第八話 晒木綿
襖の向こうから、高い女の声が響いた。
「準備が整いましてございます」と言った。
重蔵は「ふん、まず儂から手合わせ願おうかな」と鼻息を荒くし、いやらしい期待を瞳に宿しながら戸を開け放った。だが、彼が踏み込んだ空間に、欲情をそそる遊女の甘い匂いは微塵もなかった。
重蔵たちが目にしたのは、欲情をそそる遊女の接待部屋ではなく、板張りの間にうす暗い行灯が並ぶ殺伐とした空間だった。そこにあったのは、丁半博打を仕切る板敷きと、血走った目を剥く博徒たちの姿である。
「なんだ……そういうことか。陣十郎、丸も入れ。」
繁華街の喧騒から遠く離れ、人目につかないこんな場所に建てられているのには明確な理由がある。万が一のお縄や手入れが入った際、「うちとは無関係の勝手な不法占拠だ」と、背後に控える暴力組織がいつでもトカゲの尻尾切りができるよう、あえて境界線のすれすれ、管理の及ばない端っこに建てられた違法賭場――いわゆる「潰し小屋」だった。
重蔵はあからさまに落胆し、どっと肩を落とした。スケベな接待を期待していただけに、拍子抜けした顔で鼻の頭にしわを寄せる。だが、元より商売とは欲と運を天に任せる大博打の連続だ。勝てば笑いが止まらず、負ければすべてを失うスリルは、欲の皮が突っぱねた商人の重蔵にとって嫌いなものではない。博打の才覚そのものは大したことがないものの、「金が絡む勝負」と聞けば、途端に血が騒ぎ出すのが彼の性分だった。
半丁博打の熱気が、殺伐とした空気の中で脈打っている。背後に控えるヤクザ組織の影を背負ったその場所で、真相を探るための本当の修羅場が、静かに幕を開けようとしていた。
「まあいい、儂も博打は嫌いではない。一勝負乗ってやろうじゃないか」
重蔵が気を取り直して懐から財布の紐をまさぐり始めたその時、先ほどの狐目の女が、羽織っていた着物をグイと肩から落とした。胸元から腹にかけて固く巻きつけた白い晒が露わになり、女は不敵な笑みを浮かべながら壺と賽子を手に取った。実は彼女こそ、この闇賭場を取り仕切る凄腕の壺振り師だったのだ。
同じ様に目を細めて笑っても、先程までの妖艶な印象とは違って、どこか凛々しく覚悟が決まって見える。
重蔵は顎を擦りながら呟いた。
「おや、こりゃ目に良い博打だな」
女が慣れた手つきで壺をシャカシャカと振り鳴らすと、周囲の空気が一気に凍りついた。
その異様な熱気の中、賭場の奥からずしりと重い地響きのような足音が響き渡る。現れたのは、浅黒い顔面に深い刀傷を持ち、いかにも場数を踏んだ凶相の男だった。分厚い腕を組み、腰には異様に反りの深い「ドス」をこれでもかと誇示するように差している。その威圧感だけで、一般人なら足がすくむような殺気が漂っていた。
しかし、その男の姿を見た瞬間、丸の冷徹な双眸が一瞬だけ鋭く光った。
丸の目は、男が帯びているその恐ろしげなドスの「構造」を寸分違わず見抜いていた。
(ハッタリだな……)
柄と刀身を繋ぐ木の部分は、乱暴な扱いや経年劣化ですでに痛んでいる。その上ドスは鞘を作る為の一時的な仮木の柄である。糊付けされだだけの取っ手のあんな代物を本気の斬り合いで使えば、わずか一合打ち合った衝撃だけで柄の接着が剥がれてしまい、刃身がすっぽ抜けて自らの手を深く切り裂くか、使い物にならなくなるのは明白だった。あれは本物の殺し合いの道具ではなく、素人や気弱な者を脅すための「こけおどし」の虚勢に過ぎない。
(それに比べて……)
丸は、壺を振るう狐目の女へと視線を移した。先ほどから淡々と賽子を操るその女。その女の後ろに置かれているドスにはしっかりと固く晒布が巻かれている。右手首にも同じくサラシが巻かれている。また、無駄のない立ち振る舞いを見ればわかる。本気で人を斬り伏せる人間は、あの女のように柄や握りの部分を麻紐や晒でぐるぐる巻きにし、強度と確実性を徹底的に補強しているものだ。
男の腰にあるドスがただの飾りだとすれば、いざとなれば本当に容赦なくドスを抜いて命を奪いにくるのは、むしろあの冷徹な狐目の女の方だ。丸は瞬時にそう見抜いていた。
この裏賭場で、一触即発の勝負と刃の気配が静かに交錯しようとしていた。




