第2話:奇妙な男にまつわる回想
先に会話の流れを掴んだのはエイグルだった。彼の回想は至って凡庸な表現から始まった。医者からしてみれば、退屈でつまらない日常。それでも、こういう調べ物はどこで何が繋がるのかわからない。何のとりとめもない農民の生活を、医者は丁寧に記録していく。
目が覚めたのは、空が淡く色付き始めた時間帯。起きてすぐに水を一杯飲んだ。それから顔を洗って服を着替えて、荷物を抱えて畑に出た。その日は畝作りに追い込まれていたので、特に変わった仕事はやっていない。野外でしばらく作業をしてから軽食を食べた。その後は藁の上で昼寝をし、日が落ちてからは鍬の手入れを行った。
「ええと、ここまではいつも通りです」
また、咳。星が喉を痛めつけたからか、エイグルの声はかすれていた。それなら、べらべらと喋らずに要点だけを教えてくれればいいのに。問診票の記入欄はもう半分以上埋まっている。神経質そうな性格を反映させた筆跡は、ひどく細かい字体をしていた。
「その後のことを話してくれよ。いつも通りじゃなかったんだろう?」
患者はゆっくりとうなずいた。この最悪な一日で、普段と違う出来事。それは彼が星を喰らう直前に出会った、見知らぬ人物の存在だった。
「あれは夕方だったと思います。空が暗かったので」
農具置き場の小屋から出たエイグルは、畑の縁に背の高い男が立っているのを見た。ちょうど森と隣接している場所で、薄暗がりの中にいたからひどく驚いたのを覚えている。その人物と目が合ったのだろう。それはふらりとこちらに歩いてきた。村の人間かと思ったが、あれほど挙動不審な歩き方をする者はエイグルの知り合いにはいなかったはずだ。
「だぁ……だぁ……だぁ!」
唐突にエイグルが豹変したのは、その人物の物真似のつもりらしい。もちろん、似ているかどうかの判別は彼にしかわからない。だが、その低い声だけはエイグルの記憶に強く焼き付いていたようだった。
「そんな事を言いながら来るから、怖くなって」
その奇妙な男は近くまで寄るなり、無言になってエイグルを凝視した。エイグルも男を見つめ返したが、ひどく痩せこけた頬骨くらいしか見えなかった。その男に関する情報が少ないのは、彼が目深に被る頭巾のせいだ。
「ずっと何か言ってたような。あれ……どうだったかな。思い出せないや」
不穏な対面の間も、空はどんどん暗くなっていった。男は不意に苦しみだして、また何かをつぶやき始めた。エイグルは逃げたくて仕方なかったが、本能的にこの男に背を向けたくないと感じた。それほどまでに男は不気味だったのだ。
気がつくと、周囲には珍しく星が漂っていた。どこかに星造りでもいるのかと思ったが、それを探す前にエイグルは恐ろしい光景を目撃することになる。
「で、その人が突然星を食べていたんです」
ガーヴェはありえない、とつぶやいて筆記の手を止めた。この国で誰が好き好んで星を喰らうものか。……いや。目の前のこの男も、さっき自分から星を飲み込んだな。ひょっとしたら物好きがいるのかもしれない。ガーヴェは一瞬だけ目を伏せると、再びエイグルに回想を促した。
「まるで、お菓子でも食べるみたいでした」
ごく自然に星を食べた男を見て、エイグルも猛烈な欲求に襲われた。お腹が空いていたからかもしれないが、到底食べられるはずがない星がとても美味しそうに見えてきたのだ。
「で、あんたも星を食べたと」
ガーヴェが確認したが、エイグルの記憶はそこで途切れているようだ。彼は助けを求めるように隣にいる男を見た。エイグルからの無言の助けを受け、サビィは小さく息を吐いた。
「俺ん家はエイグルのお隣さんなんですよ」
今日は夜から灌漑用水路の大掃除についての相談をしよう、とエイグルと約束をしていた。しかし、いつまで経っても隣人は家に来ない。しびれを切らしたサビィが畑に出向くと、一人で倒れているエイグルを発見した。薄暗い畑の畝を照らすように腹部だけが光っていたから、星を食べたらしいことはすぐにわかった。そして、奇妙なことにエイグルの言っていた男はそこにいなかった。
