海底道中
ケルピーは水辺に棲む馬の姿をした妖精で、人間を水中に引きずり込み、命を奪うとされている。
しかし、以前、島のセイレーンが話していたとおり、妖精が人間に見せる顔は残酷な一面だけではない。たとえばコボルトがゴミを投げ込んだミルクを飲み干すことができれば、家に住み着いて子守をしてくれることもあるそうだ。
ケルピーの場合は、人間をその背中に乗せてくれることもあると言われている。ただし、それはケルピーに轡をつけられた場合に限るとされてきた。そこで、現在その背に跨っている俺の例を述べよう。
恋の相談――もとい、小姑をどう黙らせるかを一緒に考えれば乗せてくれる。
そして、乗り心地は遥かにドラゴンに勝る。なにせ乗る瞬間に鞍と手綱が現れるビックリ仕様だ。かつて人間と同じ世界に生きていた名残が、こんなところに残っているようだ――などと、実にどうでもいいことを考えているのは、現実逃避に他ならない。
ケルピーが水中に潜って、どのくらい経過したろうか。
俺が呼吸の限界、そして肺の限界を迎えるまで、あとどのくらいだろう。あぁ、こんなことなら一度くらい男を見せて、アリシアさんの抱擁を全力で受け止めておくんだった。
なんて、馬鹿なことを考えている間に、いよいよ息が苦しくなってきた。
「クジョウ殿」
「む、むが」
「クジョウ殿……?」
「むがむが」
「もしやクジョウ殿、息を止めているのですか」
「ん」
「なんと無茶を。呼吸を再開してください。水の眷属のあなたなら息ができるはずです」
「――――ぷはっ。やっぱりそうなの?」
今までの例からして、ちょっとそんな気はしていたのだけれども。
「でなければ潜らないか」
暴君の精霊ならばともかく、わりと常識の近そうなケルピーのことだ。人間は水中で息ができないと分かっていながら、道連れに海底を目指すような真似はしないだろう。とはいえ、「多分大丈夫だよね」で息を吸う真似はできないのがクジョウだ。だって、もしできなかったら、絶対鼻痛いじゃん。
「水中で呼吸のできない人間の苦しみは凄まじいものがありますからね」
「……そ、そうだよね」
「クジョウ殿?」
「ナンデモナイヨ」
前言撤回――わりと常識の近そうなケルピーの生業は、人間を水中に引き摺り込んで溺死させることだった。あれ、なんだか背筋がゾクゾクするような。水の中にいるからかな。
「と、ところで、俺たちは海底に向かっているんだよね」
「はい。マダム・タッソーの棲家は海底にありますからね」
「ウンディーネの湖は海に通じているってこと?」
海水と淡水の混じり合う汽水湖。あの森の湖もそうなのだろうか。だとすると、ナイアデスのお姉さんは汽水を浴びていることに――ちょっとベタベタしたりしないのかな。いやいや、何を考えているんだ、やめなさいクジョウ。
「クジョウ殿? どうかされましたか」
「う、ううん、何でもない」
頭が思春期になりかけた自分を戒めていただけです。
「さきほどの問いですが――厳密に言うと、ウンディーネ様の湖から海には出られません」
「え?」
「地形的にという意味です。例えばクジョウ殿以外の人間であれば、あの湖からマダム・タッソーの棲家へ向かうのは不可能でしょう」
「……俺がウンディーネの眷属なのが関係してる?」
「そのとおりです。わたしたち水の眷属は、水脈を辿ることができます。地形にない道筋――人間の目には見えない場所を進むことができる。水脈は凡そすべての場所に通じていますから、こうしてウンディーネ様のもとから、海底へ向かうこともできるのです」
既に水脈に入っていますよ、とケルピーは首を左右に振った。釣られて同じ動きをする。
「海や湖と違って何もないでしょう」
「……そういえば、たしかに」
自然環境に当然あるはずのもの――植物や生物はもちろん、砂や岩まで――何もない。
仄暗く半透明な視界がひたすらに広がっている。本当に前に進んでいるのかと疑いたくなるほど、あまりにも変化のない眺めが続いているが、絶え間なく身体を撫でる滑らかな感触と、サラサラと耳に心地よい音が、水の流れのあることを教えてくれる。
「ところでクジョウ殿は、こちらと人間界を行き来しているとか」
「あ、うん。俺の所属している会社――って言って分かるかな。生業をこなす代わりに、日々の糧を提供してくれるところがあって、そこにこの世界の入口があるんだ」
「生業は何を?」
「この世界の記録だよ。俺がこっちで見たもの、聞いたことを記録してるんだ」
「……それは」
ほう、とケルピーが息を吐くのが分かった。
この世界の記録――それは、つい最近この世界を認識し、妖精との関係を探っている俺たちにとっては必要なことでも、彼らにしてみれば日常を観察されているようで、いい気はしないかもしれない。
だが、続くケルピーの言葉は予想外のものだった。
「とても大切なことですね」
「え……?」
「世界を分かつ前から、人間たちは妖精を記録し、語り継いでいました。それはわたしたちにとっても、とても大切なことなのです」
たしかに、俺の知る妖精の逸話や伝説は、人々が昔から語り継いできたお話を絵本や伝記として形に残したものが多い。
ケルピーにしてみれば、俺がこの世界を記録することは、それらと同じことなのかもしれない。けれども、それが妖精にとっても大切とはどういう意味だろう。妖精の好みや逆鱗を把握する取扱説明書として、記録は有用だと言いたいのだろうか。
「人間は妖精にとって、なくてはならない存在なのです――あぁ、もしかしてウンディーネ様はクジョウ殿の生業をご存知なのでは?」
「え――うん」
「なるほど……それでわたしはクジョウ殿に出会えたのですね」
「うん……? たしかに、ウンディーネはこの世界を知る機会を与えてくれたのかもしれないけど――」
「加えて、多くの妖精と出会う機会もです」
「え?」
セイレーンの家出問題に付き合えと言い出したのはウンディーネだ。今回、ケルピーとともにマダム・タッソーの棲家へ行くように誘導したのも。
ウンディーネは俺の仕事を知っている。この世界を記録するためには、より多くの妖精に出会える方がありがたいけれど――。
「クジョウ殿。わたしたち妖精は本来、大地や風のようなものなのです――意思を持たず、ただそこにある。けれども人間と出会い関わりを持つことで、わたしたちは妖精として形を得ることができる。人間がいなければ、妖精は生まれないのです。そして、人間に忘れられれば、妖精は消滅します」
「え……」
「ですからウンディーネ様はクジョウ殿の生業を知り、より多くの妖精と出会えるよう、取り計らってくださっているのだと思います」
「……記録に残せば、忘れられないから……?」
「そのとおりです。それでもいつかは失われてしまうのでしょうが、少なくとも寿命を繋ぎ止めることはできる」
この世界を記録することで――否、その記録を後世の人間たちが目にすることで、妖精は存在を保つことができる。
「……とても大切なこと……」
俺の仕事振りが妖精たちの寿命に直結している。
まさかそんなこと考えてもみなかった。
だから、ウンディーネは俺を眷属にして――ん?
