仕事とやらのため
「いません――クジョウ殿、目を開けてください」
「ありがとう」
ウンディーネの湖に帰還すると同時に、俺はケルピーの合図で硬く瞑った両目を開いた。
ナイアデスのお姉さんは既に水浴びを終えていたようだ。紳士たるもの確認を怠ってはならない。
陸に上がり、ケルピーの背から降りる。間髪入れずにずぶ濡れの身体が元に戻った。ウンディーネだ。
「成果はあったようじゃの」
大精霊は音もなく姿を現すと、俺たちを見回し、口角を上げた。
「はい。湖面の月を手に入れました」
「ほう。それはまた懐かしいものを」
逸話は聞いたかと、ウンディーネがこちらを見る。
「湖の貴婦人の話を教えてもらったよ。同じ人間の男として心苦しい話だった」
「何百年も昔の話じゃ。そなたが気に病むことではない。あやつは控え目な性格ゆえに、約束を違えた男すら始末せんかったと聞いていたが――」
「いえ、ウンディーネ様。男はわたしが沈めたのです」
「……ん?」
「湖の貴婦人の嘆きがあまりにも耳障りで、元凶を始末することにしました」
「……そうか。それは初耳じゃ。そなたも難儀じゃったの」
労るような口振りではあるが、大精霊は「こいつ大丈夫か」と言いたげな目をしている。
ウンディーネの心配はよく分かる。なぜなら、恋した男の裏切りに遭い、悲嘆に暮れる乙女を耳障り呼ばわりする彼が、これから愛する女性を娶ろうとしているからだ。だが、セイレーンならきっと大丈夫だろう。彼女ならケルピーに沈められることはないし、何かあれば強力な小姑たちが鉤爪をギラつかせて駆け付けるはずだ。
「そなたも心苦しかったの――同じ人間の男として」
ウンディーネは数秒前に遡り、俺の発言の意図を理解したらしい。本当にあった怖い話を聞かされた眷属に、大精霊は憐れみの眼差しを送ってくれた。
「そなたは早うセイレーンのもとへ行ってやれ」
「はい。ウンディーネ様、このたびは誠に――」
「よい。礼ならクジョウに申せ」
「――ありがとうございます。クジョウ殿、この借りは必ずやお返しします」
ケルピーから丁寧に頭を下げられた。
出発前と同じ構図だが、今度は馬の姿――向かい合うと溜息が出るほど美しく、神の遣いと言われても信じてしまう神々しさだ。しかし、睡眠の敵には悪魔の所業が待っている。気をつけよう。
とはいえ、ケルピーが前を向けたようでよかった。
その鑑定眼にはウンディーネも信頼を置く相手――マダム・タッソーが目をつけた品ならば、お姉様方を満足させてくれるだろう。二体が想い合ってさえいれば、それでいいじゃないかと思うところはあるが、種を超えた婚姻には色々としがらみもあるようだし、何より妖精のしきたりに口を出す気はない。彼らのルールの中で丸く収まれば、それが一番いい。その手伝いができたのならよかった。
しかし、まだ終わりではない。婚約指輪は嵌めてもらわなければ意味がないのだ。これからケルピーは、愛するセイレーンと手強いお姉様方に相対する――その心労は、ビビリのクジョウには察するに余りある。
「うん。あとひと踏ん張りだね」
「はい。それではまた」
ケルピーは自らを叱咤するように尻尾で鞭を打ち、踵を返した。
最後にウンディーネに会釈し、湖へ潜っていく。
「がんばれ」
俺は子どもの受験当日を迎えた保護者のような気持ちで、その背中を見送った。
「ご苦労じゃったの」
ケルピーの姿が見えなくなると同時に、ウンディーネが口を開いた。
「うん。今回はちょっと役に立てたかな」
マダム・タッソーの扉を開く鍵になれたようだ。具体的に俺が何かしたわけではないが、それでも妖精の話を聞くだけだったこれまでと比べれば、僅かながら達成感はある。
「マダム・タッソーにも会えたし、ウンディーネの役にも立てそうだよ」
「わらわの――? どういう意味じゃ」
「ケルピーから聞いたんだ。妖精がどうやって誕生して――消滅するのか」
人間による妖精の記録が持つ役割――俺がこの世界でより多くの妖精たちと交流することの意味。
「――そうか」
ウンディーネは表情を変えない。
「クジョウ」
「ん?」
「気負うな」
美貌の大精霊は淡々と言った。宝石のような瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「そなたの記録で寿命を繋ぐ妖精はおるじゃろうが、それはそなたの預かり知らぬことでよい」
「……え、でも――だから、色んな妖精に会えるようにしてくれたんじゃないの?」
きょとん。
ウンディーネは目を丸くしてこちらを見ている。大精霊らしからぬ無防備な表情だ。
「違うの……?」
「それはそなたの仕事とやらのためじゃ」
はぁ、と片腕を腰に当て、溜息を吐く。そして衝撃的な発言をしたのだった。
「『しんきゃら』が登場せんと、書くことがなくなるじゃろ」
「そういう意味で!?」
どうやら俺は主から、まったく想像していなかった気の遣われ方をしていたらしい。
