第六話 朧銀
月が高く登った頃、屋敷のあてがわれた部屋の布団に横たわりながら、丸は静かに今日の出来事を振り返っていた。
初めて人を斬った。
獣を仕留めたことはこれまでもあったが、意思を持ち、言葉を発し、生き延びようと足掻く「人間」を討ち取ったのは今日が初めてだ。しかし、丸の胸に湧き上がる感慨は奇妙なほどに薄かった。
獣も人間も、本質的には大して変わらない。どちらも剥き出しの「生きたい」という欲望を抱え、ただ命の灯火を燃やしているだけだ。その広大な営みの中で、たまたま今日、この道すがらで俺と刃を交える運命にあった。ただそれだけの話だ。
――俺は、俺の前に立ち塞がり、命を奪いに来る者あらば、相手が誰であれ容赦なく勝ちに行くだろう。
脳裏に、かつて故郷の道場で過ごした日々がよぎった。三度も破門を言い渡された、あの竹刀の試合の記憶だ。道場の連中が言っていたほど、あの場が「ぬるすぎた」わけではないかもしれない。だが、型や礼儀の枠内で競い合うよりも、今夜のように剥き出しの殺意と命がせめぎ合う勝負のやり取りの方が、自分の性に合っている。いや、というよりは、それが自然な事に思えた。
強くなりたいと願い、そこだけに執着するとは、そういうことなのだ。己の刃をただ純粋に研ぎ澄まし続けること。
納得のなかに静かな充足感を覚えながら、丸は床に伏し、深い眠りへと落ちていった。
その夜、丸は夢を見た。
朝になり、目を覚ましたとき、確かに夢を見たという確かな感触だけが脳裏に残っていた。だが、肝心の内容は不思議なほどに思い出せない。ぼんやりとしたやわらかな色彩と、冷たい鋼の匂いだけが微かに名残をとどめている。そして、覚えているのは優しく柔らかい、しっかりとした何かに、包まれていた感覚だけだ。商人の家の布団がせんべい布団ではなく、質の良いものだったことも関係しているやもしれぬが、それ以上に自分が何かに守られている感覚を味わった。しかし、それ以上のことは解らぬ。夢の全貌は朝霧の彼方へ消え去っていた。
枕元の刀に視線をやりながら、丸は無言で起き上がり、新しい一日の支度を始めた。
朝日が岡山城下の町並みを照らし始める頃、重蔵は丸と陣十郎を引き連れて、昨日の取引相手である商人の屋敷へと足を踏み入れた。
前日の夜の件の男、「ガマガエル」――重蔵が恐れていた取引相手の親分は、まさにその通りの風貌だった。ずんぐりと肥えた体に、濡れたようにギョロついた目玉。だが、重蔵がどれだけ声を荒らげて前夜の襲撃と刺客の件を糾弾し、「昨夜の一件、貴様が刺客を放ったのだろう!」とまくし立てても、ガマの親分は相手は一歩も引かなかった。
「おやおや、物騒な言いがかりはやめてもらいましょう。野盗が出たのは不運でしたな。証拠もないのに人を人殺し扱いするとは、商人の信用に関わりますぞ」
親分は作り笑いを浮かべ、完全にシラを切った。勘や状況証拠だけで詰め寄る重蔵では、狡猾な商人の前では言いくるめられてしまうばかりだった。丸は一言も発せず、冷ややかにそのやり取りを見つめていた。追及の決定的な証拠がない以上、ここで暴れても「言いがかり」にされてしまう。
重蔵が歯噛みしながらすごすごと引き下がると、ガマの親分は続けた。
「まあ、そう怒りなさるな。そんなに血の気が多いなら、気分転換にでも街外れの小屋へ行ってみなされ。面白いもんに出会えましょう。あそこには儂の知り合いが居ります故、あらかじめ口利きをしておいてやるから、今日の夕刻にでも楽しんできなされ」
重蔵はまだ怒りが収まらず怒鳴り返した。
「そんなものはどうでも良いわ!こちらは命を狙われたのだぞ!」
「まぁまぁ、心中穏やかで居られぬのも致し方なし、しかし儂はこの後昼の商いがあります故これにて失礼。ところで、この近くに本場讃岐(香川)から流れてきた主人の営む評判のうどん屋がある。そちらで落ち着かれてはいかがかな。」
そう言い残すと、ガマの親分は足早にその場を立ち去ってしまった。
不完全燃焼のまま店を追い出された三人――重蔵、陣十郎、そして丸は、どこか釈然としない重苦しい空気をまとったままであった。
重蔵は腹の底では怒りがくすぶっているものの、朝から騒動に巻き込まれっぱなしで、ろくに口に物を入れていない。歩くうちに、それぞれの胃の腑から空腹を告げる音が情けなく響いた。
「……くそっ、あのガマガエルめ、覚えておれ……!」
吐き捨てるように悪態をつきながら、重蔵がふうと大きな溜息をつく。
「旦那、いくらここで腹を立てても始まりません。まずは腹に入れましょう。頭を働かせるのはそれからです」
陣十郎がそう言ってあごをしゃくった。その視線の先にあるのは、湯気がもうもうと立ち上る、軒先のうどん屋だった。出汁の力強い香りが、腹ペコの一行の鼻腔を容赦なくくすぐる。三人は店内へと足を進めた。




