湖面の月
海の中とはいえ、室内で馬に跨っているのは違和感がある。
背中で扉が閉まるのと同時に俺はケルピーから降り、ケルピーは人型をとった。妖精であるマダム・タッソーは馬の姿を見慣れているだろうから、きっと俺への配慮だろう。婚前のゴタゴタを抱えていると思えば、人型の方が付き合いやすい。というか、馬と鳥ではあまり想像したくない。
扉の中は優雅でどこか神秘的な空間だった。
自らも珍奇な品を口にしたという逸話や、男前なマダムの口調から、どちらかというとガサツなイメージ――蒐集品が雑然と積まれた部屋を想像していたが、予想とは正反対だった。
水中にも関わらず、床にはビロードの赤い絨毯が敷かれ、どういう仕組みか、長い毛足はフカフカと柔らかな気品を漂わせている。部屋中に大小様々な泡が漂う光景は実に幻想的だった。
そのシャボン玉のような泡の一つ一つに、まさしく珍奇な品々が包まれている。
極彩色の輝きを放つ鱗のようなもの、底知れない漆黒、氷の火喰鳥。
これらが蒐集家と名高いマダム・タッソー自慢のコレクションなのだろう。
そして、一風変わった品々のバブルの向こうに、この部屋の女主人がいた。
「よく来たねぇ、クジョウ。人間なんてお目にかかるのは随分久しぶりさ。そいつがまさかケルピーの仲人たぁ、こんな妙な話はないね」
マダム・タッソーはくすんだ銀髪のソバージュヘアを靡かせ、真っ赤な紅を引いた口を大きく歪めて笑った。恰幅のよい身体が揺れる。まるで飲み屋のママのような雰囲気だが、ケルピーに聞いていたとおり、腰から下はイソギンチャクのような触手に支えられていた。
棲家とは違い、マダム本人は概ね想像通りの御方だった。
初めて会う人魚はもっと思い描いた人魚の姿をしていてほしいとかなんとか、クジョウはそんなこと思いもしないので、微塵もガッカリなどしていない。
ところで、仲人なんてワードが出てきたことには驚いた。ここに来た理由は分かっていると言っていたが、その言葉に嘘はなかったようだ。
「中に入れてくれてありがとう。事情は全部ご存知みたいだね」
「そうさ。海の底にはこの世の出来事が余すことなく流れてくる。ウンディーネ様のお気に入りも、ケルピーとセイレーンの恋物語もね。セイレーンの連中は手強いかい」
マダムはケルピーに向かって顎をしゃくり、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「クジョウを連れてきたのはいい判断さ。扉を開くカギさね。さぁて、おまえが望むモノは――おや、似合いの品があるじゃないか」
「これはまさか……湖面の月――?」
無数に浮かぶバブルの中から、一際静謐な輝きを放つものがケルピーの正面で静止した。
黄金色の丸い光が時折静かに揺蕩っている。思わず息を吐く美しさだ。
「あぁ。遠い昔、湖の貴婦人が掬い上げた月だよ」
「なんと蠱惑的な……たしかに、これならば」
「湖面の月?」
とは一体なんぞや。
なにやらマダムとケルピーの間では共通理解が成立しているようだが、俺にはさっぱりだ。両者の会話から分かったことは、あの美しい黄金色の光は月であること、そして遠い昔にそれを妖精――湖の貴婦人が掬い取ったということだけだ。
その月が、なぜ今のケルピーとセイレーンにピッタリの品なのか。
「その昔、湖の貴婦人は人間の男に恋をしました」
疑問符を浮かべた俺にケルピーが語りかける。
「彼女は湖面に映る月を掬い取り、男に贈った。男はその月に心を奪われ、彼女の想いを受け入れたのです。しかし、月を手に入れるやいなや、男は人間の娘と契りを結びました。初めから、男の心は妖精にはなかった。真実を知った妖精は哀しみとともに男の元を去りました。以降、湖面の月は指輪の形を取り、持ち主を変えながら人間の手を渡り歩いたと聞いています」
「えっ、指輪?」
「えぇ。ウンディーネ様も仰っていましたが、妖精にとっても指輪は誓約を意味する馴染み深いものなのです。湖の貴婦人はとても悲嘆にくれていましたから、彼女の心――愛を信じたい気持ちがそのような形をとったのでしょう」
「そうなんだ――なんか、ケルピー詳しくない……?」
語り部のようにスラスラと話してくれる。妖精の間ではよく知られた話なのだろうか。
「彼女の嘆き様は凄まじく――静かな眠りを妨げられたので、男はわたしが沈めました。指輪となった湖面の月は、贈り手と受け手の想いを秤ります。想いが釣り合えば受け手の指にピッタリと収まるのです」
「へぇ…………え?」
「そういう訳で、こいつは妖精の嘆きから始まり、人間の幸せと哀しみ、憎悪を吸収してきた代物だ。人間の感情は良くも悪くもアタシらにとっちゃ蜜の味さ。喧しいセイレーンたちの口もこいつを前にすれば閉じるだろ」
「いや、うん……え?」
湖面の月の歴史は分かった。ケルピーがセイレーンに贈る指輪として相応しいことも理解した。
でも途中、不穏な話が聞こえなかった?
「……えっと」
ケルピーとマダムは何事もなかったかのような顔でこちらを見ている。
「目当てのものが見つかってよかったよ」
クジョウは聞かなかったことにした。
遠い昔に妖精の心を射止め、そして傷付けたどこぞの御仁が迎えたらしい壮絶な最期に、心は痛む。もしかすると、俺の遠い遠いご先祖様あたりとちょびっとでも縁のある人物かもしれない。だが、今を大切にするクジョウは、自分の命を守ることを優先した。
「えぇ。クジョウ殿のおかげで――」
ケルピーがそっと、黄金色のバブルを抱えるように両手を差し出した。しかし、小さな泡はその手に収まることなく、ふわりふわりとケルピーの胸元あたりを漂う。
「そう焦るんじゃないよ。そいつはまだ、アタシのコレクションだ」
「……対価ですね。何をお求めに?」
「そうさね――」
両者の間で物々交換の交渉が始まった。
蒐集家のコレクションを譲ってもらえるかは交渉次第――マダムのお眼鏡にかなう対価を用意できれば、湖面の月を――セイレーンに贈る指輪を手に入れることができる。
ここはケルピーの頑張りどころだ。無理難題の対価を押し付けられては、彼の春はまたしても遠のいてしまう。
俺はケルピーの手腕を見守ろうと一歩下がり、
「……え?」
直後、眼前に現れたものに目を疑った。