「腕のいい医者がいるって行商人さんから聞いていたので。ここなら治してもらえるかなって……」
星喰らいを治してくれる医者なんてそれほど多くない。二人の住む村の最寄りの診療所がここだったのだろう。彼らに思いを寄せるにつれて、だんだんエイグルのことが不憫に思えてきた。
苦しい思いをして歩いてきた彼らに対して、自分は何だ。金のことしか考えていない最悪な人間じゃないか。ガーヴェは椅子に座ったままのけぞって、天井を仰ぎ見た。板目に沿うように、小さな星がうろついている。
「ああ……忘れてた」
ほのかに輝く光はちょうどいい光源になりうるだろう。ただし、庶民が星を照明代わりに使うのは危険だからと禁じられている。それに、星喰らいの診療所で患者の身体から摘出した星を照明に使うだなんてかなり悪趣味だ。ガーヴェはおもむろに立ち上がって、小さな窓を開けた。
「ほら、出てけ」
星はまるで迷い込んだ羽虫のように不規則な動きをしている。それが窓辺に近づいたと同時に、ガーヴェは星を締め出した。あの程度の星は放っておけば勝手に消える。丘の上なら診療所以外の家屋はないから、誰かが食べることもないだろう。
すっかり暗くなった部屋の中で、家主は手探りで卓上照明を探し、つまみを回した。単純なからくりによって火が灯り、いつも通りの穏やかな様相が部屋に戻ってくる。壁に映し出されるのは三つの大きな影。突然そのうちの一つが揺れ動いて、その場にうずくまった。
「エイグル、大丈夫か?」
名前を呼ばれたことに親近感を感じたようで、彼はちょっと表情を和らげた。安堵の中で血痰を吐き、彼は再びその場に倒れ込む。床に落とされた痰には鮮やかな赤色が絡まっている。……血痰。これは速やかに治療しなければいけない合図だ。血を受け止めるために小さな桶を口元にあてがわせると、エイグルはまた血を吐いた。おそらく、傷んだ喉を酷使したからだろう。
「出すだけ出せ。それから、あんたはもう喋るな」
彼はまだ聞きたいことがあるようだが、医者は首を横に振った。どうしてもと言うならと筆記具を渡すが、エイグルはそれを受け取らない。
「あ、こいつは文字を書けないんです」
サビィが代弁し、ガーヴェは事情を理解した。確かにこの国の識字率はさほど高くない。農村部では五人に一人が読み書きできれば上等な方だ。ともすれば、筆談以外の方法で意思疎通を図るしかない。ただし、言語以外の方法を医者は知らないし、試しようがない。どうしたらいいものかと策を巡らせていると、サビィが遠慮がちに申し出た。
「まあ、こいつの考えていることなら大体わかりますよ」
聞けば、二人は幼馴染なのだという。なるほど。サビィがここまでエイグルを気遣っているのにも合点が行く。そんな友人思いの男の口から飛び出たのは、拍子抜けするほどありきたりな質問だった。
「早く治すためにはどうしたらいいですか、って」
おそらく当たっているのだろう。エイグルがしきりにうなずいている。ガーヴェは二人の顔を交互に見て、小さく息を吐いた。
「ああ、そうだね。彼は喉を火傷しているはずだから……」
医者は喉を痛めた患者全員に同じ注意をしていた。しばらくは刺激物を口にしないこと。熱い食べ物は控えて、消化のいい流動食を摂ること。無茶は控え、仕事も程々にしておくこと。ここ数日ですっかり言い慣れた注意事項を呪文のように詠唱すると、サビィとエイグルは素直にそれを聞き入れた。
「それと、血が止まったら水を飲め。そこの水瓶にたくさん汲んであるから、好きに使っていい」
