言ってたか――隣国に行ってる。あっちは戦やってるだろ? 行くのも戻るのも一苦労だろうよ」
オレも一回しか会ったことねぇや、とヴェスパは続けた。
ヴェスパが一度しか会ったことがないのなら、俺が入社したときにはもう調査に出掛けていた可能性が高い。サザモフさんに関しては、ノック以前に挨拶できなくて当然だったようだ。
それにしても動物学が専門なら、ぜひ一度マダム・タッソーに会ってもらいたい。人魚の尾ヒレが触手に変わるなんてありなのか。いや、それでいうと人間の足になるのも一緒か――否、一緒か?
「ま、気長に待つしかねぇな。いつ帰ってくるか分かんねぇし」
「うん。そうだね」
「メノウとは顔見知りか?」
ヴェスパは右隣に顔を向けた。「今すぐカエルくん」を製作した一人というメノウさん。もちろん会ったことはない。俺は首を横に振った。
「そうか。ちょっと待て」
「え?」
言うが早いか、ヴェスパは素早く隣部屋の前に移動し、なぜか右足を振りかぶった。
そして、勢いよく扉を蹴った。
「メノウ! いるだろ! ちょっと出てこい!」
「ちょ、ちょっと――」
やりすぎでは。顔を青くする俺に、ヴェスパは平然と言った。
「ノックは無視するけど、これは出てくるんだぜ」
借金取りのやり口である。