「ウンディーネの眷属になったのは初めて会ったとき……」
「クジョウ殿の生業と従契は関係ないでしょう。ウンディーネ様は単純にクジョウ殿を気に入ったのだと思いますよ」
「そ、そうなんだ」
ちょっと嬉しい。
「でも、仕事に関しては責任重大だね――みんなの寿命か」
セイレーンやケルピーと出会い、彼らを知った今の俺に、妖精はおとぎ話の登場人物ではない。生身の身体、心を持ち、時に人間と同じように思い悩む愛すべき友人たちだ。
命を負う仕事は重い。この記録の意味を思えば、今後、筆を執るにも一瞬の躊躇があるだろう。だが、時としてジャーナリズムは人を生かし、そして命を奪うこともある。曲がりなりにも、俺もジャーナリストを目指した口だ。覚悟があるといえば言い過ぎだが、その責任を放棄したりはしない。
「もちろん、わたしたちにも個体の寿命はあります。妖精にも世代交代はありますから」
そういえば、長の交代について尋ねた際、サラマンダーも寿命について言及していた。生きとし生けるもの、いつかは必ず寿命を迎える。その自然の理の前では、妖精も例外ではない。
「しかし、人間に忘れられた妖精に次の世代は生まれません。種そのものが消滅します」
「種が……」
例えば、セイレーンはかつて、船乗りを惑わす海のディーバであったこと。
古い文献に見られるその記述は時代を超え、今なおその存在は人間に知られている。だが、もしも誰一人として、彼女たちの存在が分からなくなってしまったら。
『セイレーン』は、この世から消える。
「とはいえ、何も妖精に限った話ではありません。クジョウ殿の世界では、太古の生物の痕跡が見つかっているでしょう。しかし、見つかっていないものたちもいる。そのものたちはこの世のどこにもいない――かつてそこにいたことさえ、今やなかったことなのです」
種が消滅するとはそういうことですと、ケルピーは淡々と言った。
「……そっか」
それは俺に――ただ一人の人間に、どうすることもできないことではあるが、どうしても虚しく感じてしまう事実だった。
「――ところで、クジョウ殿」
「ん……?」
しんみりとした空気を憚るように、ケルピーの声色が変わった。
なんだかそわそわしている。
「この世界の記録には、当然この行程も含まれますよね」
「え? あ、うん」
「当然、目的まで――」
「そうだね。どんな状況でマダム・タッソーのもとへ行ったのかは書かないと」
「……つまり、わたしがその……セイレーンと婚姻するために悪戦苦闘していることも――」
「……あぁ」
鈍感なクジョウも男心を理解した。
婚姻のために悪戦苦闘――言い換えると、小姑たちの愛ある妨害にあっぷあっぷしている様子が伝えられるのは、ちょっと恥ずかしいというわけだ。
「いえ、別に構わないのですが――」
「大丈夫だよ。この記録は著作権フリーじゃないから――今のところ、さっき話した会社の中だけで読まれる予定なんだ。だから全人類がいきなり目にするわけでは――」
「いえ、本当に構わないのです。ただ、わたしは――古くは人間の記録に、崇高で謎めいた存在とあったような――それを覆してしまう懸念が……いえ、わたしはよいのですが――」
絶対よくない。
崇高な妖精は、本音をまったく隠し切れていなかった。
「うん。そうならないように工夫して書くから――」
「そうですか? いえ、わたしは本当に――」
「う、うん。ケルピーは気にしていないんだよね」
「はい――あぁ、ところでクジョウ殿」
「こ、今度はなに?」
「着きました」
「え――!?」
すっかり会話に夢中になっていた間に、とっくに水脈を抜けていたようで、気付けば生命の息吹溢れる海中にいた。どこまでも広がる白い砂、その上を練り歩く不思議な形の貝、退化した目を持つ魚たち。
そして、目の前にはその光景に馴染まないものが。




