暗号文書の解読
「それ」
「……おぉ」
肌寒さを感じていたのは、木々が陽光を遮っていただけではなく、そもそも、俺がずぶ濡れだったからのようだ。ウンディーネが片手を振るうと、俺の体表から水色の粒子が彼女のもとへと還り、一瞬で身体は元の状態に戻った。
「ここはわらわの力が支配する森じゃ。クジョウがワイバーンと会うた原からも近い。実を言うと、火球が届く前に連れてくるはずだったのじゃが」
まぁ、そなたは無事だったのだからよしとしよう、と水の精霊は磊落に笑った。
「はは……」
いや、ほんと、もう少しで丸焼きだったんだけど。爪先焦げてるし。
でもまぁ、異世界から来た俺を助けようとしてくれていたことは、素直にありがたい。
「前にも似たようなことがあっての。あれは本来、ここいらには滅多に姿を見せないのじゃが――どうやらそなたらは、よほどワイバーンと相性がよいらしい」
「喜んでいいのかどうか……ていうか、そなたらって――そういえば、あのときのピクシーは?」
水柱に呑み込まれたのは俺だけだったようで、この森にピクシーの姿はなかった。二体を繋ぐ糸は切り離したし、ワイバーンは立ち去ったはずだから、無事とは思うが――。
「棲家へ帰った。あやつはシルフィードの眷属じゃからな。ここへは連れてこぬ」
シルフィードは、たしか風の精霊の名前だったか。風を支配する気まぐれなイメージと、ピクシーのイタズラ好きな一面は、たしかに通ずるところがありそうだ。
ひとまず、あのピクシーが無事でよかった。最後はむしろ、俺の方が心配されていたような気もするが。
それにしても、前にも似たようなことがあったとは、あのピクシー、よほどワイバーンに気に入られているのだろうか。ワイバーンはあまりこの辺には姿を見せないというし、ピクシーもウンディーネの眷属でないとすれば、このあたりに棲息しているわけではないのだろう。
「何を言っておる。気に入られているのは、そなたら人間じゃ」
「え?」
「前にもここを訪ねてきた人間がおるじゃろう。そなたよりも随分小さき者じゃったが」
「まさか……」
ランドル先輩もワイバーンと遭遇を!?
「いやいやいや」
いくらなんでも、そんな危険な目に遭っていたら、旅立つ前に一言くらい忠告があるだろう。ランドル先輩からは「がんばって」の激励しか受けていない――――いや、待てよ。
「……『バサバサ』……『ゴー』……」
翼竜の羽搏きと、火焔を吐き出す咆哮。
「火球に驚いた勢いで転倒したようでの。まぁ、そのおかげで無事だったようじゃが。そなたと同じように回収して、ここへ連れてきたのじゃ」
「……『わー、ポテッ』……『クルクル』……」
転倒し、クルクルと旋回する水柱に呑み込まれる。
「……『ひょい、モグモグ』……?」
「ところが座り込んだまま動かぬゆえ、ひょいと拾い上げて訳を聞くに、どうやら腹が減っておったようでの。ニンフに運ばせた果実を与えてやった」
「……『ありがとう』……なるほど。ランドル先輩は俺たち後進に危険を訴えて――いやいやいやいや」
分かるか。
あのメモから、この命がけの一幕を想像できる人間がどこにいる。
「となると、冒頭の『グリグリ、ファサー』は……」
ワイバーンが出現したのは見渡す限りの草原で、若い緑が――グリーングリーン。
風に揺られて――ファサー。
「……キリハラさん、やりましたよ」
暗号文書の解読、完了しました。軽く死にかけたけど。
「なにをブツブツ言っておるのじゃ。そなたも腹が減っておるなら、果実でも……」
そこの者に運ばせるが、と、あろうことか、ウンディーネは湖を示した。
「い、いえ! いいえ、いいえ! お腹いっぱいです!」
途端にさきほどのお姉さんの光景が思い出され、俺は頭を抱えた。見えていなかったとはいえ、思い浮かべてしまっただけで、とてつもない罪悪感だ。
ここはやはり、誠心誠意謝罪した上で、頭パーンで記憶をリセットするしか――。
「そうか? そういえば、そなた、先ほどもおかしなことを言っておったの。見ていないとかなんとか――」
「は、はい! 見ていません! いや、見ていないわけではありませんが、純潔と純情に関する部分は見えていません!」
「そうか」
ぽん、と美貌の精霊は少々古臭い仕草で手を打った。
「純潔か。クジョウ、安心せい。あれはニンフにとって常じゃ」
「え?」
「そなたにとっては、その姿が常じゃの。どうじゃ、わらわに見られて障りがあるかの?」
「……いや、全然ない……服着てるし」
「ニンフも同じじゃ。見られても障りなどない」
「……そうなの?」
だからお姉さんは何も反応しなかったのだ。
「はぁぁぁ」
よかった。異世界一日目にして、危うく卑劣漢の称号を得るところだった。そして何より、お姉さんの純潔を傷付けることにならず、本当によかった。
「そなたの純情は知らぬがな」
「……それは言わないで……」
思い出すだけで赤面するレベルなのだ。大丈夫だ、クジョウの純情は失われていない。
「それにしても腹は減っていないのか――ならば、酒はどうじゃ? よいものが入っておるぞ。そなたが嗜むのならば、わらわが相伴してやろう」
「うーん……お酒はちょっと……」
勤務中だし。それに、初めて来た異世界で、わりとハードな体験をした後に飲む気にはなれない。酔っ払って、またワイバーンにでも遭遇したら、今度こそ命はないだろう。
「そうか。残念じゃ」
ウンディーネはしょぼくれた様子で唇を尖らせた。本当に残念そうだ。むしろ自分が飲みたかったように見える。
「ならば何か望みはないか」
「いや、特に……ていうか、なんでそんなに親切にしてくれるの?」
ウンディーネは、火、水、風、大地の四大精霊のうち、水を司る精霊だ。わりと――というか、結構な大物のはずで、初対面の俺に対して、これほど親切にしてくれる理由が思い当たらない。ランドル先輩のことも助けてくれたようだし、異世界からの闖入者に興味があるのだろうか。
「……奴のせいじゃ」
「ん?」
「ワイバーンの件では迷惑をかけたからな……」
大精霊は美しい顔を歪め、大きな溜息を吐いた。




