第十一話 切目
戸締りを終えると、重蔵は重い腰を長火鉢の脇に下ろし、「ふう……まったく、間一髪だったわい」と、深く息を吐き出して冷や汗を拭った。
一息ついてから、頭を冷やして冷静に振り返ってみれば、昨夜の出来事のすべてがガマの親分の周到な掌の上だったように思えてならなかった。手を変え品を変え、こちらを挑発しては泥沼へ引きずり込む。あんな得体の知れない男と関わってからというもの、厄介事と命の危機の連続で、さすがに心身ともに疲弊しきっていた。
(もういい、しばらくはあのガマの野郎と関わるのはよそう……。あんな奴の土俵にこれ以上近づくものか)
重蔵はガクリと肩を落とし、隠居でもしたかのような諦めの色を浮かべた。しかし、その老練な胸の奥の底では、ふつふつと黒い炎がくすぶっていた。
(だがな……今に見とれ、ガマめ。いつかその厚いツラの皮を剥いでやる。丸裸にして地べたを這いずり回らせてやるその時を、心底楽しみにしているぞ……)
この一連の騒動と命の危機は、商売人としての重蔵の心に、小さくない変化をもたらしていた。
これまで、商売とは騙し騙され、相手からいかに一文でも多くせしめ、巻き上げてやるかの駆け引きだと思っていた。自分がカモを食い物にする側だったうちは笑っていられたが、いざ自分がガマのような者にいいようにカモにされ、命まで脅かされる側になってみて初めて知った――他者をハメて奪うということが、これほどまでに辛く、そして深い恨みを買う行為であるということを。
(わずかな利ザヤや少額の金を得るために、ここまで命を削り、凄まじい恨みを買うのは……商売のやり方として、まったくもって割に合わんし、得策ではないわい)
幾たびも死線をくぐり抜け、命の危機と引き換えに手に入れたその教訓は、重蔵にとってあまりにも高く、そして痛すぎる勉強代であった。
そうして緊張が少しだけ緩んだその日、大がかりな商談や厄介な取引の予定は入っていなかった。手持ち無沙汰となった丸には、自由な時間が与えられた。
昼下がりの縁側で、陣十郎は愛用の木刀を布で拭きながら、傍らに立つ丸に声をかけた。
「なぁ、丸。今日の夕刻あたり、軽く稽古でもせぬか。もちろん木刀で、怪我をしない程度にな。……不躾な話だが、あの修羅場を涼しい顔ですり抜けるお前と、一度真剣にやり合ってみたいと思ってな」
丸は静かにうなずくと、「ああ、構わない」と快く承諾した。
夕暮れまでの時間、まだ見知らぬ岡山城下の街並みを少し歩いてみることにした丸は、ひとり表通りへと足を踏み出すのだった。
人の往来が多い城下町は丸にとって新鮮で、人が多くて賑やかで、地元の山や川の見える風景と全く違うなと肌で感じていた。
丸が城下町の一角をあてもなく歩いていると、賑やかな往来の向こうに見覚えのある横顔をとらえた。
――狐目の女。
昨夜、あの薄暗い潰し小屋の鉄火場で不敵に賽子を振っていた壺振り師であり、賭場の支配人その人だった。
(……なぜ、あいつがここにいる?)
丸の足が自然と止まる。当時、賭博はご法度であり、昨夜はお上の手勢が踏み込んで大騒ぎになったはずだ。賭博の元締めに近い人間であれば、そのままお縄に頂戴されるか、少なくとも厳重な詮議を受けている頃ではないのか。お日様の下で、平然と誰かと買い物を楽しんでいる姿など、どう考えても辻褄が合わなかった。
(昨日の今日で、まだ騒ぎも収まっていないというのに……。ここで余計な面倒に巻き込まれるのは得策ではないな)
丸が静かに踵を返し、別の通りへ迂回しようとした、その瞬間だった。
「おっ、あんた、昨日の若いのだね」
ざわめく人混みとそれなりの距離があったにもかかわらず、女の鋭い声が丸の耳朶を正確に打った。
(なんという洞察力だ。やはり、この女……ただ者ではない)
逃げる間もなく声をかけられた丸は、わずかに眉をひそめつつも、ゆっくりとそちらへ向き直るのだった。
「昨日のあんた、色々と見事だったね。ちょいと顔を貸しなよ」
そう声をかけられた瞬間、丸の全身にピリリと緊張が走った。
昨日のように踏み込みの隙を突いて逃げようにも、目の前の通りは往来の人々でごったがえしており、思うように身をかわせない。それに、表立った動きを見せれば、この女の背後に控える組織の配下が周囲に潜んでいる可能性も十分にあった。無用な手出しをして騒ぎを起こすより、ここは素直に相手の出方を聞き従っておくのが得策か――。丸は一瞬で状況を算段し、女の誘いに乗ることを決めた。




