二章 下
翌朝、紬は雫の元に行く前に病院へ出向くことにしていた。前回は逃げてしまったが、このままでは病院に更に迷惑をかけてしまう。それはいけない。そんな一欠けらの良心を胸に、紬は吉江の手を引いて家を出た。
当然吉江は紬の頼みなど聞く耳を持たなかったが、外で大声を出しながらでは別だ。妙に世間体を気にする吉江はご近所に癇癪持ちの子供がいると思われたくないのだろう、こうすればすぐに言う事を聞いてくれるのだ。ただ、紬も変な見栄を張る癖があるので、あまりこの手は使われていなかった。
「病院だなんて、あんた怪我でもしたのかい? 治療費なんて絶対に出さないからね‼」
横で何か言っているのを無視しながら歩みを進める。しばらくすると病院と雪菜の姿が見えてきた。
もう回復したのかと驚きながら雪菜に駆け寄る。雪菜は入院着を身にまとって中庭を駆け回っていた。始めて出会ったときとは大違いの笑顔だ。
不意に雪菜がこちらを向いた。とびきりの笑顔を見せた後、途轍もない勢いで紬に抱き着いてきた。
「紬様!」
様呼びに疑問を持ち訂正しようとした瞬間、横から鬼の様な形相の医者がこちらを覗いた。あの時紬に説明してくれた人だ。
「あっ、話はこの人にお願いします! 本当にすみませんでした‼」
紬は背筋を伸ばしてそう言い切った後、一度深く礼をしてから雪菜の手を引いて走り出した。
困惑した様子で紬と医者の顔を見比べてから医者に手を振る雪菜、茫然とした顔で固まっている吉江、またしても逃げられ怒りが最高潮に達している医者。一歩振り返れば地獄が広がっていた。
医者が大声で吉江に質問攻めしているのが聞こえてくる。それからなんとか遠ざかろうと、紬は全力で走った。
「逃げちゃってよかったの?」
雪菜が不安そうに紬を見上げている。
紬はそんな場合ではないと思いつつも、雪菜の初対面時とは見違えた姿に安堵した。洗われたことで蘇ったであろうふわふわの白く腰まで伸びた髪、改善した肌艶がもたらすあどけない表情。あとは入院着さえ着替えてしまえば完璧な美少女だ。
「平気だよ。あっちは大人が何とかするから」
「そうなんだ」
そんな他愛もない話をしているうちに、二人は雫の元へ到着した。
「あの時の……。元気そうで何よりです」
雫も雪菜のことをしっかり思い出せているようで安心する。
そんな紬とは対照的に、雪菜は雫の姿を見るや否や紬を庇う様に両手を広げて仁王立ちを始めた。
「紬様は雪菜が守ってみせます!」
紬の方を一瞬振り返ってサムズアップをしながら宣言する。紬よりも頭二つ分程低い背丈で必死に雫を威嚇している様子が何だか愛らしく感じ、つい笑みが零れた。
「大丈夫、雫さんは怖い人じゃないよ」
優しく頭を撫でながら言い聞かせる。しばらくすると、渋々紬の前から退いてくれた。
「助けてあげた恩を忘れたのですか~?」
そこに敢えて神経を逆なでするような声で雫が煽る。それに対し雪菜はかわいい顔を真っ赤にしながら雫に突進し、容易く受け止められている。
「何してるの……。雫さんは年上なんだからもう少し大人の余裕出して! 雪菜ちゃんも威嚇したこと謝ろう?」
「む、……ごめんなさい」
「凄く素直ですね。私にはこんななのに」
突進を続けながら雪菜が謝っている。それに苦笑しながら紬は再度口を開いた。
「あと様呼びやめてね」
「それは嫌です」
「私は雫様って呼んでもいいですよ」
「それも嫌です」
※
ひとしきり会話した後、疲れから睡魔に襲われていた雪菜を布団に寝かせた二人が話していた。
「雫さんって雪菜ちゃんが着られる服とか持ってない? ずっとあの服ってわけにもいかないじゃん?」
「……一応ありますよ」
そう言った雫は奥の引き出しから何着か子供用の着物を持ってきた。かなりの年代物の様だがしっかりと手入れが施されており、まだまだ現役の様子だ。
「凄いいっぱい持ってるね~」
「そうですね」
雪菜に似合いそうなものを選んで布団の近くに置いておく。気に入ってくれると嬉しい。
「ところで、そろそろ二本目の杭を抜きに行きませんか?」
焦りが滲んだ顔で雫が言う。雪菜のことを思い出したということは、当然今の状況も思い出したということ。消えた雪菜の追っ手が邪魔になる前に出発したいのだろう。紬も異論は無かった。
「うん、そのつもり。雪菜ちゃんが起きる前に帰ってこよう」
「どこに行くの?」
いつの間に起きたのか、眠り眼を擦りながら雪菜が紬の服を掴んだ。
