第四話 水心
血振るい一つせず、丸は静かに佇んでいた。凄惨な一撃を放った直後だというのに、その呼吸には微かな乱れすらなく、ただ氷のように冷たい殺気だけが薄闇の山道に満ちている。刃の半ばまでを覆う広大な刃紋が、生々しい血の滴りとともに妖しく月明かりを反射していた。
その異常なまでの静けさと圧倒的な死の気配に、残っていた野盗たちは完全に戦意を喪失した。得物を構えたままカタカタと震え、互いの顔を強張らせると、彼らは声にならない悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように退散し、黒い木立の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った山道で、丸は刃紋を覆う血を拭い鞘に納めると、腰が抜けたまま尻餅をついている重蔵の元へゆっくりと歩み寄った。懐を抱え込んだまま震える商人に、丸は無言で片手を差し出し、力強く引き起こす。
「……あ、危ないところであった。感謝するぞ。命の恩人だな」
重蔵は直前までの死の恐怖で膝をガクガクと震わせ、顔面を蒼白にしていたが、雇い主としての虚勢を張るように、なんとか強気の口調を作って言い放った。
「怪我がなくてよかった」
丸は淡々と短く返し、重蔵と、そしてもう一人の用心棒である陣十郎へと静かに視線を向けた。
陣十郎は内心、丸のあまりにも冷酷で実戦的な太刀筋に激しく戦慄していた。あれは道場で素振りを繰り返しただけの剣ではない。躊躇いや見栄というものを完全に欠落させた、ただつよさを求め最適化された純粋な暴力だ。若造だと侮っていた己の浅はかさを恥じつつも、年長者としての意地からその動揺を必死に隠し、陣十郎は顔に飛んだ返り血を手の甲で乱暴に拭い去った。
陣十郎は懐から手拭いを取り出して、雇い主重蔵へ差し伸べた。
「旦那様、これを。返り血や土汚れをお拭き下さい」
そして、周囲の暗がりへ鋭い視線を送って、手遅れの警戒姿勢をとってみせた。
そんな二人の様子には見向きもせず、丸は自身が斬り捨てた野盗の死体の傍らにしゃがみ込んでいた。彼が手を伸ばしたのは、野盗の骸のそばに転がっていた一振りの刀である。丸は泥に塗れた鞘を拾い上げると、無造作に鯉口を切り、刀身をすりと抜き放った。
チリン、と冷たい音が鳴る。丸の鋭い双眸が、その刃の曇り具合や刃こぼれ、そして柄に巻かれた糸の擦れ具合を舐めるように見つめ始めた。実戦の理屈を知り尽くした丸の目は、この何気ない野盗の遺留品から、彼らがただの山賊ではないという決定的な違和感を、すでに静かに掬い上げようとしていた。
「もう暗くなる。急いで戻りましょう」
陣十郎が先陣を切り一行は足早に帰路を急いだ。山道に完全な夜の闇が落ちる前に、無事に城下の重蔵の屋敷へと辿り着いた。
重蔵は抱え込んでいた小判を厳重な鍵のかかった奥の蔵へ収めると、ようやく心底からの安堵の息を吐いた。
そして死線での冷や汗と血の臭いを落とすため、重蔵はそのまま湯屋(銭湯)へと向かった。引き続き警護の任に就いている陣十郎と丸も、周囲に目を光らせながらそれに続く。
湯気が白く立ち込める洗い場で、丸と陣十郎は体にこびりついた生臭い返り血を桶の湯で念入りに洗い流した。ざぶり、と広い湯船に身を沈める。張り詰めていた神経と酷使した筋肉が熱い湯にほぐされ、ようやく一息ついたような安堵感が広がっていく。
隣で湯に浸かっていた陣十郎が、ふうと太い息をつきながら渋面を作った。彼の胸元には、以前の警護で負った生々しい刀傷が走っている。傷口自体はすでに塞がっていたものの、こうして熱い湯に浸かると、肉の奥がジンジンと熱を帯びて疼くのだ。陣十郎は痛みを誤魔化すように湯を手ですくうと、不意に思い出したように丸へ尋ねた。
「貴様……先ほどは、あの野盗の骸のそばで何をしていたのだ?」
丸は目を閉じて肩まで湯に浸かったまま、一切の感情を交えない淡々とした声で答えた。
「残された刀を見ていた。どうも、何かが引っかかる」
「引っかかる、だと?」
「ああ。山をねぐらにする粗野な山賊にしては……あの男たちの刀は、刃こぼれもなく、手入れが行き届いていた」
丸の言葉に、陣十郎の動きがピタリと止まる。
「それに」と、丸はゆっくりと目を開け、湯けむりの向こうで呑気に手拭いを頭に乗せている重蔵の背中を冷ややかに見つめた。
「刀の柄に巻かれた糸も、一切のほつれがなかった。野山を這い回る者なら木枝により乱れる筈だ。町を歩く者の刀のようであった。あれは山賊などではない。どこかの裏筋で飼われている、刀の扱いに慣れたゴロツキに思える」
湯船の熱気とは裏腹に、陣十郎の背筋に冷たいものが走った。




