物々交換
「なんでそんなものが……」
ふわりと浮上する小さなバブル。
無数に浮かぶバブルの中で、俺にとってそいつは異質だった。小さく可憐な泡に包まれていたのは、あちらの世界で見慣れた形の記憶デバイス――USBメモリースティックだ。
島のセイレーンの話では、妖精と人間の世界が分かれたのは、妖精狩りが盛んに行われていた頃――つまり、今から何百年も前の話だ。何百年も昔に、こいつは存在していない。
そして、久方ぶりに妖精に出会った人間――俺は、あんなものは持ち込んでいない。ランドル先輩の忘れ物だろうか。しかし、ランドル先輩の渡航記録――命がけで解読した暗号には、そのような記載はなかった。それに、いくら自由なランドル先輩でも、記憶デバイスの紛失――文句なしの情報セキュリティインシデントは、さすがに研究調査部長かキリハラさんあたりに報告するだろう。
だとすると、一体誰があんなものを持ち込んだのだろうか。
「クジョウ殿、どうかされましたか」
「あ、ううん、ちょっと……」
「おまえ、これが欲しいのかい」
「え――」
マダムは言い淀む俺の目線を追い、USBメモリースティックの入ったバブルをひょいと引き寄せた。
「こいつは拾いもんさ。陸で用があってね――水面に顔を出したら、ちょうどアタシの鼻先に落ちてきたんだよ」
「落ちてきた……」
「珍しいモンだから持ち帰ったが、愛でるには足らないね」
マダムはつまらなさそうにバブルをつついた。
それはそうだろう。俺たちにとって大事なのはそいつの中身であって、外観を愛でることは想定されていない。
「そいつと交換でどうだい」
「え――これ?」
爛々とした瞳で、マダムは俺の心臓――ではなく、左胸にセットされた「今すぐカエルくん」を指差した。ウンディーネやサラマンダーといい、カエルくんには、こちらの住人の好奇心を絶妙に擽る何かがあるらしい。
とはいえ、カエルくんはランドル先輩からの貰い物――否、ネスタ社のラボで製作された支給品だ。記憶デバイスの中身は気になるが、会社の備品を俺の一存で渡すわけにはいかない。
「悪いけど、これは――」
「その珍しいモンと引き換えなら、こいつに湖面の月もつけようじゃないか」
「え……」
思わずケルピーを見る。
両者の交渉は知らぬ間に決裂していたのだろうか、視線を落としていたケルピーがハッと顔を上げた。
「……クジョウ殿……否、これはわたしの問題ですから――」
これ以上クジョウ殿に寄りかかるわけにはいきません。
毅然とした言葉とは裏腹に、かろうじて取り繕ったような笑顔だ。
此方に対価なき親切はない。
一方的に貸しを作っては駄目だ。それは分かっている。けれども、同じウンディーネの眷属として、何より同じ男として、あの小姑の群れに立ち向かう背中を押してやりたい。
恋愛とは無縁の人生を大精霊にすらいじられ――否、応援されている俺からすれば、あの姉様方とやり合うなんて、ケルピーは男の中の男だ。それに、別に根に持っているわけではないが、島のセイレーンたちに婚姻を認めさせることができれば、俺の受けた鉤爪被害も報われるというものだ。
ケルピーの誠意を見せるのに、十分な代物は見つかった。あとはそれを手に入れて、セイレーンに手渡すだけだ。ここまできたら、何としても同士ケルピーの恋を成就させてあげたい。ウンディーネだってそう願っている。
ランドル先輩には、あとでいくらでも頭を下げよう――しかし、職を失うのは困る。備品紛失を咎められたら、キリハラさんの足にしがみついてでも許しを乞おう。
クジョウは瞬時にセコイ覚悟を決めた。
「――マダム・タッソー、交渉は成立だ。カエルくんを渡そう」
「クジョウ殿――!」
「そうこなくちゃね。珍しい客を招いた甲斐があったってもんさ」
マダムの真紅の口元が大きく歪んだ。喜びを隠し切れないのか、ふくよかな身体を支えている触手まで何やら嬉しそうに蠢いている。
人魚――?
人魚ってなんだっけ。
俺は「今すぐカエルくん」を胸元から取り外した。
「クジョウ殿、それは――」
「いいんだ。俺もあのUSB――いや、あのバブルの中身に興味があるんだよ。だからケルピーは気にしなくていい」
「しかし――」
「もしこれが貸しになるんだったら、いつか返してくれればいいから」
借りは返させてやらねばならん。
サラマンダーの忠告はちゃんと覚えている。俺はその機会を拒まない。
「……誠にかたじけない」
視野の広い紳士に頭を下げられ、俺は片手を振って応えた。
「話は着いたかい? それじゃあ、物々交換といこうか」
マダムの言葉を合図に、部屋中のバブルが一斉に回転を始めた。バブルは流れるように入れ替わり、俺の前に再びUSBメモリースティックが、ケルピーの前に湖面の月の入ったバブルが現れた。
「それはおまえたちのものだ」
ケルピーがもう一度、バブルを抱えるように両手を差し出す。バブルはゆっくりとケルピーの両手に収まり、そして消えた。
「――湖面の月」
黄金色の指輪が手の内で輝いている。
遠い昔、愛する男のために湖の貴婦人が掬い取った美しい月。男は月の輝きに魅せられ妖精を裏切り、その代償は無慈悲な水辺の王によって払わされた。そして何の因果か、時を超えた今、湖面の月はその無慈悲な王――ケルピーの手中にある。
ケルピーはそっと指輪を持ち上げ、深く息を吐いた。その瞳は、セイレーンとの恋路だけではない、遠い過去をも内包する――昏く深い、けれども力強い色をしていた。
「クジョウ、おまえも受け取りな」
「あ、うん」
ケルピーに倣い、目の前のバブルを包み込むように両手を添える。バブルは音もなく消え去り、俺の手には無機質な黒いガジェットが残された。一体こいつはどこから来たのか。妖精が電子機器を駆使するとは思えないから、間違いなく持ち込んだのは人間だろうが――。
「……あ、ごめん。カエルくんだよね」
USBメモリが現れた経緯は気になるが、マダムの舌なめずりするような視線が痛い。俺はそそくさとそいつをポケットにしまい、「今すぐカエルくん」をマダムに差し出した。
「はい、どうぞ」
「――たしかに受け取ったよ。あぁ――こいつはいいね。これは愛でる価値ある代物さ」
マダムは早速カエルくんをバブルに包み、矯めつ眇めつしている。どうやら気に入った品は自身の近くに置いておくようで、カエルくん入りのバブルはマダムの傍から動かない。
「いい取引ができたよ。また何かあれば来るといい」
「こちらこそありがとう」
おかげでケルピーの未来は明るいはずだ。
「クジョウ殿、どうぞ我が背に」
馬モード、手綱と鞍付きに変化したケルピーに跨る。相変わらず見惚れるほど神々しい馬だが、いつもより瞳の輝きが増しているような気がする。ケルピーの心も前を向いたようだ。
それもこれもすべて、ランドル先輩の技術――否、芸術センスの賜物である。妖精たちが魅せられたのは、あの両生類を象ったフォルムなのだ。ネスタ社に帰ったら、頭を下げるだけでは足りないだろう。なにせ俺の寿命も救ってくれたのだから。これはおやつ一年分にも値する働き――でも、最初の給料が出るまではお財布と相談だ。
あぁ、ケルピーに沈められなくてよかったな――と、まさにそのケルピーの背に跨り、マダムの棲家を後にしながら、俺はそんなことを考えていたのだった。




