第十八話 宵盃
陣十郎は目の前にピタリと止められた切っ先を見つめ、ゆっくりと大きく息を吐き出した。歴戦の猛者らしく、己の完敗を認めるその態度に未練や言い訳は一切なかった。
「ああ……参った」
その短い言葉が庭に響いた瞬間、丸はピクリとも表情を変えることなく、手にした木刀をスッと下ろした。相手が降参した時点で攻撃を止めるという事前の取り決め通り、丸の全身から立ち上っていたあの息詰まるような冷たい気配も、瞬時に霧散していく。
丸は静かに一歩踏み出すと、前のめりに地面へ倒れ込んでいた巨漢に向けて、無言のまま手を差し出した。
陣十郎はわずかに目を丸くしたが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべると、その分厚く無骨な手で丸の腕をしっかりと握り返した。丸の細身の体のどこにこれほどの力が潜んでいるのか、陣十郎の重い体躯がスムーズに引き上げられる。
互いに土埃を払い体勢を立て直すと、二人は木刀を下げたまま起立の姿勢をとった。夕闇が迫りつつある庭先で、二人は正面から真っ直ぐに向き合う。そして、深く静かに一礼を交わした。
先ほどまで渦巻いていた死闘めいた緊張感は嘘のように消え去り、そこには同じ屋敷で命を張る用心棒同士の、確かな敬意と清々しい静寂だけが残っていた。
陣十郎は袴の膝についた土埃を払いながら、太い首を捻って豪快に苦笑した。
「……力と力の鍔迫り合い、純粋な腕力勝負なら、圧倒的に俺の方が有利だと思ったんだがな。まさかあんな見事にいなされるとは、思いもしなかったわ」
己の巨体と膂力に頼りすぎたことへの反省を込めた陣十郎の言葉に対し、丸は驕ることもなく、淡々と事実だけを述べるように答えた。
「ああ、俺もそう思う。まともに力で張り合えば、間違いなく俺が押し潰されていた」
だからこそ、力と力がぶつかり合う一点からふっと自らの力を抜き、相手の巨大な推進力をそのまま自壊させる道を選んだのだ。丸の言葉には勝者としての嫌味も、過剰な謙遜も一切ない。ただ冷徹に戦力差を見極め、最も確実な生存の手段を選び取っただけの事だった。陣十郎は、見栄も矜持もかなぐり捨ててただ合理的に立ち回るこの男を見つめ、改めて実践における本物の恐ろしさを噛み締めていた。
夕闇が完全に屋敷を包み込む頃、丸と陣十郎は井戸端で汗を流し、揃って重蔵の待つ奥座敷へと向かった。
部屋にはすでに燈台の火が灯され、帳簿から顔を上げた重蔵が、手ぬぐいで首筋を拭う二人に視線を向けた。
「……終わったようだな。陣十郎、怪我はないか?」
「へえ。丸の凄まじい太刀筋に、あわや喉を吹き飛ばされるところでしたが、どうにか五体満足で戻ってまいりました」
陣十郎が苦笑交じりに報告すると、重蔵はほうと息をつき、丸に座るよう促した。丸は刀を傍らに置き、静かに胡座をかいた。
「それで、丸。陣十郎から少し聞いたが、あの『狐目の女』と会ったというのは誠か? 昨日の今日で、妙な動きがなければよいが」
「ああ、その件を話をするつもりだった。」
丸は茶を一口すすり、あの茶屋でキリから聞いた顛末を淡々と語り始めた。
あの賭場がお上の「治水」のための公認の場であること。キリが賽の目を操り、お上の意向で場を仕切っていること。そして、手入れの日にわざわざ自分たちを誘導したガマの親分の真の狙いが、重蔵たちを牢にぶち込むか、闇に葬ることだったという事実を。
話を聞き終えた重蔵の顔から、さっと血の気が引いていた。
「やはり……なんという狡猾な。あのガマめ、ただ私に恥をかかせるだけでなく、お上の手入れを利用して私を根絶やしにする腹づもりだったというのか」
重蔵は震える手で膝を強く握りしめた。かつては自らも利益のためなら危うい橋を渡る強欲な商人であったが、裏社会の底なしの悪意と権力が結びついた恐ろしさを、これほどまざまざと見せつけられたのは初めてだった。
「利益の裏には、必ず誰かの悪意が潜んでいる……。丸、お前があの場で無闇に勝負に乗らず、冷静でいてくれたおかげで命拾いした。もう二度と、憎きガマの口車には乗らん。地道に、だが確実にこの店を守り抜くつもりだ。」
「妥当な判断だ。だが、ガマがこれで手を引くとは思えん。備えはしておくべきだ」
丸の冷たい声に、陣十郎も深く頷いた。屋敷の夜風が、これから始まるさらなる波乱を予感させるように、燈台の炎を静かに揺らしていた。
静けさを破るように重蔵が口を開いた。
「ところで、丸、お主狐目の女に中々好かれているようだな。他に何か言われていないか?」
丸はしっくり来ていない様子で淡々と答えた。
「そうなのか?また飯屋にでも行こうと誘われはしたが……。油断も隙も無い女だから俺は落ち着かん」
「ほう、なかなかやるではないか丸!野生の勘は鋭くても、そういう所は鈍いのだな」
陣十郎が咳払いをして、歯に物が挟まったような言い方で、顔を赤くしながら割って入った。
「ゴホン、丸よ、次回があるなら、今度は俺も、ど、同行するぞ。……なんだ、その、二人なら危ない動きがないか警戒しやすいしな」
「ああ、俺は構わない」
重蔵は手を叩いて笑いながら言った。
「はっはっはっ!結構結構!まぁ、狐目の女はお上にも信頼されているようだし、仲良くして損は無かろう。今後も何かわかり次第、逐一知らせてくれ。」
そう言いながら台所へ立つと、酒を一升取り出してきた。
「その話を肴に一杯やろうではないか」
そう言って杯を差し出す重蔵に、陣十郎も丸も付き合うことにした。
その晩は、酒を酌み交わしながら話に花を咲かせ、いつになく賑やかな夜となった。




