みそラーメン麺硬め
「……一日か」
あちらとこちらでは時間の流れが違う。
今回も数日間の空白を覚悟していたが、ラボのデジタル時計によると、出発から一日しか経っていなかった。
「ランドル先輩、いるかな」
いつマダムがやってくるか分からない。ウンディーネはああ言ったが、マダムが無力――しかも熟女――とは、とても思えない。いや、いい意味で。
俺は早足で「いせかい暖簾」のある部屋を出て、見慣れた猫足円卓の前に帰ってきた。円卓を囲むように配置された研究室。ランドル先輩の部屋は――。
「……どこ?」
そういえば知らない。研究室はアリシアさんとキリハラさんの場所しか聞いていなかった。なにせラボメンバーはノックを知らないからと、残る三人とは挨拶すら交わしていないのだ。ランドル先輩と会えたのは偶然で、場所はいつも暖簾のある部屋だった。研究室を出入りするところは見ていない。
研究室は、たった今、俺が出てきた「いせかい暖簾」のある部屋を中央として、左右に三部屋ずつ円卓を囲むように並んでいる。中央左がアリシアさんで、右がキリハラさんだ。残る部屋は左右に二つずつ。そのどれかがランドル先輩の研究室のはずだが、手当たり次第にあたってみることだろうか。
しかし、アリシアさんの言っていた「ノックを知らない」は、反応がないという意味だろうから、返事をしてくれる可能性は低そうだ。かといって、いくら緊急事態とはいえ、無断で他人のドアノブを回すのは気が引ける。
「そうだ」
キリハラさんに教えてもらおう。
コンコンコン。
「キリハラさん、クジョウです」
「…………」
返答はない。ネスタ社イチの常識人が居留守を使うとは思えないから、不在のようだ。キリハラさんの業務は多岐に渡るため、今日も駆り出されているのだろう。
しかし、キリハラさんがいないとなると――。
レディの部屋をノックするのはハードルが高いが、いたし方ない。研究調査部長――アリシアさんの部屋の前で大きく深呼吸し、俺は頭を振った。端から見れば変質者――扉越しにアリシアさんの香りを堪能しているように見えやしないか。
違う。断じて違う。ええい、誰かに勘違いされる前に勇気を出せ。
「……え」
意を決して拳を振り上げたそのとき、キリハラさんの研究室右隣の扉が動いた。
小さく開いた扉の向こうから、社員食堂でよく見るプラスチックのトレイが出てくる。俺がいることに気付いていないのか、部屋の主はちらりと顔を覗かせることもなく、トレイを自身の研究室前の床に置くと、無言で扉を閉めた。
「……あ、ちょっと――」
しまった。呆気にとられて、ただ一連の流れを見ていることしかできなかった。扉が閉まる前に声を掛ければよかった。
我に返り、すかさず扉をノックしてみるが、反応はない。さすがにランドル先輩ではなかったと思うが、なにせ一部たりとも姿を見ていないので、判断のしようがなかった。
「……ん?」
どうしたものか。
何気なく足元に目を遣り、俺は首を傾げた。空と思っていたトレイに、メモ紙らしきものが載せられている。まさか俺へのメッセージだろうか。ひょっとすると、俺がいることに気付いた上で扉を開けたのかもしれない。屈んでメモ紙を手に取る。
雑に二つ折りにされた紙を広げ、中を見た。
「……みそラーメン、かため……?」
どういう意味だ。
否、意味は分かる。文字通り、みそラーメンの麺硬めだろう。だが、それがどうした。
「……落ち着け」
世間一般では、わけがわからんと切り捨てる状況なのだろうが、ここはネスタ社だ。そして俺にはネスタ社で積んだ経験値がある。キリハラさんが遠くを見ていたように、我が社の社員は少し個性的だ。