たしかに新キャラの登場で筆は進むのかもしれないが、俺が任されているのは記録であって、物語ではない。見たもの聞いたことをありのままに記せばよい――というか、そうでなければいけないのだ。そこに盛り上がりや目新しさは求められていないのだが、せっかく気を回してくれた主にそれを言うほど、俺は野暮ではなかった。
「そ、そうだったんだ。ありがとう」
「礼はよい」
ふ、とウンディーネの口元が緩む。
「そなたは人間の――そなたのために書けばよい。眷属の面倒は精霊に任せよ」
「……うん」
この広大な世界に何種類の妖精たちが暮らしているのか。
その一つ一つに関わった人間たちがいて、微笑ましい、あるいは背筋の凍るエピソードがある。水脈では意気がってジャーナリストの覚悟を唱えていたが、そのすべてを受け止めた上で妖精たちの寿命を背負うのは、やはり俺には荷が勝ちすぎる。ほんのちょっと前まで、我が身も十分に養えていなかったのだ。そんな俺が自信満々に彼らを守るなどと、どうして言えるだろう。その振る舞いは勇敢というよりも無謀で、むしろ多くの犠牲を生む可能性すらある。
俺の矮小さを正確に把握しているのか、あるいは遥か昔から、人間に己が眷属を任せる気などさらさらないのか――いずれにしても、ウンディーネは眷属のすべてを引き受ける気だ。俺の筆など、大精霊の矜持には遠く及ばない。だが、それでいい。そうあってほしい。
俺は人間の――アリシアさんやキリハラさん、ネスタ社のみんなを手助けできるように、俺の仕事をしよう。
「ところで、クジョウ」
「ん?」
「そなた、胸の飾りはどうした」
「あぁ、実は――」
俺はマダム・タッソーの棲家でのやりとりをウンディーネに話した。ウンディーネは数秒の沈黙の後、眉根を寄せて言った。
「それは問題ないのか?」
「え、なにが……?」
「わらわにはけろけろの仕組みは分からぬが、あれはそなたの世界に通ずるものじゃろう。マダム・タッソーが腹を撫でれば――」
「――あっちに行っちゃう!?」
そうだ。カエルくんはゲートのないこちらの世界から、強制的にあちらに連れ戻してくれる装置だ。
ウンディーネの言う通りである。マダム・タッソーが腹を撫でれば、ネスタ社のラボにパンチの強い人魚が召喚されてしまう。情けないことに、その可能性はまったく頭になかった。
マダム・タッソーが現れたら、ネスタ社はパニックになるだろう。宇宙人を知らないアリシアさんなら、案外すんなり受け入れそうな気もするが、キリハラさんは心労で胃に穴が空くに違いない。しかし、再度棲家を訪ねたとして、マダムはカエルくんを返してくれるだろうか。自身の傍に浮かべておくほど、随分と気に入った様子だった。コレクターがお気に入りをそう簡単に手放すとは思えない。
「取り返すのは厳しいぞ。こちらが受け取った品物には湖面の月も含まれておる」
「そ、そうだよね」
カエルくんと引き換えに得たものはUSBメモリだけではないのだ。ここからその足でセイレーンのもとへ向かったのなら、ケルピーは既に湖面の月を手渡している可能性もある。
今さら返してくれとは口が裂けても言えない。やっと見えた希望を摘み取るなんて――鉤爪も束になって襲ってくるだろう。
「起動させなければ問題ないんだけど――」
「腹を触るなと伝えるのは――藪蛇じゃろうな。するなと言われれば、したくなるのが生物の性じゃ」
「どどどうしよう」
すべては俺の考えが足りなかったせいだ。
ランドル先輩に頭を下げるだけで解決できることではなかったのだ。ダメ元でもう一度マダムに会いに行くべきか。ケルピーはいないが、俺も水脈を通ることはできる。泳いでどのくらいかかるだろうか――辿り着く前にカエルくんが起動してしまう可能性も――。
「落ち着け、クジョウ。まだそうと決まったわけではなかろう」
「そ、それはそうだけど……」
「そなたもけろけろの仕組みを知らぬのであれば、あれこれ考えても詮無いことじゃ。ひょっとすると、そなた以外には使えぬかもしれぬではないか」
ウンディーネの言うことは一理ある。
たしかに俺はカエルくんの仕組みを知らない――というか、多分理解できない。世界を跨ぐガジェットの構造など想像もつかない。つまり、マダム・タッソーが装置を起動できるか否かすら、今この場では判断できないのだ。
「……帰ったらすぐランドル先輩――カエルくんの製作者をつかまえるよ」
「そうじゃな。そなたの世界にはこちらへの入口があるのじゃろう――万が一、あやつが現れたら、さっさと放り込んでしまえ」
「そんな簡単に――」
「陸では無力な熟女じゃ」
「じゅ……!」
大精霊はさらっとパワーワードを放り込んできた。
「でもいつ帰れるか分からないんだよね……」
なにせカエルくんが手元にないのだ。時間の経過を待つほかない。その間に、「万が一」が起こらないとも限らない。
「――否。運はそなたに向いているようじゃ」
「え?」
「またの、クジョウ」
まさか。この何の前触れもない感じは――。