「わっ! 起きてたんだ」
「置いて行かないで……」
今にも泣きだしそうな上目遣いでそう言う雪菜に、つい一緒に行こうと言いそうになるのをぐっと堪える。外には追っ手がいるかもしれないのだ。雪菜の為にもここは心を鬼にしなくてはならない。
「一緒に行こう」
やってしまった。無意識のうちに口が勝手に動いてしまう。既に身支度を済ませた雪菜を見て雫も頭を抱えていた。
出発から三時間が経った頃、体力が尽きた雪菜は雫に小脇に抱えられながら移動していた。杭はまたしても人里から遠く離れた位置にあるのが幸いし、まだ追っ手らしい人影は見ていない。
「この山を越えたらすぐですね」
雫の一言に若干の絶望を覚えつつも、紬は足を進める。更に一時間程歩くと、やっと杭が見えてきた。
「つかれた……」
地面に大の字になって寝そべりながら呼吸を整える。横では雪菜が紬の仕草を真似ていた。
「さっさと抜いて帰りましょう」
雫に急かされ起き上がる。杭の前に立ち、勢いよく引き抜いた。
前回とは違い、今は黒い水が出てくる気配が無い。それを雫も察知したのか警戒を解く。
その瞬間、どこからか雪菜目掛けて何本もの矢が飛んできた。不意を突かれた雫は辛うじて雪菜を庇い矢を弾き返したが、その破片が目に入り怯んでしまう。
その隙を逃すまいと、木陰から五人の男が飛び出してきた。皆神主の様な格好をしていて、手には薙刀を装備している。町で出会った集団だ。
「救世主様! 早くこちらへ!」
「人食いに惑わされてはなりませぬ!」
五人の中でも背丈の良い二人が口々に叫んだ。おそらくあの集団は雫のことを人食いと呼んでいるのだろう。鋭い眼光で雫のことを睨んでいる。
「誤解だよ、雫さんはそんなんじゃないって!」
雫の前に立ち説得を試みる。しかし、集団は聞く耳を持たない。
「誤解されているのはあなた様の方です! 後ほど説明いたします。今は大人しくしていてください!」
その声と同時に紬は後方の男へと投げ飛ばされた。
「この際忌み子はどうでもいい! 人食いを討て!」
その掛け声と同時に集団は一斉に雫に飛び掛かっていった。雫は四人を相手取っているのにも関わらず、一歩も引いていない。
遅れて紬を受け止めていた男も走り出す。少しでも雫の負担を減らそうと、紬はその男の足にしがみ付いた。
「何故邪魔をするのです! 四本腕は危険な存在なのです、わかってください!」
そう言いながら男は勢いよく紬がしがみ付いている足を振った。その勢いで紬が地面に転がる。すると、雫が丁度そこに矢が飛んできていることに気が付いた。間一髪のところで庇ったが、足に矢を受けてしまった。
「雫さん!」
「私は平気です。それより、あの子を連れて家まで逃げてください。私もすぐに追いつきます」
それだけ紬に耳打ちし、雫はまた集団を相手取り始めた。
「やだ、置いていけないよ!」
雪菜を抱き寄せながら紬が言う。しかし、雫はもう返事をする程の余裕は無いのか無反応だった。
その時、遠くの方から前にも聞いたことのある轟音が聞こえだした。黒い水だ。前回とは違い、川の様に縦長になって流れてきている。
避ける間もなく紬と雪菜は呑まれてしまった。
※
気が付くと紬と雪菜の二人は雫家の庭で寝ていた。何が起こったのかと飛び起きる。すると、横で寝ている雪菜と、目の前でふよふよと浮かぶ黒い水で出来た玉が見えた。
「起きたか」
玉が喋りだす。驚いたが今はどうでもいい。雫がどうなったのか尋ねる。
「あいつは捕まっちまったよ。そろそろ処刑されるぜ」
一気に血の気が引いていくのがわかる。雫が処刑される? それだけは絶対に阻止しなければ。その一心で玉を問いただす。
「雫さんはどこ⁈」
「落ち着け。お前なんかが行っても意味はねぇ。それと、先に言っておくが俺も役に立たないからな。視力悪いし」
確かにもう殆ど日が落ちている。目らしきものは見当たらないが、そういうものなのだろう。
「雪菜が案内する!」
またしてもいつの間にか起きていた雪菜が声を上げた。
「前に処刑されそうになったことある! 独房なら案内できるよ!」
平然と物騒なことを言っていたが今は聞かなかったことにしておく。
「駄目だ。ガキ二人で看守をどう突破するつもりだ?」
「うるさいなさっきから! 黙ってて!」
「そう怒るなよ。力を貸してやるって言ってんだ」
そう言った玉はふよふよと浮かびながら紬に近づいて行った。