この部屋の主は、初対面の俺とは扉越しのコミュニケーションを希望している――シャイな人物なのだろう。その上で、最初のやりとりが食べ物の名前なのは――シャイ代表格ゼスタリアさんのように、好物を教えてくれたのかもしれない。あのときは、キリハラさんが淹れてくれたホットチョコレートを二人で味わった。つまり今回は、みそラーメンが必要だ。
そして、わざわざトレイでメモを渡してきたことから推測するに、これは食事のお招きではなく、リクエストだろう。だが、この部屋には給湯設備がない。ここにあるのは俺のデスク――猫足くんとそれぞれの部屋に続く扉だけだ。もしかすると研究室の中には給湯器くらいあるのかもしれないが、どの部屋にも入ったことがないので分からない。
「となれば――」
俺はポケットから社員証を取り出し、さきほど出てきた扉――「いせかい暖簾」に繋がる扉を開けた。最初の渡航の後、キリハラさんがコーヒーを淹れてくれた。あの部屋には給湯設備があるはずだ。
「あった」
入って左手に小さな流しと給湯器を見つけた。ここに来るときはいつも、ほとんど真っ直ぐに暖簾を潜っていたから、これまで気にしたことがなかった。
「みそラーメン!」
流しの下の引き出しを開けると、豚骨、醤油、みそ、果てはカップ焼きそばまでバラエティに富んだインスタント麺が山積みだった。宝の山である。その日暮らしをしていたちょっと前までの俺だったら、目を血走らせて喜んだことだろう。
しかし、今は感動している場合ではない。みそラーメンを要求している相手は、おそらくランドル先輩ではないだろうが、同じラボメンバーなら、ランドル先輩の研究室を知っているはずだ。とにかく早いところ――マダムが来てしまう前に、ランドル先輩をつかまえなければ。
俺は見慣れたパッケージのみそラーメンを手に取り、蓋を開けた。給湯器の温度は常に九七度をキープしているらしい。なかなか優秀だ。だが、十分ではない。インスタントラーメンには沸騰直後の一〇〇度のお湯を注ぐのが、俺の数少ないマイルールなのだ。しかし、そうは言ってもヤカンや鍋が見当たらないので、これ以上お湯の温度を上げることはできない。だとすると、残る方法はただ一つだ。
パッケージに記載された待ち時間は三分。これが一〇〇度のお湯を使用した場合だとすると、九七度では三分十秒あたりが妥当か。だが、お客様は麺硬めを希望している。その場合、およそ二分四十五秒で最初の一口を味わうのがベストとして、ここから研究室にサーブし、そしてお客様がフォークを入れるまでのタイムロスを考慮すると――。
「――二分二十五秒だ」
このとき、ネスタ社に就職して以来もっとも頭を使った俺は、一秒のロスすら許さない仕事人の眼差しで時計と睨み合い、きっかり二分二十五秒の経過後、流れるような動作でみそラーメンをトレイに置き、お客様――もといラボメンバーの扉をノックした。部屋の主はリクエストが通ったことを認識したのか、今度は間を空けず扉が開き、クジョウ渾身のみそラーメンはトレイごと部屋に引きずり込まれた。
扉は相変わらず必要最小限しか開いていないが、今回は閉じられなかった。さすがは麺硬め好き――一秒のロスが命取りになることを理解している。ここから先は、一秒ごとに向こう側の光景が想像できる。蓋が開けられ、フォークが入る。そして一口目に到達し、
「――うっまぁ!」
俺の両耳は満足気なシャウトを捉えた。お客様の喜ぶ姿が目に浮かぶ。この瞬間は最高だ。このために腕を磨いたようなものである。クジョウは思わず口元を綻ばせて――違う違う。
俺はランドル先輩を探しているだけだ。
自己満足極まる妄想を振り払い、再び我に返ったところで、今度は勢いよく扉が開いた。
「キリハラ、今日はどうしたんだ! 完璧なラーメンじゃねぇか――――誰だおまえ」
そちらこそ。




