第十五話 稽古
二人は団子と茶を平らげると、席を立って店を後にした。丸は自分の分だけでもと懐に手を掛けたが、桐は「いいの、私が話をしたくて誘ったんだからさ。こういうときは可愛いお姉さんに甘えちゃいなさい」と言い放ち、気風よく自分の財布から代金を支払ってしまった。
「じゃあね、またどっか遊びに行こう。またね」
桐はひらひらと手を振り、まるで幻でも見たかのように、気づけば雑踏の人並みの中にふわりと溶け込むように消えていった。気配を残さぬその消え方は、まるで狐にでも化かされたかのような、現実感の薄い不思議な時間だった。
丸はそのまま十蔵の屋敷へと戻り、夕刻に控える陣十郎との木刀の稽古に備えて、自室で刀の手入れと心の準備を整えることにした。
庭先を通りかかったとき、ちょうど手頃な素振りを終えたらしい陣十郎が声をかけてきた。
「おい丸、どこへ行っておったのだ?」
「ああ、昨日のあの狐目の女に声をかけられてな。近くの茶屋で茶をしばいてきた」
丸が淡々とそう答えた瞬間、陣十郎はカッと見開いた目をさらにひん剥き、全身をわなわなと震えさせた。
「な、なんだと……!? お前、それは……! それはもしや、相引き(あいびき)というやつではないのかっ……!」
しかも相手がよりによって、あの危険な「昨日の狐目の女」だと知るや否や、陣十郎は顔面を青ざめさせながら「どういうことだ、丸、詳しく聞かせろ!」と鬼の首を取ったように迫ってきた。しかし丸は、面倒くさそうに一瞥をくれると、
「二度同じ話を説明するのは長くて面倒だ。あとで十蔵も交えて、まとめて話す」
と一蹴した。陣十郎は釈然としない様子で「ぬぬぬ、ぬぬぬ……!」と唇を噛み締め、納得いかないといった悔しそうな顔を歪めてみせたが、これ以上は聞き出せないと悟って歯噛みするばかりだった。
さて、それはそれとして――。
約束の夕刻が訪れる。
「よし、丸。手合わせの時間だ」
庭の一角に立ったベテラン用心棒・陣十郎が、愛用の木刀を構えて静かに息を整えた。
実戦さながらの緊張感をまとった、二人の手合わせの試合が、いま始まろうとしていた。
陣十郎は木刀を軽く地に突き立て、構える前に丸をまっすぐに見据えて釘を刺した。
「おい、聞いておくぞ。これはあくまで怪我のないようにするための稽古だ。一つルールを決めておこう。相手が『参った』と言ったら、そこで一切の攻撃はなしだ。いいな、絶対に手加減なしの殺し合いのようにはするなよ。……それで、よろしいな?」
丸は静かに木刀を構え直すと、「ああ、わかった」と短く頷いた。
この事前のルール確認があったからこそ、二人の間に明確な一線が引かれた。もしこの取り決めがなければ、仮に丸が一度の一本をとって優勢に立ったとしても、敵が完全に沈黙し、自身の脅威が完全に消失したと自覚するまで、丸の容赦ない追撃や圧倒的な殺気は決して止まらなかったはずだ。
結果として、この陣十郎による「手加減と降参のルール」の提案こそが、後の展開において、ほかでもない陣十郎自身や丸自身の身の安全を救う最大の防壁となるのだった。
互いの木刀が夕暮れの微光を浴びて鈍く光り、静まり返った庭先で臨戦態勢が整った。
「それでは、始めっ!」
陣十郎の太い号令が乾いた空気を切り裂く。同時に、二人はじりじりと足音を忍ばせながら間合いを詰め、互いの出方を窺うように円を描くように動き出した。
その張り詰めた空気の中、木刀を構えながら、陣十郎の脳裏にはこれまでの丸の姿が次々と去来していた。
(……構え自体は隙のない正統派だが、この男の本質は果たしてどこにある)
これまでの道中を振り返れば、丸が正々堂々の一対一の勝負にこだわった姿など一度も見たことがない。野党との乱戦の中、突如として割って入り、迷いなく敵の急所を断ち切ったあの瞬間の判断力。あの捨て身の立ち回りがなければ、自分は野党相手に遅れはとっていないにしても、相手が複数人であったし、多少は苦戦を強いられたはずだ。一瞬の狂いもない合理性と、冷徹な身のこなし――。
(あれはただの腕利きの所業ではない。……こいつの底には、常軌を逸した狂気が宿っているに違いない)
歴戦の用心棒である陣十郎の肌が、本能的な警告を発していた。しかし、だからこそ油断はできない。値踏みするような鋭い眼光を丸に向けながら、陣十郎は呼吸を整え、最初の一歩を踏み出すタイミングを測り続けた。