今朝方、多めに水を汲んできたのが功を奏した。この状態で避けたいのは、エイグルが脱水になることだ。飲まず食わずの状態では回復も遅くなるだろう。患者は淀みない医者の言葉に安心したようだったが、まだ不安そうでもある。サビィは彼の小さな吐息に耳をそばだてて、またエイグルの本心を代弁した。
「また同じ事が起きて星を食べたいと思ったら、どうすればいいでしょうか?」
ガーヴェは静かに口を歪ませた。残念ながら有効な予防策はまだ見つかっていない。つまり、防ぐすべはないのだ。それでも何か答えてやらなければ。心もとない口調で医者がひねり出した答えはこうだった。
「そうだね。エイルの木の枝でも噛んでいるといいよ」
エイルというと、そこら中に生えている常緑の針葉樹だ。その木はまっすぐに伸びることから、天と通じていると信じられている。樹皮を剥いたエイルの枝を噛む、という行為は昔から衝動や欲求を抑えることで有名な民間療法だった。いくらか怪しいが、今は胡散臭い伝承にすがるしかない。
「エイル……!」
輪郭のない声がした。エイグルは木の名前に反応して体を震わせていた。その理由を話そうとするサビィを差し置いて、エイグルが前のめりになって声を上げた。
「俺の名前の……由来の木っす」
エイグルはどこか得意げに言い切って、また血の絡んだ痰を吐いた。ガーヴェは苦々しい顔をして清潔な手巾を患者に与える。エイグルの名前の由来なんてわかりきったことなのに。それがよほど自慢なのだろう。また湿っぽい発作が始まった。
「ああ、馬鹿馬鹿。もう喋るな、寝ろ」
今度の血痰は一回きりだった。症状の治まったエイグルを治療台に横たわらせるやいなや、サビィは小さな唸り声を上げた。
「あんたも災難だったな。ちょっと休め」
拙い語彙でサビィの労をねぎらうが、言葉だけで人間は回復しない。ガーヴェは調理場で白湯を沸かして、二つの器を机上に置いた。残念ながらこの家には茶葉なんていう高級なものは置いていない。貧乏くさい白湯が、この家での最大限のもてなしだった。
身に沁みる、と言いながらサビィは白湯を飲み干した。そして、ガーヴェに心を許したのか、彼は唐突に口を開いた。
「そういえば、さっきのは魔法ですか?」
ガーヴェは言葉を濁したままで明白な答えを示さなかった。あれは魔法と言うほど大仰なものではない。ただし、これができる人間は限られているから、何も知らない人間には魔法のように見えるのだろう。
「……とっても綺麗。まるで《《星造り》》みたいでした」
その単語は、しがない医者の心にくすぶっていた劣等感の炎を再燃させた。
「あ、何だって?」
サビィが羨んでいるのも理解できる。星造りというのは、この夜の国における最高位の役職だ。その名の通り、彼らは身体から星を生み出し、空を照らす光を作る事を生業とする集団だ。彼らは都にある「お屋敷」に住まい、毎朝この国に昼を呼ぶ儀式を行う。つまるところ星造りはこの国の花形であり、民衆の尊敬と憧れを一身に背負う存在でもあった。
かつてはガーヴェも星造りを夢見ていたものだった。星を手から生み出した幼い日のことは今でも覚えている。星作りの才能を持つ人間はさほど多くない。だからこそ、ガーヴェはそのままお屋敷に入って、誰にも負けない名声を手に入れるはずだった。それなのに、彼が今現在都から遠く離れた丘の上で一人ぼっちで生きているのには、ちょっとした事情があったのだ。
「今はその話題は止めてくれないか」
「あ……はい」
サビィは何かを悟って、それ以上の言及をやめた。おそらくはガーヴェが星造りに意地悪をされたのだろうとでも思っているのだろうが、実際はそれほど単純ではない。だが、それを話せるほど患者と医師の間柄は親密ではなかった。
「俺はもう寝るよ。……すまんな」
集中力が欠けて、どんどん目の前がふらついてくる。肉体の疲労は極限まで達し、活動限界はとっくに超えていた。簡素な寝台が一つ置いてあるだけの小さな寝室まで歩くと、ガーヴェは掛布の上で意識を失った。




